ひまわりさんより(7月8日)
今日は、朝から新しい家の外回りの掃除に追われました。私は裏庭の草取り。
夫は、職場の人から借りたジェット洗浄機で、駐車場や壁の汚れ落としをしました。
洗浄機で洗うと、今までの苔と泥の混じった駐車場が真っ白になっていきました。
私も少しやってみましたが、きれいにするのが楽しくて、あそこも、ここもと、どんどんやりたくなってしまいました。
その時、汚れを落とすのがこんなに楽しいのなら、本当は、自分の罪や欠点を正すのは、もっと楽しいことなのではないかと思いました。
今までは、罪を正すなんていやなことだと思っていたのですが、本当は、罪を正すことの方がよほど楽しいことに違いないと、
少しだけ思えるようになりました。
戒めはまず心で守る(デビット・カン講演23)
では、安息日を清く守るというのは、どういう意味なのでしょうか。
それは、安息日を守る人が、十の戒め全部を守っているということを表しています。
誰かを殺していながら、安息日を清く守ることはできませんね。
姦淫を犯していながら、安息日を清く守ることなんかできません。
思いにおいて一瞬姦淫の思いが起きたとしても、もし信仰によって安息日を清く守るならば、
それが神様の律法すべてに従っているというしるしになるわけです。
サインなのです。多くのセブンスデー・アドベンチストが、
この安息日を守るということがどういうことなのかわからないでいます。
十戒の第10条は何でしょうか。最後の戒め、「むさぼってはならない」という戒めですね。
その振る舞いにおいてこの戒めに従おうとします。どうやってこの戒めを守りますか。
「むさぼらない」とは、どうやって守るのでしょうか。心で守るのですよね。
なぜこの「むさぼるな」という戒めを、最後に持ってきたのでしょうか。
それは本来、神様の戒めは、まず心で守るものだということを教えるためでした。
心の体験なのです。