ひまわりさんより(7月18日)
今日の日課にはこのように書いてありました。「キリストはご自身の義で罪を覆うようなことはなさらない。
しかしこのお方は罪を取り除かれる。そしてその代わりにこのお方はご自身の義をお与えになるのである。
あなたの罪が清められる時、キリストの義はあなたの前を行き、そして主の栄光があなたのしんがりとなる。
あなたの感化力はそのとき、決定的にキリストの側に立つ。なぜならあなたは、自己を中心とする代わりに、
キリストを中心とし、そして自分を聖なる委託物の保管者だと感じるようになるからである」。
キリストの義というと、罪に汚れたものを覆い隠すようなイメージを、長い間持っていましたが、
そうではなく、気付いた罪を取り除いてくださる恵みなのです。何というすばらしい恵みなのかと思います。
カン先生もこのことを強調しておられます。
神様に従う(デビット・カン講演33)
私たちが、お互いに接するとき、そして、いろんなことを語ったり、行ったりするとき、私たちは、
イエス・キリストを反映すべきであります。それをする時、私たちは本当の意味での安息日遵守者となるのです。
これこそが、「生ける神の印」なのです。
私たちは、なぜ第7日安息日に、教会にやってくるのでしょうか。
神様がそうしなさいと言われたからです。私たちは、神様の云われるとおりに生きる者なのです。
時にはその理由がわからないこともあるでしょう。
しかし、神様に自らをあけ渡すとき、神様の言われることが何であれ、それに従うべきです。