ひまわりさんより(1月4日)
新しい年を迎えましたが、朝の日課は、『キリストを映して』読み返しています。今日の言葉をご紹介します。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』」(ヨハネ7:37、38)。イエスのみことばを聞いたものの中には、望みを失って嘆いている者や、ひそかな悲しみを心にいだいている者や、やむことのない心のあこがれを世俗の事物と人々の称賛によって満たそうとしている者が多かった。だが彼らは、これらのものをすべて手に入れたとき、自分のほねおりによって到達したものはかわきをいやすことのできないこわれた水槽にすぎないことを知った。はなやかな歓喜の光景のさなかに、彼らは不満と悲しみのうちに立っていた。「だれでもかわく者は」というその突然の叫びが、彼らを悲しい思いからよびさました。そしてそれに続くことばを聞いたとき、彼らの心には新しい望みの火がともった。聖霊は彼らの前に象徴を示されたが、ついに彼らはその中に無限の価をもった救いの賜物が提供されているのに気がついた。かわいた魂に対するキリストの叫びはいまもなお出されており、それはあの祭りの最後の日に宮で聞いた人々に対するよりももっと強い力でわれわれに訴えている。イエス様はこの時、「叫ばれた」と聖書にあります。イエス様が叫んで言われたのですから、一番言いたかったことではないかと思いました。イエス様の水を飲むとは、み言葉が大好きになり、イエス様の言われることを第一にしたいという心ではないかと思います。み言葉の真理を知ると、心のむなしさがなくなっていくのだと思います。
敵を愛する心2 (デビット・カン講演8)
私を闇に葬るために、私を悪魔呼ばわりして、ありとあらゆる、ありもしない噂を流されたにもかかわらず、私はそういった人達に対して恨みを抱くことはありませんでした。私の人格、品性を傷つけるような事もされました。私を悪魔のような、利己的で高慢な人間だというデマが流されたわけです。異端を語り、神様のお金を盗んでいるといった、ありとあらゆる噂、デマを流されました。デビット・カンは韓国に2人の妾がいるという噂を流されました。そのようなデマ、非難を流されました。しかし、神様の恵みよって、そういった噂を流す人たちに対して、苦い思いや、恨みつらみを抱くことはありませんでした。私の心は常に神様によって平安でありました。安んじることができたのです。安息日のような安んじる経験ですね。そして、イエス様が私の魂にとってますます親わしいお方として感じられるようになりました。