ひまわりさんより(1月18日)
今日は、お昼御飯も食べないで仕事をして、午後3時には仕事を終わり、家の近くのスーパーに買い物に行きました。おなかがぺこぺこだったので、何か食べたいと思いました。こんな時、私はだいたい、体に悪いスナック菓子がむしょうに食べたくなります。スーパーの棚から、あっという間に、「○○スナック・バーベキュー味」というのを取ってかごに入れていました。その瞬間、私の頭に、「飲むにも食べるにも主の栄光のためにすべきである」という言葉が浮かびました。私は思わず、「ハハーッ」という感じで、スナックの袋をもとに戻していました。でも、おなかはすいているし、家には食べるものは何もないし、どうしようと思って、スーパーの中を歩いていたら、ノンオイルで無塩のミックスナッツを売っていました。私にとっては、一番欲しい、必要なものが備えられていたのです。神様がダメと言われるときには、もっと良いものを用意してくださるのだということを感じました。そして、イエス様が心のうちに住んでくださるというのは、み言葉を心のうちに蓄えておくことではないかと思いました。
安息日は救いのしるし(デビット・カン講演22)
なぜ終末において、安息日を守ることが神の印となるのか、わかっていないのです。なぜ世のすべての人のテストとなるのか、安息日を守るということがわかっていないのです。安息日を守るということは、外見上のしるしで、それは、内部の経験が外に現れたものです。割礼のようなものですね。神様は、アブラハムの子孫に、割礼を受けるようにと指示されました。割礼を受けていなければ、天使たちによって殺されたのです。割礼というのは外側のしるしに過ぎなかったのに、なぜそのように大事にされたのでしょう。
なぜならそれは、福音の内部の経験を外に表したものだったからなのです。つまり、心に割礼を受けるということを表したものだったです。魂から罪を切り落とすということを意味していたのです。
世俗的なもの、偶像を心から切り出すこと、しめ出すことを表していたのです。そういったことを象徴していたのですね。そのために、生まれた男の子は、全員割礼を受けなければなりませんでした。割礼は痛みを伴うものです。本来、あまり好ましくはないものですね。安息日もそのようなものなのです。安息日を清く守るということには、痛みと苦しみを伴います。犠牲も伴います。あまり好ましいものではないのです。本来は心の経験が外に現れた、外見上のしるしですね。