睡蓮の花、泥土の中から美しい花を咲かせるハスや睡蓮はイエス様の品性を象徴しているようだ。
福音の道しるべ 15
さらに聖所をとおして、人が神に会うために踏まねばならない段階〔ステップ〕を、神は示しておられる。完全な救いとは、神の栄光の前に立つことができるようになり、神と永遠に生きるようになることを意味する。この事を実現させるために、イエスは罪の問題を御自ら解決しなければならなかった。聖所の儀式は、罪人が神のシカイナの栄光に近づき、至聖所における聖なる神に会えるようになるための道備えをした。またそれは、罪の赦しを受ける方法と、罪なしに生きる方法と、ついには罪の存在そのものを解決する方法を罪人に教えた。
つぎの実例を熟考されたい。何年か前のことであるが、私の家の前にある小さな畑に、白菜といくつかの野菜を植えた。これらの植物は順調に育ち、秋が近づくにつれて、薄緑色のりっぱな葉を茂らせるようになった。私たち家族は、第一級の白菜ができるだろうと確信していた。ところがある日、予期せぬ霜が降りて、辺り一面をびっしり覆ってしまった。やがて、朝日をあびた霜がとけ出すと、白菜がみるみるうちにしおれていった。かつては生命を与えた日光が、野菜を全滅させてしまったのである。日光は同じ日光のままであったが、霜に覆われた白菜の性質が変わってしまっていた。白菜がもはや日の下で生きていられなくなるほどに、霜がその性質を変えてしまったのである。同様に罪も、私たちと神との関係を断ってしまった(イザヤ59:2)。もともと人が創造されたのは、永遠にわたって神と共に生きるためであった。ところが罪によって、人の性質は変わってしまい、その結果、もはや天国で生活することができなくなってしまった。罪深いままでは、神のシカイナの栄光によって焼き尽くされてしまうことだろう。人間は神の栄光の中を生きるように創られたが、罪を犯した後は、恐怖のうちに神から逃げ出してしまった。罪が、このように悲惨な変化をもたらしたのである。