福音の道しるべ 21 ユリ
子羊に手を置いて罪を告白し、そのいけにえを殺したら、罪人は赦されるのだろうか? この時点で、彼は平安な気持ちで家に帰れるのだろうか?
祭司は子羊の血をたずさえて聖所に入り、それを幕の前にふりかけ、それから罪の贖いのために、とりなしの祈りをささげなければならない。「こうして、祭司が彼のためにその罪のあがないをするならば、彼はゆるされるであろう」(レビ記4:26;さらにレビ記4:35;5:10、16;6:7も参照)。つまり贖いは、外庭で子羊を殺すことによって象徴されているところの、十字架では完結しなかったのである。贖いは十字架で始まったが、そこですべてが終わったわけではない。
キリストが復活と昇天の後に始められたとりなしの働きは、十字架上の彼の死と同様に重要なものである。しかしこれも、贖いの働きの一局面にすぎない。このことについては後ほど詳しく学ぶことにする。
祭司は、厳粛な責任を担っていた。もし彼が、どのように神に近づき、どのように罪の赦しを受け、どのように純潔を回復するかを正しく教えていなかったとしたら、罪人は赦されてもいないのに、赦されたと思い込んで家に帰ることになる。ここに、罪の問題の誤った解決法を教える、最近の神学の危険が潜んでいる。偽りの教えは致命的であり、魂の損失を伴うのである。