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燔祭についての研究をしめくくるにあたり、モリア山におけるアブラハムとイサクの経験に目を向けよう。「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた。『アブラハムよ』。彼は言った、『ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリアの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」(創世記22:1、2)。
神は本当に、ひとり息子のイサクを燔祭としてささげるようアブラハムに命じられたのだろうか?この出来事を記したモーセは、書き誤ったのだろうか?これまで学んできたように、燔祭をささげるときには、いけにえの腹部を切り開いてすべての内臓を取り除き、臓器を水で洗い、頭部と足を切り離し、すべての部位を祭壇の上において焼くことが求められた。誰かに向かって、その人の息子をいけにえとしてささげるように求めるとは、何とむごたらしいことではないか。
アブラハムは燔祭のささげ方を正確には分かっていなかったのだと、ある人は主張するかもしれない。しかしながら、創世記15章において、神の命を受けたアブラハムは、雄牛とヤギと雄羊とハト〔燔祭に用いられた生き物〕を連れてきて、腹部を切り開き、一つひとつの部位を地面に置いた。神はご自身の栄光の光をもって燔祭のいけにえの間を通り過ぎ、これらの動物を焼かれたのであった。こうして神は、アブラハムのいけにえをお受けになり、彼と契約を交わされた。アブラハムは、間違いなく燔祭の重要性を理解していたと言える。