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出発の朝、妻のサラを起こさずにモリアへと旅立ったアブラハムの心情はどのようなものであったろう。父親である読者ならば、息子と共にモリア山へ向かったアブラハムの苦悩を察することができるかもしれない。イサクが尋ねた。「父よ、火とたきぎとはありますが、燔祭の子羊はどこにありますか?」アブラハムの答えは、信仰とはどのようなものかを例証している。「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう」。信仰は、「なぜ、どうして?」と問わない。信仰は、すべてを失う危険にあっても、神のお言葉に対して「はい」と答える。
ついに、モリア山の頂上にて、アブラハムは息子の手を取り、彼を燔祭としてささげるよう神から命じられたことを告げる。神に絶対的に従う父親を見て育ったイサクは、父親の生きざまを通して、神とはどのようなお方かを学んでいた。イサクは、震える父親を手伝って自らを縛り、祭壇の上に横たわった。イサクは、いかに自分自身を燔祭としてささげるべきかの、際立った模範となっている。神は私たちに、ここまで極端なものを求めることはないと、ある人たちは考えるかもしれない。しかし読者諸君、聖書の要求は、決してこれ以下ではない。「兄弟たちよ、そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。