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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

聖所  最終回  デイビット・カン講演

2016年03月05日 | 日記

 罪を清める三つのもの

もうひとつ、学んでおくべきことがあります。それは聖所の外庭で、罪を清めるために三つのものが用いられたことです。それは、血と火と水でした。血は、罪をその根源である心の動機と思いを清め、火は、罪を焼き尽くして清め、水は、罪の生涯と行いを洗い清めることを意味しました。レビ記には、命がその血にあると教えています。血液は、私たちの体内を循環し、各細胞に栄養と酸素を供給します。また血液は、体内の老廃物を集め、体外に排出する助けをします。神様の命と福音の力が臨む時、私たちの罪は取り除かれ、心は清められるのです。そのような意味でパウロは「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(へブル9:14)と、言ったのでした。

次に火は、罪を焼き尽くすことを象徴していました。私たちのうちの罪は、ことごとく焼き尽くされなければなりません。また、水が私たちの体の表面を洗うように、私たちの外面的な行動を、み言葉と照らして正していき、洗い清められていかなければなりません。

 聖所の外庭で行われる儀式の中で、罪祭の血だけが、聖所の中に持ち込まれ、そこで注がれました。血が聖所の垂れ幕の前に注がれることは、霊的には、私たちが告白した罪が、天の聖所に移され、書物に書かれたことを意味していました。もし、私たちの罪が天の聖所に移されなければ、執り成しの祈りによって与えられる、罪の赦しを受けることは出来なくなります。たとえ私たちが赦されたとしても、罪の記録は、私たちが罪の完全な除去を受ける時まで、天の聖所に残っているのです。天に移された私たちの罪は、大贖罪日に完全に罪が除去される時まで、天の記録に残されています。このことについては、罪の除去の学びで詳しく見ていきます。

次の講義では、罪祭について学んで行きたいと思います。罪祭は、イエス様の犠牲を表していて、本当に重要なトピックです。罪祭は、外庭の経験における中心ともいえるものです。私たちは、主がどのような経験を十字架の上でなされたのか?新しい契約とは私たちの経験においてどのような意味を持つのか?私たちを勝利者とする力とはなんであるかについて、学びます。

では、次回またお会いしましょう。

 神様の恵みが皆様、お一人おひとりにありますように。