罪を清める三つのもの
もうひとつ、学んでおくべきことがあります。それは聖所の外庭で、罪を清めるために三つのものが用いられたことです。それは、血と火と水でした。血は、罪をその根源である心の動機と思いを清め、火は、罪を焼き尽くして清め、水は、罪の生涯と行いを洗い清めることを意味しました。レビ記には、命がその血にあると教えています。血液は、私たちの体内を循環し、各細胞に栄養と酸素を供給します。また血液は、体内の老廃物を集め、体外に排出する助けをします。神様の命と福音の力が臨む時、私たちの罪は取り除かれ、心は清められるのです。そのような意味でパウロは「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(へブル9:14)と、言ったのでした。
次に火は、罪を焼き尽くすことを象徴していました。私たちのうちの罪は、ことごとく焼き尽くされなければなりません。また、水が私たちの体の表面を洗うように、私たちの外面的な行動を、み言葉と照らして正していき、洗い清められていかなければなりません。
聖所の外庭で行われる儀式の中で、罪祭の血だけが、聖所の中に持ち込まれ、そこで注がれました。血が聖所の垂れ幕の前に注がれることは、霊的には、私たちが告白した罪が、天の聖所に移され、書物に書かれたことを意味していました。もし、私たちの罪が天の聖所に移されなければ、執り成しの祈りによって与えられる、罪の赦しを受けることは出来なくなります。たとえ私たちが赦されたとしても、罪の記録は、私たちが罪の完全な除去を受ける時まで、天の聖所に残っているのです。天に移された私たちの罪は、大贖罪日に完全に罪が除去される時まで、天の記録に残されています。このことについては、罪の除去の学びで詳しく見ていきます。
次の講義では、罪祭について学んで行きたいと思います。罪祭は、イエス様の犠牲を表していて、本当に重要なトピックです。罪祭は、外庭の経験における中心ともいえるものです。私たちは、主がどのような経験を十字架の上でなされたのか?新しい契約とは私たちの経験においてどのような意味を持つのか?私たちを勝利者とする力とはなんであるかについて、学びます。
では、次回またお会いしましょう。
神様の恵みが皆様、お一人おひとりにありますように。