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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ     人を救う真の福音とは?  第5回

2016年03月10日 | 日記

2 感謝の応答としての服従

 律法主義者は自分の力で救いを勝ち取ろうとして、律法を守り清い生活をしようと努めます。その結果、本来、行いは生まれ変わったクリスチャンに自然とついてくる結果ですが、律法主義者にとっての行いは、仕方なくやる宗教的な義務になってしまいます。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」(エペソ2:8〜10)。

 律法主義の立場では、従順ひとつとっても、その動機や目的には問題があります。彼らは神様の愛と恵みに対する感動や、驚くべき賜物として与えられる救いについての深い感謝の心から律法を守るというより、地獄の火に対する恐れや、永遠の報いを得たいという自己中心的な目的が動機となって、律法を守ろうとします。何よりも残念なことは、自分の生涯をキリストにすべて屈服することなく、律法に従おうと務めることです。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」(Ⅱコリント5:14)という経験が必要です。

 ところが、自由主義の立場をとる人たちは、律法を守ろうとする努力そのものが律法主義であるかのように勘違いしています。律法主義の真の問題は、律法を尊重して服従しようとする努力にあるのではなく、間違った動機によって、自分の力で律法に従って救いを得ようとしているところにあります。聖書は、クリスチャンが救いを得るために熱心な努力をして、罪の誘惑と戦うべきことを要求しています。「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから」(ルカ13:24)。