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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第7回

2016年03月12日 | 日記

4 罪に勝利する人は自分を義人とみなさない

 

神様はヨブを完全な人と言われました。「主はサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」(ヨブ1:8)。しかしヨブ自身は、自分で自分を完全だと言うことの危険性について次のように述べました。「たといわたしは正しくても、わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、彼はわたしを曲った者とする。わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう」(ヨブ記9:20,21)。このような態度こそ、真のクリスチャンが持つべき謙虚さと言えます。

 

しかしどれほど忠実な神様の聖徒であっても、目をキリストから離し、自分に向けた時は間違いなくつまずきます。そのような場合にも、聖徒はヨハネ第一の手紙2:1に記された約束のことばに頼って立ち上がらなくてなりません。「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」。

 

律法主義者に対する使徒パウロの次のような記録は、律法主義者の経験を大変よく物語っています。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。…わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ7:15,19)。続いてパウロは深い挫折の中から律法主義者の最後の叫びをこのように書いています。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙7:24)。

 不幸なことに、律法主義者は自分の心と人生をキリストにすべて捧げたことによって得られる心の平和と救いを、体験することが出来ません。非常に厳格に生きようと務めますが失敗を繰り返すことで、結局は自分自身に失望して挫折するようになります。実際に多くの律法主義の信仰を持ったクリスチャンが、完全になろうとして挫折し、敗北感、失望感にさいなまれながら一生を送っていることは、誠に残念な現実です。

このような律法主義者は、精神的葛藤に耐えることが出来ず、キリスト教信仰を捨てたり、時には自殺という極限状態にまで陥ることがあります。しかし多くの律法主義者たちは、律法を守れない自分を正当化するために、律法が十字架によって廃棄されたという道徳律廃棄論を受けいれ、自由主義者(道徳的敗北主義者)の道を歩む方へ信仰を転向します。

 こうした律法主義者の経験と、自由主義者の主張は似ていますが、全く違う面を持っています。律法を完全に守ることが出来ないという点においては、自由主義者も律法主義者も同じ立場になります。しかし自由主義者はもともと律法が十字架によって廃されたという道徳律廃棄論(自由主義)を信じていたり、どんなに真面目なクリスチャンであっても決して罪に勝利することは出来ないと思っているので、律法主義者のように挫折感を味わったり、神経衰弱になったりはしません。自分たちの不道徳性や神様のおきてを無視する生き方を当然のことと考えているからです。

 このような理由から、彼らは律法を無視する罪深い生き方をして、根の浅い幸福感や偽りの安心感を持ち、自己欺瞞の道を歩むことになるのです。しかし、最後の審判の日、神様のおきてを無視した生活を続けて、本当の自分の姿を見失っていたことに気づいた時、どれだけ驚きおののくでしょうか。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書7:21〜23)。

 神様の法である十戒は、十字架によって廃されたので、守る必要がなくなったと思っている方がおられるでしょうか。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われるイエスキリストの警告を、どうか軽く考えないようにしていただきたいと願います。