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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ   人を救う真の福音とは?  第2回

2016年03月07日 | 日記

しかし弟子たちや使徒たちが歴史の現場からいなくなった後、教会は形式主義と義務感にとらわれはじめ、徐々に律法主義のドロ沼に陥るようになりました。こうしてサタンは中世宗教暗黒時代のカトリック教会を通して、各種の儀式や巡礼、つまり行いを通して救いを得ることができるという、律法主義を広めるのに成功しました。このため世界は深い霊的な暗黒期を迎え、この名残が今日まで受け継がれ、キリスト教会の中に深く根を下ろしているのです。

 そのような中、16世紀の初めから、宗教改革を通してイエス・キリストと弟子たちが確立した真のキリスト教会の信仰がよみがえります。その後ジョン・ウェスレーの時代になると、福音と律法とのバランスや調和が回復して、プロテスタント教会の全盛期を迎えました。

 しかし、この全盛期は長くは続きませんでした。いつからと正確に言うことは出来ませんが、産業革命以降、科学と産業が発達して、富に対する人間の欲求が頂天に達しはじめ、そのような世俗的な潮流が、厳粛な神様の教会の中にも浸透してきました。そしてちょうどこの頃から、キリスト教会の中に「神様の道徳律である十戒を犯す生き方をしても救いを得ることができる」という奇異な教えが出てきました。世俗化した教会は、成長と繁栄が最高の目的となり、その目的を成し遂げるためには、もっと多くの信徒を教会の中に呼び込まなければなりませんでした。

 生まれ変わっていない一部の牧師や神学者たちが、この世に対して教会の敷居を低くするというもっともらしい名目で、十戒をないがしろにするようになり、その権威を失わせてしまいました。神学的にはこれを、道徳律(十戒)廃棄論または自由主義と呼びます。

 不幸なことに、彼らの主張は、すでに世俗化し、流行やお金が与えてくれる魅力に屈してしまっていた教会には、大変肯定的に受け入れられました。そのような妥協の結果として、現代キリスト教会の中には、聖書が認める真の救済論だけでなく、律法主義と自由主義(道徳的敗北主義)が共存する奇異な状況が起きてきてしまったのです。教会の中に、救いについての異なる立場の信仰が共存するようになり、信徒は迷路の中にいるように、進む方向を見失ってさ迷う羊になってしまいました。ある人たちは「結局はどれも一緒でしょう。救いさえ得られればいいのだから、あれこれ何が正しいか議論しても、平行線で意味がないですよ」というような、無知で愚かとしか言いようがない態度をとります。このような人が、神様の教会に増え続けていく現実を見て恐れをおぼえます。

 この冊子の中で私たちは、すべての教派と宗派とを超えて、クリスチャンが持つ救済論を大きく三つに分け、その違いを比較し、どの救済論が聖書の言おうとしている本当の救いを与えるものなのかを調べたいと思います。冒頭で述べたように、その三つとは、①聖書の述べている真の救済論(信じることによって得られる義)、②律法主義、③自由主義(道徳律廃棄論)です。