SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ 人を救う真の福音とは 第4回

2016年03月09日 | 日記

自分は律法主義を信じないと言いながらも、実際の生活においては律法主義的な生き方をしているので、とても注意が必要です。神様の尊い律法と裁きに圧倒され、神様を畏れ敬う心で聖書のみ言葉に従おうとしますが、自我と欲を捨て切っていないので、失敗と挫折の経験を繰り返すクリスチャンは律法主義的な信仰をもっていると言えます。

 このような律法主義の信仰を持ったクリスチャンは、すみやかに彼らの目を十字架に固定し、人間にお与えになった神様の限りない贖罪の恵みを瞑想することで、罪や利己心や世俗的な精神を捨てなければなりません。「神様、憐れんで下さい。私は罪人です」と祈り、自分の傲慢と偽善を捨てなければなりません。魂の悲惨を切実に感じる人、つまり自分に善は全くないということに深く気づいた人だけが、イエス・キリストの義のプレゼントを受け取ることが出来、律法主義の罠から抜け出すことが出来るのです。

この反対に、自由主義者の問題は、神様の律法を守ることが自分の救いとは全く関係がないと思い込むことです。彼らはよく次のような言葉で、十戒に対する服従の必要性を無視します。「十字架によって十戒は不要のものとなった。神様の恵みは律法に対する義務から私たちを解放した。だから私たちは律法を守らなくてもよくなり、ただ十字架を信じれば救いを得ることが出来る」。さらに彼らはこのように言います。「神様のおきては、守る必要もないし、守ることも出来ないのだ」と。

しかしこれは事実でしょうか。神様の言葉である聖書は、律法の有効性について次のように宣言しています。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:17、18)。服従の対価として救いを得るのではありませんが、クリスチャンの心に刻まれた愛は、神様の真理に対して心から服従するように働くということを、自由主義者たち(道徳的敗北主義者)は理解しなければなりません。


良い麦と毒麦のたとえ 人を救う真の福音とは 第3回

2016年03月09日 | 日記

1 律法主義者たち

クリスチャンは神様の十戒に従わなければなりませんが、自分の力では従うことが出来ません。しかし神様のおきてに従うたった一つの方法があります。それは新生の経験を持つこと、そして、信じる者と共におられるキリストのみ力に頼ることです。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人への手紙2:20)。

 

律法主義者は、神様の律法を尊重してそれを守るために絶えず努力しますが、自分の心と人生をすべて捧げていないために、汚れた自己中心的な心をもって神様のおきてに従おうと、無謀な努力をします。彼らはこの世や財産に対する徹底的な決別と、新しく生まれ変わるという霊的な経験がないまま、自分の意志と努力に頼って、神様の尊い律法を守ることで義なる者となろうとし、その対価として救いを得ようとするのです。弱い人間の力では、全く到達不可能な目標を立てて走るマラソン走者のように、最後には律法主義者は敗北と挫折の渦の中に入ってそこから逃れることが出来なくなります。これが律法主義者の最終的な運命です。

ここでひとつ確認しておきたいことは、今日多くのクリスチャンが、自分の良い行いに頼るのではなく、ただイエス・キリストの十字架の血の恵みによってのみ救われるということを信じると言います。しかし、日々の生活で神様の力を信じなかったり、神様の恵みに頼らなかったり、良心にささやく聖霊のかすかな声に耳を傾けて生きていないなら、そのようなクリスチャンも、実際には自分の力に頼って生きる律法主義的な信仰を持っているということです。