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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第15回

2016年03月20日 | 日記

その後、中世の教会の中で形成された多くの神学的な過ちは、ほとんどがアウグスティヌスから始まり、彼に従う神学者たちによって発展し広がりました。アウグスティヌスによって作られた間違った教えを受け入れた多くの神学者は、彼の立てた過ちを前提にして、また別の過ちを展開させました。過ちを真理であると立証しようとして、また別の過ちを作り出す間違いが犯されました。

 根底が異教の思想に染まったアウグスティヌスは、聖書に表されている重要な思想である、すべての人は自由に自分の意志で、善と悪のどちらかを選ぶことができるということを全く理解できませんでした。父親が持っていた異教の教えにより、神様を絶対的で独裁的な神様と理解していたアウグスティヌスにとって、人間に選択の自由を許す神様の姿は受け入れがたい思想でした。彼は聖書の中から、どんな人が救われ、どんな人が救われないのかを見て、その場面を自分が持っていた神学的な概念に当てはめました。それが予定論の始まりになったのです。 

天地創造の以前に、神様がすでにある人は救われ、ある人は滅びるように予定しているという理論である予定論は、アウグスティヌスが生きていた時代にも、多くの挑戦を受けました。彼は挑戦に対する応答として、誰が救われたとしてもそれは神様の恵みであり、弱い私たち人間は、神様の審判と義に対して質問する資格さえもないと主張しました。こういう主張を合理化するために、彼は、神様がある人は永遠の救いに定めており、ある人は永遠の呪いの中にいるように定めておかれた、という予定論を構築したのです。