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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ  人を救う真の福音とは? 第10回

2016年03月15日 | 日記

   第2部 これが真の信仰です

 

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。

人は、いつどこで悔い改めたのか、あるいはどんな段階を経て改心したかをはっきり語ることはできないかもしれませんが、それだからといってその人が悔い改めていないとは言えません。キリストはニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それとおなじである」(ヨハネ3:8)と言われました。風は目には見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうどそれと同じです。

目には見えなくても、風が吹いた結果ははっきりと分かって感じることが出来るように、人の心に働かれる聖霊の力もそうなのです。人間の目には見えませんが、聖霊は人の心の中に新しい生命を生まれさせ、また神様のかたちに人を創り変えます。聖霊の働きは音もなく声なく、感情的な変化もないかもしれませんが、その影響と結果は明白に現れます。もし私たちの心が神様の霊によって新しくされたなら、実際の生活がそれを証明するのです。

私たちはどのようにしても自分の心を変えたり、神様と調和したりすることはできません。また、自分自身や自分の良い行いに頼ることもできませんが、心のうちに神様の恵みを宿しているかどうかは私たちの生活にあらわれてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。人の性格はときどきの善行とか過ちでわかるのではなく、日常の言行動作の傾向によって知ることができるのです。

別にキリストの力によって新しくされなくても、外見だけは正しい行いをする人がいることは事実です。自分の影響力を高めたい心や、人からよく思われたいとの気持ちから、正しい生活を送ることもできるでしょう。自尊心によって悪と思われることを避けることもあるでしょう。

あるいは利己主義な人が、情け深い行為をすることもあるでしょう。では、私たちがどちらの側に立っているかを、どんな方法ではっきり決めることができるでしょうか。

私たちの心を支配しているのは誰でしょうか。私たちは誰のことを考えているでしょうか。また誰のことを話すのが好きでしょうか。私たちが何よりも愛情をささげ、何よりも努力を傾けようとするのは誰のためでしょうか。もし私たちがキリストのものであれば、彼と心をひとつにし、彼を思うのが一番の楽しみとなり、私たちの持ち物も、私たち自身もすべて彼にささげてしまいます。そして主のみかたちに似ることを望み、主の霊を呼吸し、主のみ心をなし、すべてのことにおいて主を喜ばせたいと願うようになります。  

キリスト・イエスにあって新たに造られた者は、みたまの実を結びます。つまり「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)を生じさせるのです。もはや、彼らは以前の欲望に従って歩まず、神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩み、そのご品性を反映しながら、イエスが清い方であられたように、自らを清くするのです。以前には嫌っていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものは嫌うようになります。高慢、不遜な人は、柔和、謙遜になります。軽はずみで落ち着きのない人は真面目で控えめになり、酒に酔う者はそれをやめ、放蕩者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持ちはなくなり、クリスチャンは「外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない」(Ⅰペテロ3:3,4)飾りを求めるようになります。

ですから、もし改革が起こらなければ真に悔い改めたとは言えません。担保としてあずかったものを戻し、奪ったものを返し、罪を告白し、神と人とを愛するようになったなら、その人は確かに死から生に移っているのです。