私たちは服従によって救いを買うのではありません。救いは神から与えられる無料の賜物であって、信仰によって受けるのです。服従は信仰の実なのです。「あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におるものは罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である」(1ヨハネ3:5,6)。これが本当のテストです。もし私たちが、キリストにあり、神の愛が私たちの心に内住するならば、私たちの感情も、思想も、行動も、神の清いおきてにあらわされた神のみ心に調和するようになります。「子たちよ、だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である」(Ⅰヨハネ3:7)。義とは、シナイ山で与えられた十戒に現された神の聖なる律法の標準によって定められるものです。
キリストを信じれば神に服従する義務はないというのは、信仰ではなくて厚かましい憶測です。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである」(エペソ2:8)と言われています。けれども「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブ2:17)とも記されています。また、イエスご自身も、この地上に来られる前に、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:9)と言われ、再び天にお帰りになる直前には、「わたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのとおなじである」(ヨハネ15:10)と言われました。聖書は、「わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。…『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:3,6)、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Ⅰペテロ2:21)と語っています。
「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。 『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。 『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(Ⅰヨハネ2:3-6)