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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 96

2013年08月26日 | 日記

   


  デビット・カン著 : 福音の道しるべ   96

神を信じる者たちだけが、自分たちの経験の実体を調査される。本当に神の子となっているかどうかが審査される。マタイによる福音書22章の礼服の譬えは、この概念を説明している。王は、婚宴に招かれた人の衣服だけを調べた。キリストの贖いの血という提供された贈り物を受け取り、聖所に入っていった者たちだけが、調査審判を経験する。神を信じると公言する者たちだけが、その影響を受けるのである。

 レビ記16章には、贖罪の日になすべき、さまざまのことが記されている。 

これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは魂を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生まれた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは魂を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。油を注がれ、父に代わって祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度贖いをするものである。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった(レビ記16:29-34)。

 主はイスラエルに、贖罪の日には魂〔口語訳では「身」〕を悩まし、何の仕事もしないようにと命じられた。魂を悩ますとは、徹底的悔い改めを意味した。彼らは、告白していない罪または大事にしている罪がないか、深く心を探ることになっていた。

   

     新生への道: 悔い改め ②

悔い改めのほんとうの意味をわかっていない人が多くいます。罪を犯したことを嘆き、外面的には悔い改める人もいますが、それはその悪事のために苦しみに会わなければならないことを恐れるからです。しかし、これは聖書に教えられた悔い改めではありません。彼らは罪そのものよりも、むしろ罪からくる苦しみを悲しむのです。エソウが家督の権利を永久に失ってしまったと気づいたときの悲しみがそうでした(創世記25~27章)。またバラムは、自分の行く手に剣をぬいた天使が立ちふさがっているのを見て、命が奪われるのではないかと恐れ、自分の罪を認めたのです。けれどもそれは、罪に対する純真な悔い改めではなく、目的を全く変えるのでもなければ、罪を嫌悪するのでもありませんでした。イスカリオテのユダは主を裏切ったあとで、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして罪を犯しました」(マタイ27:4)と叫びました。

 ユダは、恐ろしいさばきと自分の犯した罪のため、自責の念に耐えかねて、こういう告白をせずにはおられなかったのですが、それは自分の身にふりかかってくる結果を恐れたためで、傷のない神のみ子を裏切り、イスラエルの聖者を拒んだことを、深く心の底から悔いたのではありませんでした。パロも、神の刑罰を受けて苦しんだとき、それ以上の刑罰をのがれるため自分の罪を認めましたが、災いが止むと、また、前のように神にそむいたのです(出エジプト記12章)。これらの人々はみな罪の結果を嘆いたのであって、罪そのものを悲しんだのではありませんでした。



福音の道しるべ 95

2013年08月25日 | 日記

 

   95

私たちは、集団として救われるのではない。イエスは十字架上で、人類全体を義認し、救って下さったわけではない。すべての魂が救われるための、お膳立てが整えられたのである。赦しの賜物は確保された。赦されるために、人がしなければならないことがある。信仰の手をあげて、神の賜物を受け取らなくてはならない。これをしなければ、神の力を魂に取り込むことはできない。十字架で贖いは完成したと主張することは、天の聖所におけるキリストの働きを否定することである。もし十字架で贖いが完成したならば、天の聖所におけるキリストの働きは、空虚な形式に過ぎないことになる。イエスは、私たちのために贖いのいけにえとなられた一方で、私たちの大祭司ともなられた。私たちのために流された彼の血は大切だが、同じ血をもって神の御座の前でなされる仲保と裁きの働きも、贖いの働きにおいては同様に重要なのである。贖いは、十字架で完成しなかった。私たちにも、キリストと共に果たすべき役割がある。聖書はこう教えている。「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らないものは、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである」(Ⅰヨハネ2:3-5)。人が神の救いの恵みを受けるとき、それは罪深い生涯を一変させ、御心に従って生きるものとする。福音とは神の力である。神が私たちをお救いになるとき、私たちに神の子となる力も与えて下さるのである。

 

悔改め

 

人は、どのようであったら神の前に正しいと言えるでしょうか。罪人はどうすれば義とされるのでしょうか。私たちは、ただキリストによってのみ神と一致し、清くなることができます。それでは、どうすればキリストのもとに行くことができるでしょうか。ペンテコステの日に群衆が罪を悟って、「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と叫んだように、今日、多くの人々が同じ質問をしています。ペテロは、「悔改めなさい」(使徒行伝2:38)と言い、また「自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい](使徒行伝3:19)とも言っています。

 悔い改めとは、罪を悲しむことと罪を離れることを含みます。人は罪の恐ろしさを知るまでは、罪を捨てるものではありません。心の中で全く罪から離れなければ、生活にほんとうの変化は起こらないのです。



福音の道しるべ94

2013年08月24日 | 日記

   

  デビット・カン著 福音の道しるべ 94

贖罪の日にも、普段の日ごとの犠牲がささげられた。この雄羊は、宿営中に告白されていない罪が残っていた場合のためにささげられた。罪の除去のためにささげられた主の雄ヤギを大祭司が選ぶまでは、まだ赦しの希望があった。同様に、イエスは今日、神の御座の前で香炉を手に持ち、私たちの罪のために最後の嘆願〔申し立て〕をしておられる。とりなしの最後の祈りが、天に上げられている。日ごとの犠牲の効果がなくなる時がいつなのか、私たちには分からない。それ以後にささげられる犠牲は、単なる形式と化してしまうのである。現在、教会が実体としての贖罪の日にいることは、歴史が証明している。個人的な宗教経験の段階は人によって異なるので、ある人たちは、まだ外庭にいるかもしれない。あるいは聖所〔第一の部屋〕にいる人たちもいれば、至聖所の経験をしている人たちもいるかもしれない。またあるいは、長年教会へ行き、安息日も守っていながら、外庭にすら足を踏み入れたことのない人たちがいるかもしれない。真剣に、自分自身の心を探ろうではないか。各自が、「私の魂の宮では、贖いの働きが進んでいるだろうか?私は本当に罪に勝利しているだろうか?聖霊の力により、日ごとに罪から離れているだろうか?」と尋ねるべきである。

 神の言葉が教えている救いは、常に条件付きである。「御子を信じる者」は、誰でも永遠の命を受けるであろう。信仰は、永遠の命に先立つ必要条件である。赦しも条件付きである。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」と聖書は述べている(Ⅰヨハネ1:9)。

   新生への道:キリストの必要 ⑤

私たちは、神の憐みを無視してもいいのでしょうか。いったい神は、これ以上何かなさることがあるでしょうか。驚くばかりの愛をもって私たちを愛された、神との正しい関係に立ち帰りましょう。そして、与えられた方法を最もよく用いて、神のみかたちに変えられて、もう一度天使と交わることで、父なる神とみ子とに一致し、その交わりにはいることができるようにしたいものです。

 



福音の道しるべ 93

2013年08月23日 | 日記

 

デビット・カン著 『福音の道しるべ』より

   93

 贖罪の日の開始に当たり、神は、祭司たちから清めを始めることを求め、そのことを明確に述べられた。贖罪の日の清めの働きを宣布し、その重要性を説く者たちが、まずその清めを経験しなければならなかった。さもないと、彼らはどうやって、その儀式を啓蒙することができただろうか?このように、教会の清めも、指導者たちから始められなければならない。1888年に、エレン・ホワイトは、ジョーンズとワゴナーのメッセージに感銘を受けた。これは、後の雨の経験を開始させた、天からのメッセージであった。残念ながら、教会の指導者たちはそれを拒み、後の雨はやんでしまった。教会におけるリバイバルと改革は、常に指導者らの態度にかかっている。贖罪の日の儀式も、例外ではなかった。イスラエルの人々のために贖いをなすことができるようになる前に、大祭司は、自分自身と家族の罪の赦しと清めを完成させるため、雄の子牛をささげなければならなかった。このいけにえの血は、贖罪所の上と前に七度ずつふりかけられた。イエスが聖所から至聖所へと移られ、清めの働き、すなわち実体としての贖罪の日の働きを始められてから、百六十年以上もの年月が過ぎてしまった。「慰め〔活気づけ〕の時」を来たらせるために、今こそ教会指導者たちは、自らの魂の宮清めをすべきである。

  

    新生への道 :キリストの必要 ④

キリストがナタナエルと語られたとき、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人のこの上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」(ヨハネ1:51)と言われたのは、これと同じことを指していたのです。人間は神に背いて自ら神から遠ざかり、ついに地は天より切り離されてしまいました。この誰も渡ることのできない深い渕を再びつないで、地と天とを結び付けてくださったのはキリストです。キリストはご自身の功績によって罪の深い渕に橋を架け、奉仕の天使が人との交わりを続けることができるようにしてくださいました。キリストは、罪に沈んだ弱い無力な人間を、限りない力の源につないでくださるのです。

 人間がどれほど進歩を夢み、人類向上のためにどれだけ努力したとしても、堕落した人類にとってただ一つの希望と助けの源に頼らなければ、何の役にもたちません。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は」(ヤコブ1:17)神より与えられます。神を離れては、ほんとうに高潔な品性を持つことはできません。そして、神へのただ一つの道はキリストです。キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と語られました。

 神は、死よりも強い愛をもって、地上の子らに思いをかけておられます。神がひとり子をお与えになったということは、全天を注ぎだして、一つの賜物としてお与えになったということなのです。救い主の生涯、死、その執り成し、天使の奉仕、聖霊の懇願、これらいっさいのものを通して働いておられる父なる神と、天の住民たちの絶え間ない関心などが、すべて人の救いのために力を添えているのです。

 わたしたちのために払われた、驚くばかりの犠牲を静かに瞑想してみましょう。失われた者を呼び返し、父なる神の家に連れ戻すために、天はあらゆる努力を惜しまないことを感謝しましょう。これにまさる動機や力ある方法は、ほかではどこにも見いだすことはできません。正しい行為に対する大いなる報酬、天上の喜び、天使との交わり、神のみ子との愛の交わり、また永遠にわたって私たちの能力が伸ばされ、高められていくことなどは、私たちの創造主、救い主に心から愛の奉仕をさせずにはおかない動機であり、励ましではないでしょうか。

 ところが一方、罪に対する神の審判、必然的な報い、品性の堕落、そして最後の滅亡などがみ言葉に記されているのは、私たちに悪魔の働きを警告するためです