93
レビ記16章では、贖罪の日の出来事がはっきりと描かれている。贖罪の日の目的は、イスラエルの罪を消し去ることであった。その開始にあたってなされたのが、祭司らの清めであった。この章は、次のように始まっている。「アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた」(レビ記16:1-2)。アロンの息子、ナダブとアビウは、神がお定めになった聖なる火ではなく、普通の火を聖所に持ち込んだために、神の御座からの火によって撃たれた。この悲惨な事件の後で、神はモーセに、贖罪の日について説明なさった。主はモーセに言われた。『あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。アロンが聖所に入るには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。またイスラエルの人々の会衆から雄やぎ二頭を罪祭のために取り、雄羊一頭を燔祭のために取らなければならない』」(レビ記16:2-5)
新生への道:キリストの必要 ③
人はただ、神の愛といつくしみ、また、父親のような優しさを悟っただけでは十分でありません。また神のおきてにあらわされた知恵と正義とを認め、おきてがいつまでも変わらない愛の原則の上にたてられていることを認めただけでも十分とはいえません。使徒パウロはこのことをよく知っていて、「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる」。「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」と叫んだのですが、なおつけ加えて「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」(ローマ7:16、12、14)と言いました。それは、言葉につくせない苦痛と失望があったからです。彼は純潔と正義とを求めてやみませんでしたが、彼自身にそこまで到達する力はありませんでした。そしてついに、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)と叫んだのです。このような叫びは、どこにおいても、どんな時代にも、罪の重荷に悩む人々の心から等しくほとばしり出たものです。こうした人々への答えは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)というみ言葉よりほかにありません。
神の聖霊は、罪の重荷から逃れたいと望んでいる魂にいくつもの例をあげて、この真理をわかりやすく説明しています。ヤコブはエサウを欺いて罪を犯し、父の家を逃れたとき、言いようのない罪の重荷で押さえつけられるように感じました。今までの楽しかった生活をあとにして、一人寂しく家を追われていく彼が、何よりもまず気になったのは犯した罪のために神から切り離され、天から全く見捨てられてしまったのではないかいうことでした。こうした悲しい心をいだいて、着のみ着のまま土の上に横たわる彼の周囲には、寂しく丘が起伏し、空には星が明るくまたたいていました。彼が夢路に入ったとき、不思議な光がまぼろしのうちに目の前に輝き出ました。それは、今自分が眠っている原野から、大きな影のようなはしごが天の門まで通じているかのように見え、その上を天使が昇ったり降りたりしていました。そして輝く栄光のかなたから、慰めと希望に満ちた声が聞こえてきて、彼の心の求めと望みを満たすのは救い主であることを知らされたのです。彼は罪日とである自分がもう一度神と交わることができる道を示されて、喜びと感謝に満たされました。ヤコブの夢にあらわれた不思議なはしごは、神と人類の間のただ一人の仲保者イエスを表したものです。