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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 92

2013年08月22日 | 日記

 

   93

 レビ記16章では、贖罪の日の出来事がはっきりと描かれている。贖罪の日の目的は、イスラエルの罪を消し去ることであった。その開始にあたってなされたのが、祭司らの清めであった。この章は、次のように始まっている。「アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた」(レビ記16:1-2)。アロンの息子、ナダブとアビウは、神がお定めになった聖なる火ではなく、普通の火を聖所に持ち込んだために、神の御座からの火によって撃たれた。この悲惨な事件の後で、神はモーセに、贖罪の日について説明なさった。主はモーセに言われた。『あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。アロンが聖所に入るには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。またイスラエルの人々の会衆から雄やぎ二頭を罪祭のために取り、雄羊一頭を燔祭のために取らなければならない』」(レビ記16:2-5)


   新生への道:キリストの必要 ③

 人はただ、神の愛といつくしみ、また、父親のような優しさを悟っただけでは十分でありません。また神のおきてにあらわされた知恵と正義とを認め、おきてがいつまでも変わらない愛の原則の上にたてられていることを認めただけでも十分とはいえません。使徒パウロはこのことをよく知っていて、「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる」。「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」と叫んだのですが、なおつけ加えて「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」(ローマ7:16、12、14)と言いました。それは、言葉につくせない苦痛と失望があったからです。彼は純潔と正義とを求めてやみませんでしたが、彼自身にそこまで到達する力はありませんでした。そしてついに、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)と叫んだのです。このような叫びは、どこにおいても、どんな時代にも、罪の重荷に悩む人々の心から等しくほとばしり出たものです。こうした人々への答えは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)というみ言葉よりほかにありません。

 神の聖霊は、罪の重荷から逃れたいと望んでいる魂にいくつもの例をあげて、この真理をわかりやすく説明しています。ヤコブはエサウを欺いて罪を犯し、父の家を逃れたとき、言いようのない罪の重荷で押さえつけられるように感じました。今までの楽しかった生活をあとにして、一人寂しく家を追われていく彼が、何よりもまず気になったのは犯した罪のために神から切り離され、天から全く見捨てられてしまったのではないかいうことでした。こうした悲しい心をいだいて、着のみ着のまま土の上に横たわる彼の周囲には、寂しく丘が起伏し、空には星が明るくまたたいていました。彼が夢路に入ったとき、不思議な光がまぼろしのうちに目の前に輝き出ました。それは、今自分が眠っている原野から、大きな影のようなはしごが天の門まで通じているかのように見え、その上を天使が昇ったり降りたりしていました。そして輝く栄光のかなたから、慰めと希望に満ちた声が聞こえてきて、彼の心の求めと望みを満たすのは救い主であることを知らされたのです。彼は罪日とである自分がもう一度神と交わることができる道を示されて、喜びと感謝に満たされました。ヤコブの夢にあらわれた不思議なはしごは、神と人類の間のただ一人の仲保者イエスを表したものです。

 



福音の道しるべ 91

2013年08月21日 | 日記

  


   福音の道しるべ 91

地球の至上権を主張したサタンの権威に異議を唱えるために、イエスは私たちの世界に来られた。彼が来られたのは、そこなわれた神のみかたちを人のうちに回復し、悔い改めた魂に神の力を分け与えるためであった。御力によって、人は腐敗と堕落から引き上げられ、気高くされて、天使たちとの交わりにふさわしい者とされるのであった。それは、反逆によってサタンとその天使らが失った、神の宮廷における地位を占めるためである(レビューアンドヘラルド1894年5月8日)。

 神の贖いの愛を最も理解する者たちは、天において、神に最も近いところに場を占めるであろう。天使ガブリエルでさえ、四人のケルビムの一人とはなり得ない。なぜなら彼は、神の救いの恵みと愛を体験していないからである。堕落した人の子らだけが、この愛を十二分に知ることができる。

それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使いたちも、うかがい見たいと願っている事である(Ⅰペテロ1:12)。

    新生への道 :キリストの必要 ②

 私たちは、自分の力で、一度沈んだ罪の渕から逃れることはできません。また、私たちの悪い心を変えることもできないのです。「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか。ひとりもない」(ヨブ14:4)、「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否,従い得ないのである」(ローマ8:7)。とあります。教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割を持っていますが、心を新たにする能力は全くないのです。もちろん、私たちの行動に、外面的な正しさは与えるかもしれませんが、心を変えることもできなければ、生活の源泉を清めることもできないのです。天からの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪から清められることはできません。この力というのはキリストです。キリストの恵みだけが、人の力のない魂を生きかえらせて、これを神と聖潔へと導くことができるのです。

救い主も「だれでも新しく生まれなければ」と言われました。すなわち、新しい生涯を送るための新しい心、新しい希望、目的、動機などが与えられなければ、「神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)のです。人は、生まれながらに持っている良いところをのばせばよいという考えは、恐ろしい誤りです。聖書には、「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受け入いれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(Ⅰコリント2:14)、「あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」(ヨハネ3:7)とあります。またキリストについては、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:4)、「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)と記されています。



福音の道しるべ 90

2013年08月20日 | 日記

 

   90

多くの近代訳においては、「私たちを贖い」の部分が、「彼ら〔人々〕を贖い」に変えられている。原文のギリシア語は、「私たちを贖い」となっている。ラテン語ウルガタ訳、ウィクリフ訳、ティンダル訳、またその他いくつかの翻訳においては、「私たちを贖い」と訳されている。ここでの、「私たち」と「彼ら」の違いは重大である。原文では、二十四人の長老と四つの生き物が、贖われた聖徒らの群れに含まれている。天使は贖いを必要としない。彼らは、一度も神の律法を犯したことがないからである。だから天使たちであれば、「彼らを贖い」と歌う。けれども、贖いを経験した二十四人の長老と四つの生き物は、「私たちを贖い」と歌うのである。

これら四つの生き物は、至聖所の四人のケルビムでもある。この概念を支持する次のような言葉がある。

サタンは神の御前で、彼らに対する告発を行い、彼らは自らの罪によって神の保護を失ったと宣言し、彼らを違反者として滅ぼす権利が自分にはあると主張する。彼らはサタン自身のように、神の寵愛から当然締め出されるべきであると、彼は言明する。彼は言う。「この者たちは、天において、私と私にくみした天使たちの場を占めることになっている人々ではありませんか?」と(教会への証五巻473ページ)。

 堕落前のルシファーはケルブのひとりであり、他のすべてのケルブよりも神の御側近くにいたことを覚えられたい。


  新生への道 : 2 キリストの必要 ①

人は初め、優れた能力と調和のとれた精神を与えられていました。彼はまた、人として完全で神と調和し、思想も純潔で清い目的を持っていました。けれども、神に背いたためその能力は悪に向けられ、愛は利己心に変わってしまいました。罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなりました。こうして悪魔のとりことなってしまったのですから、もし、神が特別に救ってくださらなかったならば、いつまでもそのままの状態でいたことでしょう。悪魔は、人を創造された神のご計画を妨害し、この世を悲しみと破壊で満たそうと思いました。そして、こうした災いはみな神が人を創造された結果であると言おうとしたのです。

 人は、罪を犯す前には「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)キリストとの交わりを楽しむことができました。けれども罪を犯した後は、もはや清いことを楽しめなくなり、神のみ前から隠れようとしました。今日でも、新生を経験しない人の状態は同じで、彼らは神と一致していないため、神と交わることを喜ばないのです。罪人は神の前では楽しむことができません。彼らは清い人々との交わりを避けようとします。たとえ天国に入ることが許されても、少しも喜びとならないでしょう。天国では無我の愛の精神が満ち満ちていて、限りない神の愛をすべての心が反映しているのですが、そうした精神も、罪人の心にはなんの感動も与えないことでしょう。そして、その思想も興味も動機も、天国に住む罪のない人々の心とは全く異なっていることでしょう。彼らは天国の美しい音楽と調和しないものとなるのです。天国はあたかも苦しいところのように思われ、光であり喜びの中心である神のみ顔を避けようとすることでしょう。悪人は天国に入れないというのは、なにも神が独断的にお決めになったのではありません。それは、彼らが自分でそうした交わりに不適当な者となってしまったからなのです。神の栄光は、罪人にとっては焼きつくす火です。罪人は、自分たちをあがなうために死なれたキリストのみ顔を避けて、滅ぼされたいと望むようになるのです。



福音の道しるべ 89

2013年08月19日 | 日記

 89

これらの天使が誰であったかは、聖書に書かれている。「その時ケルビムはのぼった。これがケバル川でわたしが見た生き物である。・・・これがすなわちわたしがケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見たかの生き物である。わたしはそれがケルビムであることを知っていた」(エゼキエル10:15,20)。「主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ」(詩篇99:1)。上の聖句から、四つの生き物が神の御座そのものであることが分かる。これら四つの生き物が、ケルビムである。神ご自身が、彼らの間に座せられる。つまり、これらのケルビムは、神が行かれるところへはどこでも随行するのである。彼らの職務は、神の護衛である。契約の箱を見下ろす天使たちがシカイナの栄光を反映したように、四つの生き物は、全宇宙の前で神の品性を最大限に反映することのできる者たちである。かつては罪の淵に陥り、キリストの功績により聖なる身分へと高められた者たちよりも、神の愛と恵みを理解し反映できる者がいるだろうか?

黙示録4章に登場する四つの生き物は、神の御座を取り囲んでいて、それぞれ、ワシ、ライオン、牛、人のような姿をしている。これらの象徴は、神のご品性の異なる側面を描いたものである。黙示録5章の中に、これら四つの生き物が、地から贖われた人々であることの強力な証拠を見出すことができる。「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、竪琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈りである。彼らは新しい歌を歌って言った。『あなたこそは、その巻物を受け取り、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中からわたしたちをあがない、わたしたちの神のために、わたしたちを御国の王とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう』」(黙示録5:8-10一部欽定訳)。


  新生への道:神の愛 ⑧

私たちのあがないのために払われた価、私たちのために、そのひとり子に死をさえおゆるしになった天の神のはかり知れない犠牲を考えるとき、キリストによって、私たちは非常に高潔な状態に到達することができるという観念をおこさずにはおられません。霊感に動かされた使徒ヨハネは、滅びゆく人類への天の父の愛の高さ、深さ、広さをながめて、心はただありがたさと敬虔な思いでいっぱいになり、その愛の偉大さ、優しさを表現するのにふさわしい言葉を見いだすことができなくて、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか」(Ⅰヨハネ3:1)と世界に呼びかけています。人はなんという尊い価値をもっていることでしょう。罪を犯して人の子らは悪魔の奴隷となりましたが、キリストのあがないの犠牲を信じることによって、アダムの子らはまた神の子となることができるのです。キリストは、人の性質をおとりになって人類を引き上げてくださいました。罪に落ちた人類は、キリストにつながってはじめて「神の子」という、その名にふさわしい尊い者となれるのです。

このような愛に比べられるものは何もありません。天の王子となるというのです。なんと尊いみ約束でしょう。これは深い冥想に価する主題です。神を愛さなかった人類への、たぐいもない神の愛です。この愛を考える時、心はへりくだり、神のみ旨のままに従うようになります。そして、十字架の光に照らされて、神のご性質を学べば学ぶほど、神の恵みとあわれみを知り、神の公平と正義とゆるしとが一つになっていて、放蕩息子を思いやる母親にも勝る、限りない優しい愛の、数知れない証拠を認めることができるようになります。



福音の道しるべ 88

2013年08月18日 | 日記

 

   88

芽を出したアロンの杖は、神の戒めを守る真の民、イスラエルを簡潔に表している。神が、生命のない木の棒を生きた枝へと一変させ、芽吹かせられた。これは、義の働きを表している。アロンの杖についた新鮮な芽は、イエスにあって新しい命に生まれ変わった者たちだけが、神の戒めを守ることができるようになると証言する。新しい命とは、神の戒めに服従する生活への聖化である。契約の箱の両側には、二人の金製の天使が置かれていた。これらの無言の肖像は、大いに研究の価値がある啓示を明らかにしてくれる。

契約の箱を見下ろしている天使たちは、地上から贖われた人々を象徴している。これらは、贖われた民の中から、神の御座の周りで仕えるために選抜される者たちを表している。二人のケルビムは、黙示録とエゼキエル書に描かれている四つの生き物だろうと、筆者は見ている。荒野の聖所において、契約の箱を見下ろしていた天使は二人だけであった。が、後にソロモンは、神殿の建築に関する特別な指示を主から受け、二体のケルブを加えて、契約の箱の前に据えた(列王記上6章参照)。契約の箱を見下ろしている二人のケルビムは、純金で造られていた。その前の床に置かれた天使たちは、オリーブの木で造られ、純金がかぶせられた。木材は常に、堕落した人間の性質を象徴する。

  新生への道:神の愛 ⑦

イエスは、「父は、わたしが自分の命を捨てるから、私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)と言われました。これはつまり、こういう意味です。

「私の父は、あなたがたをこの上なく愛しておられますから、私があなたがたの救いのために命を捨てたことによって、以前にもまして私を愛してくださいます。あなたがたの負債と罪を負って生命を捨て、あなた方の身代わり、保証人となったため、私は父にいっそう愛されるようになったのです。なぜなら、私の犠牲によって神は義であることができると同時に、私を信じる者をも義とすることがおできになるからです」

神の子のほかには、誰も私たちのあがないを全うすることはできません。というのは、神のふところにいたものでなければ神をあらわすことができないからです。神の愛の高さ、深さを知る者だけがそれをあらわすことができるのです。堕落した人類のためにキリストが払われた限りない犠牲ほど、失われた人類に対する神の愛をあらわすことのできるものはありません。

「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)。神はキリストを、ただ人々の間に生活し、人々の罪を負い、彼らの犠牲となって死ぬためにお与えになったばかりでなく、神は、キリストそのものを堕落した人類にお与えになったのです。キリストは人類の利害、また必要を人々と共に味わわれました。神と一つであったキリストは、人々と切っても切れない絆で結ばれ「彼らを兄弟と呼ぶことを恥」(へブライ2:11)とされません。彼は私たちの犠牲、また助け主、私たちの兄弟です。神のみ座の前に人間の姿をもって立ち、永遠に自らあがなわれた人類の一人となられた「人の子」です。これはみな罪の渕より、また滅びより人が引き上げられ、神の愛を反映し、清い者となる喜びにあずかるためでした。