87
契約の箱には、神の律法が納められていた。神の律法は、神とその民との間で結ばれる契約の中核である。箱の上には、贖罪所〔恵みの座〕が置かれていた。これだけでも、神の憐れみと恵みの御座が、十戒という基礎の上に築かれていることが分かる。
「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ8:4)。これこそ、生まれ変わりの経験であり、罪から自由の身となる経験である。神の恵みは、決して律法を廃止しない。神の恵みは、律法から独立して機能することはできない。それゆえに、イエスは罪の価(第二の死)を支払い、人類に猶予期間を与える権利を買われたのである。悔い改めて、清められた神の家族に加わる者たちには、イエスの血の功績により、永遠の赦しと命が授けられるであろう。その経験を拒む者たちが、義認の祝福された喜びにあずかることは決してないであろう。
箱に納められたマナの壺は、天国の命のパンを象徴していた。これは、信徒が神の言葉を食べ、健康の法則を含む神のすべての律法を守ることを表している。健康の法則を守ることと、罪に勝利を得ること、また神の戒めを守ることは、すべて不可分である。
新生への道 : 神の愛 ⑥
キリストの生涯はこうした性質のものでしたが、これこそ神のご性質です。キリストのうちにあらわされ、人類の上にあふれ出た天からの愛の流れは、天の父のみ心から出たものです。優しく思いやり深い救い主イエスは、「肉において現われ」(1テモテ3:16)た神でした。
キリストが地上に生活し、苦しみ、十字架上で死なれたのは私たちをあがなうためでした。彼は私たちが永遠の喜びにあずかることができるように、「悲しみの人」となられました。神は、恵みと真理に満ちたひとり子を、栄光に輝くみ国より、罪にそこなわれ、死と呪いに暗く閉ざされたこの世にくだされたのです。神は、イエスが愛のふところを離れ、天使たちの賛美の声を後にして、苦しみと恥、無礼、屈辱、憎しみ、最後には死さえ受けることをおゆるしになりました。「彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ書53:5)。 荒野の、ゲッセマネの園の、または十字架上のイエスをごらんなさい。一点の汚点もない神のみ子が、罪の重荷を負い、また神と共におられた方が、罪の結果である神と人との間の恐ろしい離別を経験されたのです。そして「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という苦しい叫びがそのくちびるをついて出たのです。罪の重荷、罪の恐ろしさ、神から遮断されることなどが神の子の心を砕いたのでした。
しかし、この大きな犠牲が払われたために、天の神のみ心に、人に対する愛の気持ちを起こさせたのでもなければ、救いたいとの考えを生じさせたのでもありません。いいえ、そうではなくて、「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛」(ヨハネ3:1)されたのです。神は、その大きななだめの供え物のために、私たちを愛されたのではなく、私たちを愛するために、なだめのそなえものを与えられたのです。キリストは、罪に落ちた世界に神の限りない愛を注がれる仲介者でした。「神はキリストにおいて世を御自分に和解させ」(Ⅱコリント5:19)とあります。神はみ子と共にお苦しみになりました。ゲッセマネの苦しみ、カルバリーの死を通して、限りない愛を持たれる神は、私たちのあがないの値をお払いになったのです。