SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 87

2013年08月17日 | 日記

  87

契約の箱には、神の律法が納められていた。神の律法は、神とその民との間で結ばれる契約の中核である。箱の上には、贖罪所〔恵みの座〕が置かれていた。これだけでも、神の憐れみと恵みの御座が、十戒という基礎の上に築かれていることが分かる。

「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ8:4)。これこそ、生まれ変わりの経験であり、罪から自由の身となる経験である。神の恵みは、決して律法を廃止しない。神の恵みは、律法から独立して機能することはできない。それゆえに、イエスは罪の価(第二の死)を支払い、人類に猶予期間を与える権利を買われたのである。悔い改めて、清められた神の家族に加わる者たちには、イエスの血の功績により、永遠の赦しと命が授けられるであろう。その経験を拒む者たちが、義認の祝福された喜びにあずかることは決してないであろう。

箱に納められたマナの壺は、天国の命のパンを象徴していた。これは、信徒が神の言葉を食べ、健康の法則を含む神のすべての律法を守ることを表している。健康の法則を守ることと、罪に勝利を得ること、また神の戒めを守ることは、すべて不可分である。


   新生への道 : 神の愛 ⑥

キリストの生涯はこうした性質のものでしたが、これこそ神のご性質です。キリストのうちにあらわされ、人類の上にあふれ出た天からの愛の流れは、天の父のみ心から出たものです。優しく思いやり深い救い主イエスは、「肉において現われ」(1テモテ3:16)た神でした。

 キリストが地上に生活し、苦しみ、十字架上で死なれたのは私たちをあがなうためでした。彼は私たちが永遠の喜びにあずかることができるように、「悲しみの人」となられました。神は、恵みと真理に満ちたひとり子を、栄光に輝くみ国より、罪にそこなわれ、死と呪いに暗く閉ざされたこの世にくだされたのです。神は、イエスが愛のふところを離れ、天使たちの賛美の声を後にして、苦しみと恥、無礼、屈辱、憎しみ、最後には死さえ受けることをおゆるしになりました。「彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ書53:5)。 荒野の、ゲッセマネの園の、または十字架上のイエスをごらんなさい。一点の汚点もない神のみ子が、罪の重荷を負い、また神と共におられた方が、罪の結果である神と人との間の恐ろしい離別を経験されたのです。そして「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という苦しい叫びがそのくちびるをついて出たのです。罪の重荷、罪の恐ろしさ、神から遮断されることなどが神の子の心を砕いたのでした。

しかし、この大きな犠牲が払われたために、天の神のみ心に、人に対する愛の気持ちを起こさせたのでもなければ、救いたいとの考えを生じさせたのでもありません。いいえ、そうではなくて、「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛」(ヨハネ3:1)されたのです。神は、その大きななだめの供え物のために、私たちを愛されたのではなく、私たちを愛するために、なだめのそなえものを与えられたのです。キリストは、罪に落ちた世界に神の限りない愛を注がれる仲介者でした。「神はキリストにおいて世を御自分に和解させ」(Ⅱコリント5:19)とあります。神はみ子と共にお苦しみになりました。ゲッセマネの苦しみ、カルバリーの死を通して、限りない愛を持たれる神は、私たちのあがないの値をお払いになったのです。

  


福音の道しるべ 86

2013年08月16日 | 日記

 

  86

日ごとに罪を告白した罪人らは、赦しを受けただろうか?勿論である。ではなぜ、贖罪の日に彼らの生涯は再調査され、罪から清められる必要があったのか?この時点まで、彼らの赦しは条件付きであった。それは、神が約束を守らないからではない。移り気なのは、人の心のほうである。一人ひとりの罪人が、心底赦されたいと願っているかどうかが、調査されねばならない。全宇宙の前で、神は公正な裁きを行わなければならない。罪と反逆を永久に消し去るために、神を信じると公言するすべての人の品性が徹底的に調査されねばならないのである。罪人が真に悔い改めたか否かは、どのように証明されるのだろう?罪に勝利することによってである。

罪の赦しと罪の除去は、別個の出来事である。第6章では、これら二つの区別がはっきりとなされている。贖罪の日の調査なくして、罪の除去は起こり得ない。罪の除去がなければ、神は大争闘に終止符を打つことがおできにならない。

聖所の儀式が記録されたのは、単に聖所の構造が複雑に入り組んでいたことを明らかにするためではなかった。様々な儀式を通して、救いのために神が設けられた青写真〔詳細な計画〕を、私たちが経験するように、神は望まれたのであった。では、至聖所の経験へと進む前に、至聖所の構造にふれてみたいと思う。

    新生への道 : 神の愛 ④

イエスの生涯のあらゆる行為には愛と情けとあわれみとが見られ、その心は優しい同情となって人々の上にさしのべられたのです。イエスが人となられたのも、人間の必要に応じることができるためでした。どんなに貧しい者も、どんなにみじめなも、恐れずにイエスに近づくことができました。また、幼い子供でさえ彼に引きつけられ、そのひざによじのぼって愛にあふれた物静かなみ顔に見入るのでした。

 イエスは真実をなんの遠慮もなく語られましたが、そういう時にはいつも愛を持ってお語りになりました。また人と交際するにあたっては、いつも上手に、深い思いやりと注意を払い、荒々しい言葉を用いたり、なんの理由もないのに言葉を鋭くしたり、感じやすい心を何の必要もないのに傷つけたり、人の弱さを責めたりなさいませんでした。常に愛をもって真実を語られました。また偽善、不信、不義をお責めになりましたが、そうした鋭い譴責の言葉を語られた時にも、そのみ声は涙にふるえていました。道であり真理であり命である自分を拒んだ、愛する町エルサレムのことを考えて、主イエスは泣かれました。人々はイエスを拒んだのですが、イエスは優しく彼らをあわれまれたのです。彼は一生の間、自己を全く捨てて、人のために尽くされました。イエスの目にはどの魂もみな尊く映ったのです。彼は神の子の権威を備えておられましたが、へりくだって、神の家族の一人ひとりをやさしく思いやり、どの人を見ても、この罪に落ちた魂を救うことこそ自分の使命であると思われたのです。



福音の道しるべ 85

2013年08月15日 | 日記

 

  85

中間判決とは、調査審判の性質を明らかにする司法用語である。例えば、ある女性が離婚を申請したとする。すると、裁判官は彼女の要請を承諾するが、最終決定は二年間先送りされる。この二年という期間中なら、彼女は考えを改め、前夫のもとに帰ることができる。彼女が前夫とよりを戻した場合は、この条件付きの離婚は無効となり、結婚関係は回復される。同じように、私たちの赦しと救いは、精神と品性が調査され、神の律法と完全に調和していることが判明するまでは条件付きなのである。

全知の神は、各件の結果を予見なさる。従って、神にとって調査は必要ない。各自の件は、全天使と他世界の全住民が目の当たりにできるよう、白日の下にさらされるのである。神の正当かつ公正な裁きが、全宇宙の前で擁護される。すべての人の行いと動機と考えが開示されると、神は一人ひとりに、判決を下される。御座の周りにいる者たちは、次のような叫びをあげる。「ハレルヤ、救いと栄光と力とは、われらの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」(黙示録19:1-2)。

私たちは信仰を通して救われ、行いによって裁かれる。が、神は、憐れみの神であられることを覚えよう。神は、滅びるべき者たちを探し出すためではなく、救いを受け入れる者たちを探し出すために、調査をなさるのである。預言者イザヤは次のように述べた。「シオンは裁きをもってあがなわれ、彼女の改宗者らは義をもってあがなわれる」(イザヤ1:27―欽定訳)。神の正義の裁きを通して、私たちは救われるのである。


  新生への道 : 神の愛 

このような証拠が与えられているにもかかわらず、善の敵である悪魔は人の心をくらまし、神を恐ろしいもののように見せかけ、残酷で人を決してゆるさない者、厳しい裁判官か強欲な金貸しのように、厳として動かない者のように思わせています。また創造主を、常に人類のあやまちを拾い上げて厳罰を与えている者であるかのように思わせています。イエスが人類の間にお住みになったのは、この暗いかげを取り除いて神の限りない愛を示すためでした。

 神のみ子が天からおいでになったのは、天の父をあらわすためでした。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」。(ヨハネ1:18)「父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」(マタイ11:27)。弟子の一人が、「わたしたちに父を示してください」とイエスに願った時、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」(ヨハネ14:8,9)と言われました。

 イエスはこの地上でのご自分のみわざについて次のように説明されました。すなわち、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げしらせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」(ルカ4:18)。これがイエスの使命でした。彼は広くめぐり歩いて良いことをして、悪魔に苦しめられている者をいやされました。こうしてあらゆる病気をいやしながら、村々をお通りになったので、村中誰一人、病で苦しむ者がいなくなったほどでした。こうしたお働きはイエスが神からつかわされたことのしるしでした。



福音の道しるべ 84

2013年08月14日 | 日記

 

  84

至聖所は、裁きを表している。エデンに復帰させられる前に、人類は審査されねばならない。天の住民は、罪と反逆にうんざりしている。罪のために、全天使の三分の一が失われ、以来、六千年ものつらい闘いが続いたのであった。これらの純潔な住民らが、裁きの座についている。私たちは、綿密な調査を免れて、天国に行くことができるだろうか。絶対に無理である。それは決して許されない。私たちの生涯の記録が、詳細にわたり検討されるであろう。私たちは、罪のない環境に生きるにふさわしい者か、救っても安全かどうかを調べられるのである。

もしそうでなければ、イエスはなぜ、再臨を遅らせておられるのだろう?もしも、十字架による罪の赦しだけで救いが得られるとしたら、神はなぜ、罪の存続を許しておられるのだろう?罪人が、罪の生活から離れるほどに悔い改めているか否かを、神は調査しなければならない。決意だけでは不十分である。信仰によって、罪人は罪への勝利を経験しなければならない。なぜなら、与えられたすべての光に全く服従することによって、信仰は立証されるからである。

   新生の道:神の愛 ②

 神のみ言葉は、神のご性質をあらわしています。神は自ら、ご自身の限りない愛とあわれみについてお語りになりました。モーセが「どうぞ、あなたの栄光をお示し下さい」と言った時に、神はそれに答えて、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ」(出エジプト33:18,19)ると言われました。これが神の栄光の表現です。神はモーセの前を通られる時、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」(出エジプト記34:6、7)、「怒ることおそく、いつくしみゆたかで」(ヨナ書4:2)「いつくしみを喜ばれる」(ミカ書7:18)ものであると言われました。

 神は天にも地にも、数えきれないほどの愛のしるしをまき散らして、私たちの心をご自分に結びつけようとしておられます。自然界のいろいろなもの、また人の心が感じることのできる深い優しい地上の絆によって、神は私たちに神ご自身を示そうとなさいました。しかし、これらは神の愛のただ一部を示しているにすぎません。




福音の道しるべ 83

2013年08月13日 | 日記

 83

V.至聖所:印される経験

 

 至聖所の中には、律法と贖い〔恵み〕の座、そして神のシカイナの栄光があった。神はここで、罪人と会われるのである。 

ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所〔恵みの座〕をおおい、顔は互いに向かい合い、ケルビムの顔は贖罪所に向かわなければならない。あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。その箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう(出エジプト記25:20-22)。

そもそも聖所の儀式の目的は、罪人の最終目的地である至聖所に入ることである。罪人は、至聖所における経験に備えるために、順を追って聖所の経験を積んでいく。外庭における回心の経験と、聖所〔第一の部屋〕における義認と聖化の経験は、光り輝くシカイナの栄光の前での、栄化の経験に罪人を備えさせる。罪人が神の御前で立ち得るようになるとき、贖いの計画は成し遂げられるのである。

 

   新生への道  

     神 の 愛  ①  

 自然と聖書は、神が愛であることを告げています。天の父なる神は、命と知恵と喜びの源です。自然のたとえようもない美しさを見てごらんなさい。また自然が、人間ばかりでなく、あらゆる生物の必要と幸福を驚くほど満たしていることを考えてごらんなさい。輝く太陽、地をうるおす雨、また山、丘、海、平原、それらはみな神の愛を物語っています。このようにすべての造られたものの必要をお満たしになるのは神です。詩篇の記者は、美しいことばをもって次のように歌っています。 

「よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。

あなたは時にしたがってかれらに食物を与えられます。

あなたはみ手を開いて、

すべての生けるものの願いを飽かせられます」。

(詩篇145:15,16)