SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

良い麦と毒麦のたとえ 人を救う真の福音とは 第3回

2016年03月09日 | 日記

1 律法主義者たち

クリスチャンは神様の十戒に従わなければなりませんが、自分の力では従うことが出来ません。しかし神様のおきてに従うたった一つの方法があります。それは新生の経験を持つこと、そして、信じる者と共におられるキリストのみ力に頼ることです。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人への手紙2:20)。

 

律法主義者は、神様の律法を尊重してそれを守るために絶えず努力しますが、自分の心と人生をすべて捧げていないために、汚れた自己中心的な心をもって神様のおきてに従おうと、無謀な努力をします。彼らはこの世や財産に対する徹底的な決別と、新しく生まれ変わるという霊的な経験がないまま、自分の意志と努力に頼って、神様の尊い律法を守ることで義なる者となろうとし、その対価として救いを得ようとするのです。弱い人間の力では、全く到達不可能な目標を立てて走るマラソン走者のように、最後には律法主義者は敗北と挫折の渦の中に入ってそこから逃れることが出来なくなります。これが律法主義者の最終的な運命です。

ここでひとつ確認しておきたいことは、今日多くのクリスチャンが、自分の良い行いに頼るのではなく、ただイエス・キリストの十字架の血の恵みによってのみ救われるということを信じると言います。しかし、日々の生活で神様の力を信じなかったり、神様の恵みに頼らなかったり、良心にささやく聖霊のかすかな声に耳を傾けて生きていないなら、そのようなクリスチャンも、実際には自分の力に頼って生きる律法主義的な信仰を持っているということです。



良い麦と毒麦のたとえ   人を救う真の福音とは?  第2回

2016年03月07日 | 日記

しかし弟子たちや使徒たちが歴史の現場からいなくなった後、教会は形式主義と義務感にとらわれはじめ、徐々に律法主義のドロ沼に陥るようになりました。こうしてサタンは中世宗教暗黒時代のカトリック教会を通して、各種の儀式や巡礼、つまり行いを通して救いを得ることができるという、律法主義を広めるのに成功しました。このため世界は深い霊的な暗黒期を迎え、この名残が今日まで受け継がれ、キリスト教会の中に深く根を下ろしているのです。

 そのような中、16世紀の初めから、宗教改革を通してイエス・キリストと弟子たちが確立した真のキリスト教会の信仰がよみがえります。その後ジョン・ウェスレーの時代になると、福音と律法とのバランスや調和が回復して、プロテスタント教会の全盛期を迎えました。

 しかし、この全盛期は長くは続きませんでした。いつからと正確に言うことは出来ませんが、産業革命以降、科学と産業が発達して、富に対する人間の欲求が頂天に達しはじめ、そのような世俗的な潮流が、厳粛な神様の教会の中にも浸透してきました。そしてちょうどこの頃から、キリスト教会の中に「神様の道徳律である十戒を犯す生き方をしても救いを得ることができる」という奇異な教えが出てきました。世俗化した教会は、成長と繁栄が最高の目的となり、その目的を成し遂げるためには、もっと多くの信徒を教会の中に呼び込まなければなりませんでした。

 生まれ変わっていない一部の牧師や神学者たちが、この世に対して教会の敷居を低くするというもっともらしい名目で、十戒をないがしろにするようになり、その権威を失わせてしまいました。神学的にはこれを、道徳律(十戒)廃棄論または自由主義と呼びます。

 不幸なことに、彼らの主張は、すでに世俗化し、流行やお金が与えてくれる魅力に屈してしまっていた教会には、大変肯定的に受け入れられました。そのような妥協の結果として、現代キリスト教会の中には、聖書が認める真の救済論だけでなく、律法主義と自由主義(道徳的敗北主義)が共存する奇異な状況が起きてきてしまったのです。教会の中に、救いについての異なる立場の信仰が共存するようになり、信徒は迷路の中にいるように、進む方向を見失ってさ迷う羊になってしまいました。ある人たちは「結局はどれも一緒でしょう。救いさえ得られればいいのだから、あれこれ何が正しいか議論しても、平行線で意味がないですよ」というような、無知で愚かとしか言いようがない態度をとります。このような人が、神様の教会に増え続けていく現実を見て恐れをおぼえます。

 この冊子の中で私たちは、すべての教派と宗派とを超えて、クリスチャンが持つ救済論を大きく三つに分け、その違いを比較し、どの救済論が聖書の言おうとしている本当の救いを与えるものなのかを調べたいと思います。冒頭で述べたように、その三つとは、①聖書の述べている真の救済論(信じることによって得られる義)、②律法主義、③自由主義(道徳律廃棄論)です。


良い麦と毒麦のたとえ   人を救う真の福音とは?

2016年03月06日 | 日記

人を救う真の福音とは?

 会の中に二つの福音が存在します。一つは真の福音で、もうひとつは偽の福音です。真の福音は聖書の言う「永遠の福音」で、神様が人類を救おうと計画された本当の救いの方法です。ところが偽の福音は、堕落した人間の心が、自分たちに都合がいいように勝手にその内容を作り変えたものです。

 ところで問題は、この二つの福音は、同じような聖書の言葉とイエス様の名前を使うところにあります。そのために多くのクリスチャンが、この二つの間で混乱しています。しかも、人はそれぞれ自分に合う福音を、自分の中の真実の動機と希望によって選んでいるのです。すべての人は、この二つの福音のうちのどちらかを選んで信じています。

しかしこの選びの結果として、真の福音は良い実を実らせ、偽の福音は毒麦を育てることになります。

 では、この二つの福音はどのようにして生まれてきたのでしょうか。その歴史的な側面については最後の第4部で学びますが、その前に、まず教会の中に存在する救いについての三つの立場について調べていきましょう。この問題を正しく理解することによって、自分がどちらの福音を信じているかが明らかなります。

 第1部:教会の中に存在する三つの救済論

 

私たちはクリスチャンとして、どんな救済論を信じて生きているでしょうか?私たちが認めようと認めまいと、実は私たちは、次の三つの救済論のうちのどれかを信じているのです。

 

1)聖書の言う真の救済論(信じることによる義)

2)律法主義の救済論(行ないによる義)

3)自由主義の救済論(神学的な用語では‘道徳的敗北主義’ともいう)

 

キリスト教会の歴史を振り返ってみると、いつの時代にも神様の教会を堕落させてきたのは律法主義と自由主義(道徳的敗北主義)という二つの救済論です。律法主義は救いの問題において、律法に対する従順と善い行いを通して救われると信じる危険な教理です。もう一つの自由主義の救済論は、キリストを信じているのだから律法は守る必要がなくなったと言うもので、その結果多くのクリスチャンが世俗的で自由奔放な信仰生活を送るようになりました。この立場のクリスチャンは、罪の中で世俗的な状態にいながらも、自分は救われていると勘違いしてしまうので、これも恐ろしい教理といわなければなりません。サタンはこの二つの偽りの教理を通して、神様の教会を執拗に攻撃してきました。

 サタンはかつてユダヤ教会に徹底した律法主義を植えつけることで、メシアを十字架につけるのに成功しました。しかしイエス・キリストの奉仕と死を通して、初代のキリスト教会が起こされ、まことのキリスト教会の信仰が始まりました。

初代のキリスト教会の信仰とは、消し去ることの出来ない自分の罪を赦されたマクダラのマリヤが、自分のすべてのものを売り払って高価な香油を買い、キリストの頭に注いだような信仰のことを言います。イエス・キリストに対する感謝と愛のゆえに、自分の生涯のすべてをキリストとその真理に捧げた信仰が、初代のキリスト教会の信仰です。愛はマリヤの心を真理にとらえられた、義の僕としました。そこでイエス様は「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と言われたのです(マルコ14:9)。マリヤがイエス様に対して表した信仰が、聖書が伝える救いの経験の一例です。


聖所  最終回  デイビット・カン講演

2016年03月05日 | 日記

 罪を清める三つのもの

もうひとつ、学んでおくべきことがあります。それは聖所の外庭で、罪を清めるために三つのものが用いられたことです。それは、血と火と水でした。血は、罪をその根源である心の動機と思いを清め、火は、罪を焼き尽くして清め、水は、罪の生涯と行いを洗い清めることを意味しました。レビ記には、命がその血にあると教えています。血液は、私たちの体内を循環し、各細胞に栄養と酸素を供給します。また血液は、体内の老廃物を集め、体外に排出する助けをします。神様の命と福音の力が臨む時、私たちの罪は取り除かれ、心は清められるのです。そのような意味でパウロは「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(へブル9:14)と、言ったのでした。

次に火は、罪を焼き尽くすことを象徴していました。私たちのうちの罪は、ことごとく焼き尽くされなければなりません。また、水が私たちの体の表面を洗うように、私たちの外面的な行動を、み言葉と照らして正していき、洗い清められていかなければなりません。

 聖所の外庭で行われる儀式の中で、罪祭の血だけが、聖所の中に持ち込まれ、そこで注がれました。血が聖所の垂れ幕の前に注がれることは、霊的には、私たちが告白した罪が、天の聖所に移され、書物に書かれたことを意味していました。もし、私たちの罪が天の聖所に移されなければ、執り成しの祈りによって与えられる、罪の赦しを受けることは出来なくなります。たとえ私たちが赦されたとしても、罪の記録は、私たちが罪の完全な除去を受ける時まで、天の聖所に残っているのです。天に移された私たちの罪は、大贖罪日に完全に罪が除去される時まで、天の記録に残されています。このことについては、罪の除去の学びで詳しく見ていきます。

次の講義では、罪祭について学んで行きたいと思います。罪祭は、イエス様の犠牲を表していて、本当に重要なトピックです。罪祭は、外庭の経験における中心ともいえるものです。私たちは、主がどのような経験を十字架の上でなされたのか?新しい契約とは私たちの経験においてどのような意味を持つのか?私たちを勝利者とする力とはなんであるかについて、学びます。

では、次回またお会いしましょう。

 神様の恵みが皆様、お一人おひとりにありますように。

 

 


聖所  第13回  デイビット・カン講演

2016年03月04日 | 日記

酬恩祭から学ぶ教訓

この酬恩祭の儀式には、ひとつ特別なことがありました。それは私たちに、深い感銘をもたらすものです。儀式をつかさどる祭司には、この酬恩祭の時だけ、三つの部位、つまり、胸と右のもも(右の肩)、そして、両方の頬が分け与えられました。(レビ記7:28~32;申命記18:3参照)。

それは何を意味していたのでしょうか。まず、胸を与えることは、私たちが悔い改めて神様の前に進み出るならば、ご自身の胸の中に抱きしめて、歓迎されるということを教えていました。私たちは、常に神様のふところにいるべき者です。神様が、どうして私たちを忘れられるでしょうか!

「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ40:11)。

しかし、さらに知っておくべきことがあります。イエス様が弟子たちと一緒に、最後の晩餐の席につかれた時、愛された弟子ヨハネは、イエス様の左側で、やや傾いて食卓につく彼らの習慣によって、頭をイエス様の胸に寄りかからせていました。その時イエス様が「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切ろうとしている」と言われました。ペテロの合図を受けたヨハネが、イエス様に「イエスの胸によりかかって、『主よ、だれのことですか?』」(ヨハネ13:25)とたずねながらイエス様を見上げました。するとイエス様は、人の心の奥底までも見抜くような澄み切った目で、ヨハネを見つめられたのです。良心が潔白でなければ、誰がその視線に耐えることが出来るでしょうか。イエス様とそれほど身近にいて、嘘をついたり、作り話を言えるでしょうか。そのように、キリストの胸のうちにとどまる人は、いつも清い心を持っていなければならないのです。

 次に右のもも(肩)を与えることは、私たちが神様と和解をした後では、私たちの生涯の全てが、神様の肩にかかっていて、これからは、神様が私たちの全ての責任をとって下さることを象徴していました。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり」(イザヤ9:6)。

 あなたは小さいころ、父親の肩に乗せられたことはないでしょうか。その時、あなたはどれほど大きな安心感を持ったか、思い出してみて下さい。私たちの生涯は、イエス様の肩の上にある事実を覚えましょう。

 次に、供え物の中から、両頬が切り取られ、祭司に与えられました。それは私たちが、神様に生涯を捧げて献身した後は、神様のご品性で生きるべきであることを表していました。私たちは、片方の頬を打たれるなら、他の頬をも向けてやりなさいという、主の教えを実践するのです。

「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった」(イザヤ50:6)

 酬恩祭は、神様と和解する者のたどるべき道を、象徴を通して、具体的に詳しく表したものでした。私たちに救いの奥義を、このように分かりやすく、目に見える形で教えてくださった神様に、感謝と賛美を捧げましょう。