屋久島は、“ひと月に35日雨が降る” と言われるほど雨が多い所です。
そのお陰で、あの巨大な屋久杉が育つのでしょうが、私たちはこの合宿中に屋久島の雨の洗礼を受けることになるのです。
1980年3月29日のことでした。
天候がすぐれず、私たちは宮之浦岳と永田岳の間にある平坦地で前日から沈殿(行動を控えてテント内でじっとしていること)していました。
雨は次第に強くなり、夜の10時頃には台風並みの暴風雨に見舞われました。そのうちに、雨を凌ぐために張っていたフライシートのロープが「バシッ!」という音を立てて切れてしまったのです。
私は後輩を連れてロープを張り直しに行きましたが、その後も強烈な風で他のロープも次々と切れていきました。
フライが無くなったテントは、縫い目から雨が染み出し、ついにはテントの中も水浸しです。
シュラフと着替えだけは濡らさない様にビニール袋に入れていましたが、激しい雨と風は容赦なくテントを襲い、私たちがテントに溜まった雨水をコッフェル(山行用の調理鍋)や(お椀型の食器)で必死になって搔き出してもテントは水浸しでした。
悲観的になるまいと5人で山の歌を大声で歌っていると、近くでテントを張っていた鳥取大学のグループと明治大学の単独行の男性がテントを潰され、私たちのテントに助けを求めに来ました。
外は嵐です。非難できる場所は私たちのテントだけです。断わるということは彼らを見捨てるということです。
狭いテントの中、13人で山の歌を歌い合いながら膝を抱えて嵐の夜を耐え忍んだのです。
眠れない夜が明ける頃、雨と風は徐々におさまっていきました。
実は、出発前に屋久島の天候に詳しい先輩からのアドバイスで、風と雨に強い頑丈なテントに変更していたのです。
その分テントは重くなりますが、最悪のケースを想定した準備をすることで、私たちだけでなく他の登山者の命も守ることができたと考えています。
雨を吸ってずっしりと重くなった荷物を雨で濡れたキスリング(横に張り出したザック)に詰め込んで、フラフラになりながら山を下りたのでした。
この後も、集落近くの川にかかる橋が壊れていて渡れず、川の手前で余計に1泊するなどの想定外もありましたが、何とか無事に山を降りることができたのでした。
登山後のロードもトコブシとフキばかり食べたサバイバルも今となっては懐かしい思い出です。
最後に、屋久島での忘れられない私だけの思い出を… 、
サバイバル時の食料調達中のことでした。
海岸の岩場の上に立ち青く透明な海を見ていた時のことです。
海の中を、2m近い大きな生物がまるで飛んでいるかのように翼をはためかせて泳いでいるのです。
それも、右や左にスイスイと方向を変えながらの軽い身のこなし様でした。
私は、それが何であるか最初は分かりませんでしたか、暫く目で追った後で、大きな海ガメだと分かったのでした。
大自然の中で生きる海ガメは、水族館で見るそれとは全く別の生き物でした…
屋久島の雨の洗礼を受け、私たちは以前にも増して "大自然の前では常に謙虚であれ" という想いを強くしました。
< 完 >