TANEの独り言

日々の生活の中でのつぶやきだから聞き流してネ

我が青春の山<中部山岳サイクリング> その③

2020-10-31 07:25:00 | 山行
何とか和田峠まで登り切り、辺り一面にニッコウキスゲが咲き誇る霧ヶ峰の高原で1泊しました。

1泊と言いましたが、あまりの疲労困憊振りでテントを立てる気力もなく、草原にテントとフライシートを広げ、その間に潜り込んでの爆睡でした。

朝方、人の話し声で目が覚めたのですが、その人たちは私たちのことを “行き倒れ” か何かと心配されていたのでした。



次の日はビーナスロードに沿って白樺湖からメルヘンロードを経て北八ヶ岳の麦草峠を目指します。



メルヘンロードの下り坂の途中から雨が降り出しました。

夏なのですが、高原の長い長い下り坂を濡れながら下っているうちに寒さでガタガタと震えが出てきたのです。

寒さに耐えられず、1軒のペンションの軒先を借りて雨宿りをしました。



すると、そのペンションの方が私たちを見つけて、建物の中で休みなさいと親切にも声を掛けてくださったのです。

寒さで震えている私たちのために、温かい飲み物を出してくれただけでなく、何と暖炉に薪まで焚べてくれました。

ペンションの方々のご好意で私たちは身も心も暖かくなりました。



その時ペンションの名前をお聞きしていたのですが、失礼なことにいつの間にか、私はその名前を忘れてしまっていたのです。

3年ほど前、その合宿のメンバーだったM田氏と40年ぶりくらいに会い、思い出話に花が咲きました。

そのM田氏も、お世話になったそのペンションのことが忘れられずに場所を探していたそうです。

でも、分からなかったと…  、

でも、ペンションの名前はしっかりと覚えていたのでした。

「◯絵夢」! 

私はこのペンションの名前を耳にした瞬間、記憶が鮮やかに蘇りました。


このブログをまとめるに当たり、再度、あの合宿の行程をスマホの地図アプリで辿って行きました。

そして、ついに見つけたのです、そのペンションを!

今すぐにでもそのペンションを訪ね、40数年前のお礼を言いたい気持です。


ブログ仲間で、現在ベトナムで頑張っているT良氏もこの合宿のメンバーです。

この記事を見たらきっと驚くことでしょう。

「T良くん、とうとう見つけたよ! 君が自由に一時帰国できるようになったら一緒にあの時のお礼を言いに行こう!」



       <その④に続く>











我が青春の山<中部山岳サイクリング> その②

2020-10-30 07:06:00 | 山行
いまだかつてない、ワンダーフォーゲル史上初めてといってもよいくらいのとんでもない夏合宿は始まりました。

合宿のメンバーである同級生のM田・T良の2人、1年の後輩3人と私の計6名は、国鉄の列車に揺られ、諏訪湖近くの塩尻駅に到着しました。

私たちはの旅の中で、その地域で生活する人たちから、生涯忘れられない優しさを沢山いただきました。

それは合宿初日からありました。

塩尻駅に着き、その日は駅の外で野宿するつもりでいたのですが、塩尻駅の駅長さんのご好意で駅の待合室を使わせてもらいました。



本当に有り難いことでした。そればかりか、私たちにのために大きな鍋に冷や麦まで持ってきてくれたのです。

ゴマ醤油で食べたその時の冷や麦の味は、信州訛りの駅長さんの優しさと一緒になって忘れることができません。

翌日、駅の方に丁重にお礼を言って私たちは出発しました。

諏訪湖畔からすぐに上り坂が延々と続きます。

     霧ヶ峰高原へと続く和田峠の坂道の途中にて


テントや登山靴などの山の道具とサイクリングに必要な工具、食料、着替えなどを自転車にくくり付けているのでかなりの重量になります。

そして、一日一回は長い長い登り坂が待っていました。

      北八ヶ岳にある白駒の池近くの麦草峠にて



自転車をジグザグに漕いで坂道を登ります。進まなくなると、自転車を降りて押し上げて行くのです。

足だけでなく腕の力も入らなくなり、休憩が多くなりますま。

なかなか距離が稼げず、本当に今日中に着けるのだろうかと何度も思いました。

   南アルプススーパー林道の最高地点の北沢峠にて


サイクリング初日は和田峠までの登り坂、2日目は麦草峠、3日目は美濃戸口、その後は南アルプススーパー林道の北沢峠、富士五湖の一つ本栖湖までの登り坂が待っていたのでした。

      合宿最後の坂道を登り終えた本栖湖畔にて




      <その③に続く>

我が青春の山<中部山岳サイクリング> その①

2020-10-29 10:42:00 | 山行
大学3年の夏合宿で、いまだかつて無い合宿計画を立案し提出しました。

サイクリングで移動しながら中部地方の山々を渡り歩くという、ワンダーフォーゲル史上未だかつてないといってもよいくらいのとんでもない計画でした。

塩尻駅まで自転車を輪行し、霧ヶ峰と白樺湖を見て、



北八ヶ岳の白駒の池、



南八ヶ岳へ移動して赤岳に登ります。



その後、高遠町から南アルプススーパー林道を通り北岳・間ノ岳・農鳥岳へ。



更に自転車で広河原から野呂川、早川沿いに下り、富士五湖を目指します。

最後は日本1高い富士山に登ろうという計画です。




私は、エアコンのCMで有名になった “霧ヶ峰” がどんな所か自分の目で見てみたかったし、南アルプスの白根三山にも、そして北八(北八ヶ岳)・南ハ(南八ヶ岳)にも行ってみたかったのです。

できるなら富士山の山頂から御来光も見てみたいと思ったのでした。


ある程度、大変キツイ合宿になることは想像していましたが、実際は想像を超える過酷さが待っていました。

それと同時に、その地域地域で優しい言葉をかけて頂いたり温かいもてなしを受けるなど、生涯忘れることのできない旅になりました。

        親切にしてして頂いた「◯絵夢」にて




記憶をたどりながら、40年前の夏合宿を数回に分けて記します。


       <その②に続く>












我が青春の山<屋久島 宮之浦岳・永田岳> 後編

2020-10-28 08:22:00 | 山行
屋久島は、“ひと月に35日雨が降る” と言われるほど雨が多い所です。

そのお陰で、あの巨大な屋久杉が育つのでしょうが、私たちはこの合宿中に屋久島の雨の洗礼を受けることになるのです。




1980年3月29日のことでした。
天候がすぐれず、私たちは宮之浦岳と永田岳の間にある平坦地で前日から沈殿(行動を控えてテント内でじっとしていること)していました。

雨は次第に強くなり、夜の10時頃には台風並みの暴風雨に見舞われました。そのうちに、雨を凌ぐために張っていたフライシートのロープが「バシッ!」という音を立てて切れてしまったのです。

私は後輩を連れてロープを張り直しに行きましたが、その後も強烈な風で他のロープも次々と切れていきました。

フライが無くなったテントは、縫い目から雨が染み出し、ついにはテントの中も水浸しです。

シュラフと着替えだけは濡らさない様にビニール袋に入れていましたが、激しい雨と風は容赦なくテントを襲い、私たちがテントに溜まった雨水をコッフェル(山行用の調理鍋)や(お椀型の食器)で必死になって搔き出してもテントは水浸しでした。

悲観的になるまいと5人で山の歌を大声で歌っていると、近くでテントを張っていた鳥取大学のグループと明治大学の単独行の男性がテントを潰され、私たちのテントに助けを求めに来ました。

外は嵐です。非難できる場所は私たちのテントだけです。断わるということは彼らを見捨てるということです。

狭いテントの中、13人で山の歌を歌い合いながら膝を抱えて嵐の夜を耐え忍んだのです。

眠れない夜が明ける頃、雨と風は徐々におさまっていきました。


実は、出発前に屋久島の天候に詳しい先輩からのアドバイスで、風と雨に強い頑丈なテントに変更していたのです。

その分テントは重くなりますが、最悪のケースを想定した準備をすることで、私たちだけでなく他の登山者の命も守ることができたと考えています。



雨を吸ってずっしりと重くなった荷物を雨で濡れたキスリング(横に張り出したザック)に詰め込んで、フラフラになりながら山を下りたのでした。

この後も、集落近くの川にかかる橋が壊れていて渡れず、川の手前で余計に1泊するなどの想定外もありましたが、何とか無事に山を降りることができたのでした。


登山後のロードもトコブシとフキばかり食べたサバイバルも今となっては懐かしい思い出です。



最後に、屋久島での忘れられない私だけの思い出を…  、

サバイバル時の食料調達中のことでした。

海岸の岩場の上に立ち青く透明な海を見ていた時のことです。

海の中を、2m近い大きな生物がまるで飛んでいるかのように翼をはためかせて泳いでいるのです。

それも、右や左にスイスイと方向を変えながらの軽い身のこなし様でした。

私は、それが何であるか最初は分かりませんでしたか、暫く目で追った後で、大きな海ガメだと分かったのでした。

大自然の中で生きる海ガメは、水族館で見るそれとは全く別の生き物でした…



屋久島の雨の洗礼を受け、私たちは以前にも増して "大自然の前では常に謙虚であれ" という想いを強くしました。


        < 完 >









我が青春の山<屋久島 宮之浦岳・永田岳> 前編

2020-10-27 08:40:00 | 山行
大学3年に上がる前の3月、同級生のH田、1年後輩3人の計5人で屋久島へ行きました。

屋久島では、永田岳・宮之浦岳に登り、下山後に海岸部をロード(ひたすら歩く)し、適当な場所でサバイバル的な活動を行う計画でした。

国鉄で鹿児島まで行き、そこからはフェリーで数時間かけて屋久島へ渡ります。
港から登山口まではバスで移動しました。


屋久島は"洋上のアルプス” とも呼ばれており、海抜0mの海岸から一機に2000m近くの高山へと標高を上げていきます。

途中、トロッコの通る軌道をしばらく歩きます。
軌道の終点辺りで綺麗な水が流れる沢があり、屋久島の美味しい天然ミネラルウォーターを飲んで休んだりしながら頂上を目指しました。

屋久島は 屋久杉が有名です。
私たちは登山道の脇にそびえる杉の巨木の存在感に、ただただ圧倒されたのでした。


上の写真がウィルソン株です。
伐採後の巨大な切り株が残り、空洞になっているので中に入れました。

私たちと比べると、そのスケールの大きさが伝わってきませんか?



縄文杉です!

若かった私たちの目にも神々しく映りました。

当時は近づくことができ、幹に触れて樹齢7000年のパワーを直接自分の手や頬で感じることができたのです。


        <後編に続く>