今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

高野山 <金剛峯寺①>その3(和歌山県伊都郡高野町高野山)

2021年07月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

高野山 金剛峰寺
空海は高野山を開創した際、一山を指して「金剛峯寺」と名付けた
寺名は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』という経典由来するといわれている
明治期以降は1つの寺院の名称になっている
今日では、高野山真言宗管長が座主(住職)として居住する本坊寺院を指すことが多い

正門(和歌山県指定文化財)
文禄2年(1593年)再建
降雨のため正門前の駐車場で待機し様子を見ていると、僧侶が正門前を通過する際に一礼していく



豊臣政権時代の唯一の遺構で、 かつて正門を利用できたのは皇族と高野山の重職の僧だけ
一般僧は右方にある小さなくぐり戸を使用した



「手水舎」



正門の正面に本堂(主殿)が見える



かご塀






昭和天皇 皇后両陛下 行幸啓記念植樹の「高野槇」



経蔵(和歌山県指定文化財)
延宝7年(1679年)に、釈迦三尊とともに寄進された



火災発生時に類焼しにくいように主殿とは別棟として建てられ、重要なものを収蔵していた



経蔵から眺めると、右手に正門と鐘楼



左手に本堂(主殿)



鐘楼(和歌山県指定文化財)
元治元年(1864年)再建と考えれている
袴腰付入母屋造り






本堂<主殿>(和歌山県指定文化財)
文禄2年(1593年)豊臣秀吉が亡き母(大政所)を弔うために建てた「青巌寺(せいがんじ)」の遺構



現在の建物は文久3年(1863年)に再建されたもの
青巌寺は、明治2年(1869年)に隣接する「興山寺」と合併し「金剛峯寺」へと改称された



檜皮葺の屋根の上には、雨水を溜めておく「天水桶」が置かれている



幾度となく火災に見舞われた経験から類焼を防ぐために設けられた桶である



大玄関と小玄関があり、大玄関は表玄関に相当し、かつては皇室、高野山の重職に就いている僧のみが使用した
小玄関は大玄関を使用できない上位の僧侶が使用し、一般僧侶は裏口を使用した



大玄関の彫刻









堂内に入るのは二度目だが拝観料も二倍になっているような気がする



次回に続く

撮影 令和3年5月24日
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高野山 <壇上伽藍②>その2(和歌山県伊都郡高野町高野山)

2021年07月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

高野山 <壇上伽藍②>

根本大塔
金堂とともに壇上伽藍の中核となる堂塔で、高野山のシンボルになっている



空海は高野山開創にあたり、真言密教の根本道場として、この大塔を建立した
落慶は空海入定後の貞観18年(876年)頃



根本大塔は空海が唐から伝えた日本最古の多宝塔といわれる
落雷などで5度も焼失し、その都度再建されてきた
現在のものは昭和12年(1937年)に再建されたもの



高さ48.5m、幅30m 鉄筋コンクリート造り



堂内では、本尊の胎蔵界大日如来、その周囲を金剛界の四仏がとり囲んでいる
塔内の16本の柱には「16菩薩」、四隅の壁には密教を伝えた「八祖像」が描かれ……
堂内そのものが立体曼荼羅となっている



大塔の鐘
空海が発願し、第二世・真然の代に完成した
1日5回、山内に時刻を知らせている
焼失して3度ほど改鋳された



現存は、天文16年(1547年)の鋳造 直径7尺 重量1600貫
日本で4番目の大きさで「高野四郎」の愛称で親しまれている



日本の寺の鐘の大きさのランキングで……
奈良太郎(東大寺)吉野三郎(金峯山寺)高野四郎<二郎とも>(高野山)
海に沈んだという巨鐘を「海に太郎」と呼び、「海に太郎、奈良次郎、吉野三郎、高野四郎」と称する場合もある



愛染堂
建武元年(1334年)に初代建立
後醍醐天皇の勅願により四海静平、玉体安穏(天下泰平)を祈念のため創建



本尊は後醍醐天皇と等身とされる愛染明王
現在の堂は嘉永元年(1848年)の再建



不動堂(国宝)
建久8年(1197年)上皇の皇女八條女院内親王の発願により行勝上人が創建
高野山内の一心院谷から、明治41年(1908年)に現在地に移築された



現在の堂は14世紀初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、2番目に古い建築物
桧皮葺、入母屋造の住宅風仏堂



四隅の形に違いがみられるのは、4人の工匠が担当し、随意にそれぞれ腕を揮ったためと伝えられている






壇上伽藍の堂塔で唯一国宝に指定されている
脇侍の八大童子立像は運慶作で国宝に指定されている



大会堂
安元元年(1175年)鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子内親王が父の追福のため創建
もとは東別所にあったが西行法師が、長日不断談義の学堂として現在地に移し蓮華乗院と称していた



後に法会の集会堂になり、現在の堂は嘉永元年(1848年)再建



「西行桜」
歌人として有名な西行法師は、久安5年(1149年)32歳頃から約30年間、高野山で草庵を結んだ
高野山では「大会堂と三昧堂」の造営、移築に尽力した
三昧堂移築に際し、西行法師によりお手植えされたのが由来



三昧堂
延長7年(929年)初代創建、もとは総持院境内にあったが、治承元年(1177年)西行法師が現在地に移した



現在の堂は文化13年(1816年)再建



東塔
大治2年(1127年)初代創建、尊勝仏頂尊と不動明王・降三世明王を祀る



弘法大師入定1150年御遠忌記念事業で昭和59年(1984年)に再建



再び金堂へ






蓮池



「善女龍王社」



壇上伽藍を回るのに中門前の無料駐車場を利用した



次回に続く

撮影 令和3年5月24日
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高野山 <大門・壇上伽藍①>その1(和歌山県伊都郡高野町高野山)

2021年07月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月24日

世界遺産 高野山 <大門>
2013年秋に一度訪れ「金剛峯寺・奥の院・金剛三昧院」を回ったことがある
自宅に戻り調べてみると、重要な部分が抜け落ちていることに気付いた
年齢的に急がねばならないと思い、昨年秋に周辺で3~4日待機していたが雨続きで断念した
今年は梅雨が早く旅を始めてから毎日のように雨が降っている
午前中は降水確率が低いという天気予報を確認し、早朝に道の駅「柿の郷くどやま」を出発した

大門(重要文化財)
車の運転は好きだが、高野山への道は坂とカーブの連続で油断できず疲れてしまう
それが理由ではないが、大門を通り過ぎてしまった(写真は帰り際に撮ったもの)

「大門の扁額」
山号「高野山」が一文字ずつ扁額として掲げられている
山号自体は弘仁7年(816年)に空海が嵯峨天皇から下賜されたもの
扁額は空海の筆跡で残された文書から拡大したものだとされる



高野山の総門 高さ25m、間口21m、奥行8mで和歌山県最大の楼門



前身は開創当時の高野山西口の鳥居とされ、永治元年(1441年)に楼門に改められた
その後、焼失と再建を繰り返し、現在の大門は宝永2年(1705年)に建立されたもの



金剛力士像(仁王像)
東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ巨像

阿形像(仏師:康意作)






吽形像(仏師:雲長作)






高野山 <壇上伽藍①>
高野山において、空海の廟所のある「奥の院」とともに二大聖地とされるのが「壇上伽藍」である
開創当時から高野山の中心とされた聖域であり、主要な堂宇が集まっている
空海は高野山を開くにあたり曼荼羅の世界を具現化しようとしたという
空海の構想に基づく密教伽藍が形になったのは、没後半世紀を経た仁和3年(887年)であった

中門
伽藍の正門として南側入り口に建つ
弘仁10年(819年)の創建以来、焼失・再建を繰り返す



平成27年(2015年)、高野山開創1200年記念大法会を期して再建された



四天王像
持国天・多聞天(江戸時代末期の作)






増長天・広目天像も新造して四天王像を安置する四天門として甦った






金堂
壇上伽藍の中心で高野山一山の総本堂にあたり、重要な法会の多くはここで行われる
金堂は当初は「講堂」と呼ばれていた
創建当時の本尊は薬師如来は絶対秘仏で一度も公開されることなく昭和元年(1926年)の火災で焼失した



現在の本尊は彫刻家 高村光雲によって造られた薬師如来(秘仏)
7代目の本堂は昭和7年(1932年)に落慶
屋根は入母屋造、梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m



耐震、耐火の鉄筋コンクリート造で外部に檜材を貼り付けた木造建築の外観



六角経蔵(荒川経蔵)
平治元年(1159年)鳥羽天皇の皇后であった美福門院得子が鳥羽天皇の菩提を弔うために創建
紺紙金泥一切経を納置するとともに、一切経会料として紀伊国荒川荘を寄進した



金泥一切蔵、荒川経蔵とも呼ばれている
現在の経蔵は昭和9年(1934年)の再建



山王院(重要文化財)
御社(みやしろ)の拝殿として建てられた
承安元年(1171年)以前の創建 現在の堂は1845年の再建



桁行21.3m、梁間7.8m
山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味



堂では「竪精(りっせい)明神論議や御最勝講(みさいしょうこう)」と呼ばれる重要な学道行事が行われる



毎月16日には明神様に「御法楽」として捧げる月例の論議や法会も行われている
山内の僧侶にとっては、仏教を学び、修行した成果が試される試験場となる






御社<明神社>(重要文化財)
弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から地主神として勧請、高野山の鎮守としている
現在の社殿3棟は、大永2年(1522年)の再建



社殿は三つある
一の宮:丹生都比売命・気比明神
二の宮:高野明神(狩場明神)・厳島明神
総 社:十二王子・百二十伴神



西塔(重要文化財)
空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い、第二世・真然が大塔に続いて、仁和3年(887年)初代塔を建立



根本大塔(胎蔵界)と西塔(金剛界)を二基一対として建立された



現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建
高さ27.27m 擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔 本瓦型銅板葺






孔雀堂
正治2年(1200年)延杲大僧正が請雨祈願が成就したことにより後鳥羽法皇の賞賜として建立



現在の堂は、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として昭和58年(1980年)再建



准胝堂
光孝天皇の御願により第二世真然大徳が973年ごろ創建
現在の堂は明治16年(1883年)再建



本尊は准胝観音(准胝仏母)で、空海が出家得度の際の本尊として自ら造立したと伝わる



鐘楼






御影堂
大師の持仏堂として創建され、天保14年(1843年)の大火で消失し、弘化4年(1847年)再建
梁間15.1mの向背付宝形造檜皮葺



入定後は、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした






三鈷の松
空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)に中国・寧波の浜から「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた
嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信した









次回に続く
撮影 令和3年5月24日
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仏頭山 上宮皇院 菩提寺<橘寺>(奈良県高市郡明日香村大字橘)

2021年07月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月23日

仏頭山 上宮皇院 菩提寺<別称:橘寺>
前年秋、明日香村の古墳と飛鳥時代石造物巡りをした
歩き疲れて目の前に橘寺があるのに入浴施設を選んでしまい悔いていた
無料駐車場のある西門から入る



「手水舎」



「親鸞聖人像」






「東門」
東門が当寺院の正門となる



「鐘楼」



「往生院」
受付で往生院の天井画は撮影できるので是非にと言われた場所



橘寺は2度目の参拝になるが、往生院の記憶がない



明日香人気なのか参拝者が絶えない
院内では皆天井画に見入っている



全国各地から寄せられた260点の献画



豪華絢爛の天井画を見逃すなの案内通りである



柔軟性に欠く老人の首にはかなり負荷がかかる
周囲の目がなければ畳に寝ころんで撮りたかった



院内の様子
(新聞記事によると)左奥の聖徳太子像が里帰りしたようだ



橘の 寺の長屋に 我が率(ゐ)寝(ね)し 童女放髪(うなゐはなり)は 髪上げつらむか<万葉集>
<意味>
橘寺の長屋に連れ込んで寝た、まだ髪を結ってもいなかったあの少女は、もう髪上げをするような娘さんにになったかなぁ



「廻廊跡」



「聖倉殿」



「阿字池」
梵字の「あ」を形取り聖徳太子が作ったと伝えられている



「三光石」



606年に推古天皇の命を受けて勝鬘経の講義をした



その講義のすばらしさに天から美しい花びらが舞い降り、冠が「日・月・星の光」を放ったと伝わっている



「経堂」






賓頭盧尊者



弘法大師像



傳大師像
中国南北朝時代にあたる6世紀の僧で、お経を収める「転輪蔵」の創始者



阿弥陀如来像



「二面石」



右善面、左悪面



高さ約1mほどの飛鳥時代の石造物
左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現している



善面



悪面



二面石の奥に橋がある



この建物の名称は分からない






本堂の方に移動する



修復作業中の「観音堂」



「護摩堂」



「本堂(太子堂)」
この位置に創建時講堂があった
現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864年)建てられた



「黒駒像」
聖徳太子の愛馬の像で、黒駒にまたがって各地に説法へ出かけたとされている



本尊:聖徳太子坐像(重文)が安置



聖徳太子はこの辺りで誕生し、幼少期を過ごした



撮影 令和3年5月23日
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豊山 神楽院 長谷寺 その2(奈良県桜井市初瀬)

2021年07月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和3年5月23日

豊山 神楽院 長谷寺 その2

鐘楼(重要文化財)
仁王門から本堂まで399段の登廊を上がってきた
上登廊を登切ったところに建っているので、離れて見なければ鐘楼と気付かない



慶安3年(1650)再建、入母屋造(桁行1間・梁間1間)
梵鐘に文亀元年(1501)の銘刻



梵鐘は山の高所にあることから「尾上鐘」と称す
木津の野慈という男が観音の霊験によって出世して梵鐘を寄進したことから「未来鐘」ともいう



「三社権現(瀧蔵三社)」






「愛染堂」






愛染明王像とそれを撮っている私



本堂(国宝)
本尊を安置する「正堂、相の間、礼堂」から成る巨大な建築で、前面は「懸造」になっている
本堂は奈良時代の創建後、天文5年(1536年)までに計7回焼失している
7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天文7年(1538年)に再興(現存・8代目)



「相の間」から正堂に安置されているご本尊をお参りしている様子
この時期はご本尊の特別公開期間中(別途特別拝観料が必要)
初めて参拝したときに拝観しているので今回はやめた



正面に移動。額には「大悲閣」
大悲閣とは、観世音菩薩像を安置した仏堂



「礼堂」内の様子



壁面にはいくつもの奉納額が掛けられている






私も「相の間」からご本尊「木造十一面観音立像(重文)」を拝観
個人的には脇侍の二体の仏像(木造難陀龍王立像・木造赤精童子立像)に魅力を感じた
相の間での撮影は禁止されている



礼堂内を撮っているときに偶然、ご本尊が写っていたので拡大してみた
高さ10m以上ある本尊、下半身が見えない






本堂から五重塔を眺める



「大黒堂」



「開山堂」






「三重塔跡」
礎石が残る。明治9年(1876年)に落雷で焼失した



「五重塔」
戦後、日本で初めて建てられた五重塔



三重塔があった北側に昭和29年(1954年)建立された






塔から本堂を眺める



「本長谷寺」
長谷寺創建の地に建っている






一切経蔵(奈良県指定文化財)






「弘法大師御影堂」






「仁王像」
帰り際に仁王門を見ていると僅かに隙間があったのでスマホで撮ってみた






唯一撮ることができる仏像なので工夫している(笑)






撮影 令和3年5月23日
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