訪問日 令和4年6月4日
福知山城
福知山城は丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城
(横山城を石垣づくりの城として改修)
江戸時代には福知山藩の居城
駐車場からはこの橋を通って城内に入る
織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした
天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が昭和61年(1986年)に復元された
石垣の転用石
五輪塔・宝篋印塔・石仏・石臼・灯籠などが利用されている
美しい石垣だがよく見ると「転用石」が使われていることが分かる
銅門(あかがねもん)番所
城の周辺を散策する(石垣を注視してしまう)
「野面積み」「乱石積み」と呼ばれる未加工の自然石が積み上げられている
この石段を上がり城内に向かう
鉄砲石
城内に入る
福知山市郷土資料館の施設となっている
「明智軍記」から抜粋
左ページ1行目
光秀が愛宕百韻で詠んだ「トキハ今 アメガ下知るル五月哉」
「山崎の戦い」
「光秀辞世の句」
木造明智光秀坐像(日下寛治 1959年作 )
「絵本豊富勲功記」より抜粋
「内助の功の図」
「信長嫌て光秀を打擲する図」
快川紹喜が燃え盛る三門の上で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と喝破したことに感銘を受け恵林寺を訪れたことがある
信長が光秀を打擲する場面との結びつきを思い出すことができた
「三宅藤兵衛 光秀が生害を止める図」
天守閣で将棋の「竜王戦」の対局が行われた
将棋界も顔ぶれが変わり、藤井聡太へ
天守閣からの眺望
豊磐井(とよいわいのい)
いつもは北海道に帰るために舞鶴港へ向かう通過点であったが立ち寄ることができてよかった
撮影日 令和4年6月4日
福知山城
福知山城は丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城
(横山城を石垣づくりの城として改修)
江戸時代には福知山藩の居城
駐車場からはこの橋を通って城内に入る
織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした
天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が昭和61年(1986年)に復元された
石垣の転用石
五輪塔・宝篋印塔・石仏・石臼・灯籠などが利用されている
美しい石垣だがよく見ると「転用石」が使われていることが分かる
銅門(あかがねもん)番所
城の周辺を散策する(石垣を注視してしまう)
「野面積み」「乱石積み」と呼ばれる未加工の自然石が積み上げられている
この石段を上がり城内に向かう
鉄砲石
城内に入る
福知山市郷土資料館の施設となっている
「明智軍記」から抜粋
左ページ1行目
光秀が愛宕百韻で詠んだ「トキハ今 アメガ下知るル五月哉」
「山崎の戦い」
「光秀辞世の句」
木造明智光秀坐像(日下寛治 1959年作 )
「絵本豊富勲功記」より抜粋
「内助の功の図」
「信長嫌て光秀を打擲する図」
快川紹喜が燃え盛る三門の上で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と喝破したことに感銘を受け恵林寺を訪れたことがある
信長が光秀を打擲する場面との結びつきを思い出すことができた
「三宅藤兵衛 光秀が生害を止める図」
天守閣で将棋の「竜王戦」の対局が行われた
将棋界も顔ぶれが変わり、藤井聡太へ
天守閣からの眺望
豊磐井(とよいわいのい)
いつもは北海道に帰るために舞鶴港へ向かう通過点であったが立ち寄ることができてよかった
撮影日 令和4年6月4日