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喜多方発・公民館で直江兼続を学ぶ。

2009-08-23 17:49:40 | Weblog
蔵のまち、喜多方から、

夏休みも終わりに近づいた日曜日街なかは晴天に恵まれて、大勢の家族連れでにぎわいました。エコなまちあるき喜多方を楽しんでいる子どもさん達に、本日も声を掛けられました。パパやママよりも子どもさんの方が先に私を見つけてくれます。
私は喜多方エコチャレンジャーです。札をさげて街にいます。
お陰で本日もボーナスポイントを十数名の方に差し上げました。

本日午前中は松山公民館の公開講座、遊学カレッジ8月講座として、
講話“直江兼続とふくしま”です。 講師は石田 昭夫先生(会津古城研究会会長)です。日本考古学協会員であり、会津若松市職員です。
公民館の遊学カレッジの皆さんにまざり講話を受講してきました。画像に観るように大勢の皆さんです。

石田先生は現NHK大河ドラマ「天地人」福島県部門の時代考察や原作にも関っておられます。福島民報新聞に毎週月曜日に、戦国を駆け抜けた知将・直江兼続とふくしま・・を執筆中です。私も大変興味深く毎週楽しみに読んでいます。
本日の講話は限られた時間に多くの話が有り、次から次とスクリーンを使い説明をしていただきましたが、そのなかでも新聞に執筆中の「幻の白河決戦」とやはり、「幻の神指城」(こうざしじょう)にかなりの時間を費やしました。

以下は本日の石田先生の講話や資料を利用させていただきます。時代は関が原の戦い前後1600年頃です。
当時の会津は上杉家120万石です、遠く酒田まで領有し佐渡も上杉領です。若松城に替わり東日本の拠点都市を目指したのが神指城です。

神指城は現会津若松市内の北西部阿賀川沿いに慶長5年(1600)に築城。翌年に破城されてます。未完成の大城でした。
氏の説によりますと、秀吉の大経済都市構想の一つとして、中央の京・大阪・西の広島・そして東の会津という東の拠点都市として会津若松に替わり当時の神指村に13村を強制撤去させて、築城がはじまります。その総指揮を執ったのが直江兼続です。石垣は会津若松東山の慶山から運ばれ、領民,延べ12万人を動員し三ヶ月で本丸の石垣と門、二の丸の土塁と堀が完成したが、家康の上杉征伐で築城は中断、翌年破城されます。
強制的に撤去された農民達はその後村に戻るそうです。
現在樹齢600年と言われる。高瀬の大木(国の天然記念物)が跡地に在ります。

幻に終わりましたが、・・もしも・・神指城が完成し一大都市が出来ていたら、そこは東北を代表する文化的都市でもあり、戦の為の城ではなく、水運・交通・勿論政治・経済・文化の拠点になったであろうと言う事です。そこで話は飛躍しますが、現在の東北新幹線は会津地方を通過して会津には「こうざし」と言う駅があったかも知れません。

次は幻の白河決戦です。これも、・・もしも・・家康が関が原にかわり、白河で戦っていたら家康軍は完全に負けていたとする説です。主戦場に白河南部を想定、選定して準備万端整えますが、白河決戦も有りませんでした。

本日も長くなりそうなのでそろそろ終わりにします、まもなく天地人の時間になります。続きは近いうちに投稿しますご期待下さい。
一般市民である私達を公開講座として解放していただいた松山公民館に感謝しお礼を申し上げます。

今朝の民報新聞に天下分け目の戦いの元となったのが直江状だと言われているが、
家康は関が原の戦いが行われる直前に上杉に上洛するよう要請する。これに対する上杉家の家老兼続の返書が直江状といわれています。家康は読んだ途中で激怒し上杉攻めを決心したといい、関が原の合戦の要因の一と言われています。
村川友彦 氏(県史学会長)の寄稿文が掲載されています。「直江状」と往来物についてです。
直江状そのものは、後の創作とする説が多い半面何らかの書状がだされたのではないかとも推察されていると記されています。

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