得さんのページ

喜多方発・・・蔵の街の地域情報を主に発信します。観光・歴史・文化・催しその他等。

喜多方発・諏方神社の巨大重ね餅

2015-12-31 17:01:10 | Weblog



   蔵のまち喜多方から


   大晦日です、雪がまったく有りません 穏やかな年末です、

   街なかも車も人も少なくで静かな年末でした。

   北宮諏方神社へ再度訪れました、巨大重ね餅を紹介するために

   本日 午後奉納されました 市内の岩月町福島農園からです

   五穀豊穣などを願い毎年奉納されています。本殿 拝殿前に飾られています。

   重さが約85㎏あるそうです、「餅のように丸く過ごせる社会になってほしい」

   と願いを込めているそうです。

   精米 三俵 が、あら田様から奉納されています、


    新宮熊野神社 長床 行く歳 来る歳 絵ろうそく祭り


    大晦日の今夜23時~1日朝2時まで行われます。

    絵ろうそくに描かれた「南天と福寿草」は

    「難を転じて福となす」という意味があります

    厄払いも兼ねて沢山の光が灯されます幻想的な世界へと

    誘う光と影の競演、ぜひ新宮熊野神社・長床へ


 本年も大勢の皆さんに毎日来ていただいて有難うございました。

 半年ほど休みましたが、ブログ再開後連日皆さんに来ていただいてます

 体調も戻りつつあり新年を迎える事が出来ました。

 皆々様良いお年をお迎えください。
  
 来年度もよろしくお願い申し上げます。

喜多方発・雪の無い新年を迎えそうです。

2015-12-30 18:27:38 | Weblog



  蔵のまち喜多方から

  寒い一日でしたが、時折陽が射して穏やかな年末です。

  市内には全く積雪は有りません。気象予報では明日も夕方から雪の予報です

  雪の無い新年を迎えそうです

  北宮諏方神社、新年を迎える準備が整いつつあるようですが

  本日はご覧の様に静寂でした。


  境内の大灯籠は笠に カエルの彫刻が乗る珍しい灯篭です。

  境内入口 大鳥居の下の石灯篭は宝永年間の刻字が読めます

  300年前の灯篭です、市内で刻字が確認できる灯篭では最も古い灯篭の一つです。

  昔の石材では300年以上経つと刻字が風化して読めないのが多い様です。





  今年の元日には少しだけ積雪が有りました。

喜多方発・浅草寺の瓜生岩子女史の銅像。

2015-12-29 18:22:26 | Weblog


  蔵のまち喜多方から 

  本日も厳しい寒さでしたが、市内では雪も降りませんでした。

  年末の街なかの様子をと思ったのですが、寒くて自重しました

  何時も見て頂いている、瓜生岩子像を再度紹介します。

  東京・浅草 浅草寺境内の岩子像です、本堂の北西側の参道に面しているので

  すぐに判ると思います、台東区浅草二丁目七番  岩子は明治三十年四月に福島で没してますが 

  説明板に生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞楊し 明治三十四年四月篤志家によって浅草寺境内に

  この銅像が建立された と記入してあります。

  岩子は明治二十九年、女性として初めて藍綬褒章を授けられました。




  喜多方市内北町公園 佐牟神社境内に在る岩子銅像です。

  すぐ近くに生家が在りました 油商の渡部家ですが九才で父を亡くし

  家は焼失します、母の実家である熱塩温泉山形屋に母りえと共に戻り瓜生の姓を名のります。



   熱塩温泉示現寺境内に在る 瓜生岩子の銅像です。

   我が郷土に生まれ育ち一生を社会福祉の事業に尽くされた功績は広く社会の範であり

   依って顕彰会は刀自を敬愛し銅像を建立して永く顕彰するものであります、と記入してあります。

  
   福島市長楽寺に岩子像が建てられているのですが、いまだ拝顔していません、福島市へ往く機会が

   無くて・・春になったら訪れてみたいと思ってますが、望みが叶うでしょうか。


喜多方発・会津の天神様です

2015-12-28 17:38:18 | Weblog



  蔵のまち喜多方から

  寒気が入ってきてます 本日も湿雪が時どき降りましたが市内では積雪が

  増える程ではありません、寒さは厳しいです。


   御用納めと 仕事納め 皆さん一年間お疲れ様でした。

   私は体調を崩し半年近くブログを休みましたが、 再開後大勢の皆さんに来ていただいて

   ます、 アクセスアップ中です。gooブログ235万件の内の上位5000番位に付けるようになりました。

   ランキング目的での投稿ではありませんが大勢の皆さんに来ていただいて有難うございます


  本日の画像は今の時節とは合わないのですが、会津の天神様です 張子の人形です

  桃の節句にお雛様の他に男子が誕生すると天神様を飾ります、学問の神様として知られている

  菅原道真を祀ったものです。健康であると共に学問もできる立派な人物に成長するように願いを

  込められています。約400年の歴史があるのですが、時代と共に少しづつ変化が見えるようです。

  最初は黒かったのでしょうか、張子になって赤くなり、現在の新しい天神様は煌びやかな衣装の天神様が

  増えてます。 ひなの蔵めぐりは 2月中旬から市内参加店で展示されます。


     山間部は市内よりは積雪も多いので、三ノ倉スキー場も連日積雪が増えていますが

     30㎝を超えたそうですが60㎝位ないと圧雪できないそうです。安全に滑降するのには

     一度圧雪するのですね、連日降ってますから近いうちにオープン出来ることでしょう

     ご期待ください。

喜多方発・気温0℃ 寒い一日でした。

2015-12-27 17:23:50 | Weblog



  蔵のまち喜多方から  気温0℃ 寒い一日でした。

  本当に寒い寒い一日です、家から一歩も出ないで過ごしました。

  雪は薄らと白くなる程度でした。いよいよ年末に向けて冬将軍の襲来のようです。

  ストーブを一日中焚いてますが、今のところ灯油が昨年の約半値近い安値です、

  大変助かるのですが、何時まで続く事でしょうか、


   我が家では風向きによりますが、上三宮町の願成寺の鐘の音がよく聞こえます

   夕方の鐘が聞こえてきます、 仁王門の上部周りに付いていた十二支の彫刻が

   凡て外されて補修に出されている様でした、暮れまでに復旧するのでしょうか

   気になるところです、本日の仏像は会津大仏と呼ばれ親しまれている、願成寺の

   阿弥陀如来像 座高2,4m 国重要文化財です、光背には1000体もの小さな仏様

   (化仏)がちりばめられています、よく見ると下の方に何か所か抜けているところが

   あります、先の世界大戦の時に、出征する檀家の人達が、お守りとして持って行って無地に

   帰れば戻したそうですが、戦地から帰れなかった人もいたそうです。

   

喜多方発・今日も雪は降りませんでした。画像は昨年の今頃です

2015-12-26 18:34:33 | Weblog



  蔵のまち喜多方から 

  予報では雪のマークでしたが、市内では雪は降りませんでした。

  時々湿雪が少し降り、みぞれや雨がふりました。

  明日 12月27日の予報も雪です、年末にかけて雪が降りそうです。

  帰省客の皆さんも防寒対策をしっかりして、車もスノータイヤにしてください

  明日の喜多方の日中の気温は 2℃ の予報です。

  画像は2014・12月26日~27日の昨年の雪景色です。

  上の画像は我が家の近くから、三ノ倉スキー場方面を見たところです、

  ナイターの照明が見えます。

  三ノ倉スキー場は本日も積雪は殆ど無いそうです、何時オープンと言える状況にありません

  下側の画像は2014・12月26日の上三宮町願成寺境内の雪景色です


    今まで暖冬でしたが年末にかけていよいよ冬将軍の襲来なそうです。

    家のまわり、もう一度見直して雪囲いをしっかりします。

  

喜多方発・琵琶曲 会津平家物語 その4終章

2015-12-25 20:01:15 | Weblog



   蔵のまち喜多方から


     琵琶曲 会津平家物語 その4 終章  作 福岡 九州男

      慧日寺に咲く慈悲の花 (徳一大師の生涯)

  空海は持ち来る 三鈷の杵にて占えり 一時は雲間に隠れしも

  紫藤の咲く山の南面にかかりしを いち早く徳一これを見つけたり

  雪深く寒さ厳しき磐梯の この地に住める会津人

  病みたる人を救うこそ 仏の慈悲と心決め

  五体不調に悩む里人の 苦難を癒す手段として

  高寺青岩 (青巌)の遺し伝える 薬効高き煎薬に

  薬師仏の加護をただ祈りたり

  されば蝦夷の人もまた 住み移りたる里人も

  共にこれを喜びて 同病相哀れみて

  共のその生命守ることをば学びたり 会津の諸人は

  恵隆寺の復元と共々に 慧日寺創建と徳一の宗論に心打たれ

  仏の心に応答えんと 凡ての民草と共々に

  力尽くさんと その創建に立ち上がる 貧者は一燈を

  富める者 財宝を寄進せり 徳一の宗論に賭けたる

  望みの波は止まらず 七堂伽藍は勿論のこと

  広く会津の里村に 五間七段の薬師堂 その内に須弥壇を置き

  ここに薬師の尊像を安置せり 御仏の温和な笑みの御顔

  柔和の御手に救いを求むれば 応え給える御仏の指先は

  衆生の悲願を満たしたり 徳一の願い 凡ての人の心にぞ

  等しく普きて その菩薩の心深く染み渡る

  将門の遺児 瀧姫 慧日寺にて修行し 生涯賭けてひたすらに

  その住ける所にぞ湧き出ずる 厩岳を源流とする

  岩清水分かちて施せり そはただ人のみにあらずして

  野猿もこれを飲み 一羽の小鳥にも恵みたり

  この水こそは生きとし生けるものの 生命の水にして尽くるなし

  これこそが慧日寺の慈悲にして 仏の心にやありしなん

  その後 徳一は 陸奥の国 湯の嶽西明寺 ここにて入定せしと聞

  く 徳一の行業ここに讃え その実を一首読む


    沙門には ただ一つあり その道は 仏の涙を

    我が涙とす

                       (完)

 本日の画像は喜多方市塩川町・会津金川寺  聖徳太子尊像

 八百比丘尼尊 縁起が残る古刹です

 
 

 
  新宮熊野神社 宝物殿 運慶作と伝わる 文殊菩薩騎獅像

  若い人は学業向上の為、年配者はボケ防止の為、拝顔の後にくぐり抜けをしているようです。




喜多方発・仏都会津・会津高野山、八葉寺

2015-12-24 17:59:12 | Weblog



  蔵のまち喜多方から

  晴れ間の多い穏やか天候でした。

  週末は、又雪のマークが出てます年末に向かい降り出しそうです。

  本日の画像は先日も挿入してありますが、会津若松市河東町 会津高野山 八葉寺です。

   空也上人は巡錫中、会津の野辺たる当地に至り、こここそが探していた紫雲たなびく聖地と思い定め

  近隣の野ざらしにされた遺骸を集め、丁寧に埋葬して供養された、いつしか当地が精霊の集まる地として会津一円の

  人々はこれに習い、毎年八月一日から七日までの間に一族揃って盆迎えのために参詣し、先亡精霊が無事に里帰りできるようにと

  祈って カナガラボトケを納めた、室町時代から続く風習で現在も続いています。


    琵琶曲  会津平家物語   作 福岡 九州男

     慧日寺に咲く慈悲の花(徳一大師の生涯)・・・その3

    その間 近郷近在の里人は 噂を聞きて集まれり

    塔寺の大檀那の家に止まりて 恵隆寺の復元に力を与えたり

    その折に青岩の遺せる芍薬の奇薬につきても語りたれば

    里人これに肯けり 徳一は四日目に暁天に

    東の空に聳える磐梯山に紫雲たなびくを見て

    これこそは瑞兆なりと意を決し 御神楽 山都 飯豊の麓をば

    西より東に向かって旅立てり 誘い来る先達により

    漸くにして磐梯に着く 徳一は葦原の彼方に浮かぶ磐梯山こそは

    会津野の北東に在り 表鬼門にあると知り ここに仏の都

    営まんと誓いたり

    仏都京都を守るは比叡山 慧日寺は東の仏都 会津の比叡山

    似たりと思いし 徳一は この磐梯山こそが、 仏の示す地なりとて

    ここに堂宇建立を思い立ち 折よくも此の時 東夷鎮撫の宣旨

    密かに受けし空海は 独り行脚を続け居たり

    徳一は図らずも空海と会津の空の下にて相まみえ これこそは

    仏の導きなりと喜びて 共に両人相語る

    空海は三一論争の三乗論を説く さすれば徳一の思いはより深く

    忽ちにして意を通ず・・・

喜多方発・ 仏都会津・慧日寺 復元中門と金堂

2015-12-23 18:30:15 | Weblog



  蔵のまち喜多方から  仏都会津。


  昨日は恵隆寺と高寺下ろしについて記しましたが、本日は磐梯町慧日寺跡です。

  先日投稿したように、平安時代の初めに南都法相宗の高僧 徳一によって開かれた寺院で

  東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のものとして知られています。

  画像は復元金堂と中門です。この金堂に薬師如来座像が来年度から制作が始ります

  慧日寺跡は広大な地域です、現在の恵日寺と山門が在り仁王門、薬師堂、徳一廟

  そして、磐梯神社が在ります、  春になって、木ざし桜の咲く頃になったら訪れてみて下さい。



      琵琶曲  会津平家物語    作 福岡 九州男

    慧日寺に咲く慈悲の花 (徳一大師の生涯)  先日1ページ目を投稿してあるので2ページ目から紹介します

       老いたる翁と媼ざして在り 共に並びて合掌し

       小さき声にて経文口ずさむ 何れより来る人にや誰知らず

       後にして 噂によるならば 高寺の堂守の末と聞く

       時一刻にして多くの里人集まりて 徳一の声に和し称名を上ぐ

       その声は大波の如く高なれば 木立の杉の風さえも たち騒ぐ

       なかには涙声にてむせび泣く 徳一はここに集まり来し里人に

       おもむろに一礼「愚僧は奈良の都より来るなり筑波の山の中禅寺

       径て 漸くにここに着く 愚僧は仏に仕える者にして

       薬師菩薩の御心を  身に帯びし沙門なり」と

       その眼 菩薩の如くなり 徳一の言葉終わらぬその内に
     
       足萎えて歩くことさえ儘ならぬ 一人の媼声あげ

       「南無大慈薬師菩薩 南無大慈悲薬菩薩

       この萎えし体仏の力もて癒し給え」と声を上げて訴える

       徳一はその媼の細き足取りて 手にせる念珠もて祓いたれば

       忽ちに立ち上がり 一歩二歩と歩みたり 徳一はその媼の身を支え

       「仏の慈悲やここに現る」と告げたれば 多くの里人驚きて

       流るる涙拭き合掌し「南無大慈悲薬師菩薩 南無大慈悲薬大師菩薩」

       と 声を上ぐ 徳一はこの恵隆寺跡に三日三晩止まりてすごしたり・・・


        本日は2ページまでにしておきます、

喜多方発・我が国に初めて仏教が伝わったのは、ここ会津か・・

2015-12-22 19:41:37 | Weblog



  蔵のまち喜多方から  仏都会津、

  地元では、仏教伝来の地は・会津高寺と言われています、(会津坂下町)

  欽明天皇元年(540年)中国の梁国の高僧、青岩(一部資料では青厳・せいがん)が

  会津に来たりて一寺を開く、高寺の庵を恵隆寺と名付ける、540年に仏教渡来ですと

  我が国で最もはやく仏教が伝来した地方の一つに数えられます。

  そして宝亀6年(775年)高寺は兵火にかかり、悉く焼き尽くされ一切の証拠を残していません

  それを高寺おろしと呼んでいます。後に恵隆寺は現在地に移転し再出発します。

   会津三十三観音札所・会津ころり観音のひとつで「立ち木観音」といわれています。

   (国重文) 青岩は来日した時に薬草として芍薬を持参したそうですが、根は貴重な漢方薬でした。
  
   会津坂下町・恵隆寺には境内に在る寺の起源についての案内板に高寺の項が記載されています。

  暫く訪れていないので恵隆寺の画像が見つかりません。

  本日の画像は タイトルとは関係ありませんが、会津地方で国宝を有する寺院です。

  一字蓮臺法華経(国宝)会津高田 ・龍興寺。

  そして湯川村の勝常寺、国宝の木造薬師如来と両脇侍 平安時代初期の仏像が一寺院に十二躯体も

  保存されているのは非常に珍しいそうです、 冬期間は休館です4月の末に開館予定です。

  勝常寺は会津中央薬師と呼ばれています。