ひげ爺さんのお散歩日記-3

日々新た、今日は今日、明日は明日の風が吹く

再掲 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》

2020-10-03 14:28:34 | 日記
         再掲 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》



 今朝の最低気温は夜中0時~午前3時の19.0℃。  最高気温は午前11時の26.5℃。
今朝もも青空が広がっていましたが、昼前から雲が出て午後はすっかり曇り空になってしまいました。


 今日は妻を病院に連れて行く途中、いつもインフルエンザの予防接種を受ける病院で
予約をしようとしたのですが、受け付けは10月6日から、予防接種は11月からだそうです。
えらいのんびりしとるやないけ (笑。
妻を病院に送り届け、診察の間に付近を散歩しました。 10時の気温は25.5℃。
身体の痛みはなく、まずまず快調に歩けたのですが、脚は弱っています。
2~3度膝カックンを食らったように、膝から崩れ落ちそうになりました(快調とは言えんか? 
妻は先生に先日の動悸の話をすると、今度24時間心電図(ホルター心電図)検査を受ける事になりました。
耳鼻科・内科・皮膚科・眼科・歯科… カレンダーは病院通いの予定でびっしりじゃ (汗。


今日は 再掲 《和泉・岸和田だんじり彫り物・物語-3》 です。
“だんじり” と云えば女の子の “だんじりヘアー” を見るのも楽しみの一つです(笑。





ハート形・稲妻形・流れ星… 痛いでしょうねぇ。
女の子のだんじりヘアーは別名 “地獄編み” と言うそうです(笑。
美容院で編んでもらうと1万円は下らないそうですが、大抵はお母さんが
見よう見真似で結うようですね。

 今日は豊臣秀吉に関係する彫り物を集めてみました。 まずは “日吉誕生” の場面です。

ウィキによると… 【誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは
『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から
天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている】 …そうです。

 “秀吉・小六との出会い” です。

放浪して宿もなく矢作橋(愛知県岡崎市)のたもとで寝ていると、盗賊の一団が通りかかり、
野盗の蜂須賀小六が秀吉の頭を蹴ったという話です。
しかし、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代初期の元禄年間であり、天正年間には
渡し船で渡河していたことがわかっており、この逸話は後世の創作である… だそうです(笑。

 次は “藤吉郎初見参” です。

信長に仕えた木下藤吉郎(秀吉)は草履取りになり、有る寒い朝…
藤吉郎は織田信長の足が冷たく無いようにと思い、懐で温めた草履を差し出します。
すると信長は 「主人の履物に腰をかけておったな」 と… その場面ですね。

 “藤吉郎・富士川之初陣” です。

“⑥ 富士川の初陣(西山建設)” より…
【藤吉郎の役目は糧食係でしたが、密かに抜け出て戦いの様子を伺っていました。
そこへ敵の大将、日向守が深い傷を負って追われてきました。
藤吉郎は躍り出て大きな声で「勝負、勝負」と叫び続けましたが、日向守は
藤吉郎を小僧扱いしてしばらく渡り合っていました。
藤吉郎はとてもかなわないと思い馬の横腹を目がけて槍を突き出しました。
馬は驚き、日向守はモンドリ打って、まっさかさまに川の中へ落ちました。
藤吉郎はすぐさま躍りこんで見事に日向守の首を落し、今川勢の大勝利の元となりました。
これが藤吉郎初陣の手柄となり広く名を挙げました】

 次は “本能寺の変” です。

ウィキによると… 【天正10年6月2日早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、
家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた】

 “石川五右衛門 秀吉の命を狙う”

秀吉暗殺を依頼され秀吉の寝室に忍び込みますが、千鳥の香炉が鳴いたため気づかれ、
捕らわれてしまいます。 その後、配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれ、
文禄3年8月24日(1594年10月8日)、石川五右衛門は京都三条河原で釜茹での刑に
処せられた… という物語です。

 次は “大阪城完成” です。

1598年(慶長3年)完成した大阪城を眺める豊臣秀吉が彫られています。
しかし、この時の大阪城は大坂夏の陣(1615年)で焼失してしまいました。
後に徳川により大阪城は再建(1629年)されましたが、1665年、天守閣が落雷により消失。 
現在の天守閣は1931年(昭和6年)に再建された3代目なのだそうです。

 最後は “醍醐の花見” です。

慶長3年(1598)の春、場所は醍醐寺。 秀吉は息子の秀頼や正室・北政所、側室の淀、
三の丸など近親の者は元より、諸大名からその配下の女房女中衆女房衆1300人を集め、
盛大な花見の宴を催しました。
それまで、醍醐寺には確かに桜の花は咲いていましたが、今ほどの規模ではなく、
秀吉が数か月をかけて、近隣諸国からなんと約700本もの桜を移植させたのだそうです。
この半年後に秀吉は亡くなります。  栄華を極めた瞬間だったのですね。
コメント (6)
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