奈良県の建築家が日々思う設計事務所の家づくり日記、住まいの設計や住宅設計、注文住宅、注文建築、暮らしの事、収納の事

住宅の設計・リフォーム、暮らしのデザイン提案を家具や生活習慣まで丁寧に考えています。

住まいと暮らしのデザイン設計・・・数寄屋造りの佇まいと歴史観、そして暮らし、生活観をその風情と空間美意識に「侘び寂び」空間での美意識を歴史と重ねてデザインの昇華中です。

2017年08月14日 | (仮称)おおらかに暮らしを包み込む数寄屋

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※外観パース(計画途中)

 

 

プラン(間取り)の打ち合わせでの経過を見ながら、

 

 

※住まい手さんご夫婦と打ち合わせ

 

 

昇華の持つ意味を・・・・・・。

住まい手さん御夫婦の現在のご自宅で。

 

お盆休み・夏期休暇ですね。

その時々に合わせて「打ち合わせ」にもイロイロ。

 

※住まい手さんご夫婦と打ち合わせ

 

住まい造りと打ち合わせの途中・・・・・。

数寄屋を深く広く、

ロジカルに、そしてラテラルに暮らしの場所として。

※住まい手さんご夫婦と打ち合わせ

 

 

 

(仮称)暮らしをおおらかに包み込む数寄屋の家新築工事

 

土地活用の部分と並行して家としての空間そのものに

費やす単純に「時間の多さ」ではなくて

「質の密度」と「実時間」の部分でもその差は大きいものです。

 

 

打ち合わせの内容とは少し離れますが

数寄屋の住まい・・・・・のモノゴト。

 

数寄屋の建築だけに限った事ではないのですが、

建築の歴史をデザインとして

カタチに生み出す際には

いつもその背景を並行して思考と思想に

設計の意味を持たせています。

 

スキヤとは数寄の家を意味しています。

この数寄という言葉の語源、

平安時代からの

古い言い回しとなる「歌好き」などという

「好き」のことで、

ひとつのことに強く偏執した好みを外に表すこと、

という解釈のほか、

数が寄るとの意から、

揃わない材料を

あり合わせで数種集めて建築をつくること、

というふたつの説が有力です。

 

 

数寄屋の起源現在、スキヤと言えば、

ある様式のもとにつくられた

建物を意味するのですが、

スキヤの起源を尋ねることは、

数寄の心(センス)の表われを

歴史のなかに辿ることになり、

そしてそれは奈良時代にまで遡ることとなるんです。

 

 

奈良・日本人の特殊な感性のある部分。

欧米人と異なり、

日本人が虫の音を「人の声」のように「聴き取る」

特殊な脳の働きを持っていることが

脳科学の研究により広く知られるようになっていますが、

我々が自然の草木に関心を寄せ、

風の流れのなかに季節を感じ、

木肌をなでて心落ち着くことは、

奈良の昔も変わらぬことは

万葉集の歌にも明らかで、

おそらく永遠に変わらぬ

日本人の習性なのであろうと思うんです。

 

 

実際、当時の宮殿の建物が

檜や色塗りの材でつくられていた

宮廷周辺にあっても、

私的な居住空間にあっては、

好んで「黒木」と呼ばれる

皮付きの丸太を使われていたことが分かっていますよね。

 

 

歴史の流れと共に、家のつくりの変化も色々と・・・・。

平安・日本人の理想生活都が水の豊かな京へ移ると、

上層貴族は邸宅の広い敷地に水を引いて池を掘り、

築山を築き、とりどりの草木を

ふんだんに栽えて

虫魚を放ち、池に張り出した泉殿や

釣殿(涼み台・月見台)に出て、

その声に聴き入るという愉しみ方をしている。

そんな生活のある一方で、

文雅に長けた官人たちのなかには、

当時の先進文化国・中国の文人による

詩文世界(特に白居易の香炉峰下の草廬生活など)に

強く憧れるあまり、

好みの自然木や竹(白氏が好んだ)などを使って、

山居の香りのする小亭を構えるという風が、

長く伝統のように伝わっていく。

時代の主な人物だけ拾っても、

在原業平(825-880)の亭、

兼明親王(919-981)の小倉山亭、

慶滋保胤(934-994)の亭、

鴨長明(1155-1216)の方丈などがあります。

 

 

こうして、邸宅に贅を尽くす

貴族が現れる反面、

閑居を思わせる住居スタイルが

下級公家・文化人の伝統になっていくことが、

注意を引く部分でもあり・・・・・。

 

 

鎌倉・禅と道の成立京を離れた

鎌倉の上層武士団は、

時を合わせたように登場した

大陸渡来の禅文化に

公家とは異なる生き方を探すなかで

深く関わったことから、

禅の風儀が広く、その後の彼らの文化全般におよび、

すべてにより簡潔な直接表現を求める心性が育ったようです。

 

機能を重視し、無駄を削ぎ落として、

モノの本質に迫ろうとする新しい美意識は、

この後、武事をはじめ諸文芸(連歌・能・香・花・茶など)を

修行の道としていくことになります。

 

 

室町・新たな美の発見時代として

この傾向は建築においても無関係でなく、

歌道に生まれた新しい感性が能楽におよび、

茶道の成立に寄与して、

やがて建築造形に反映していくなど、

底流として桃山・江戸まで流れていくのですが、

室町中期(1500年頃)、

ここに奈良出身の僧が、

スキヤの歴史に画期的な仕事を残すことになるんです。

 

 

「茶の湯開山」となる村田珠光。

二十歳の頃京へ出た珠光は大徳寺・一休禅師の下で禅を修め、

その許しを経た後、足利義政(八代将軍)の

同朋衆(美的生活の監督兼管理者)である能阿弥のもとに留まり、

将軍収蔵の唐物名物・名品に親しく触れて、

一級品の何たるかを学ぶという幸運に恵まれ、

やがて当代一の目利きとしての

評判を得るまでになります。

 

 

かねて茶を供することに

一方ならぬ工夫のあった珠光は、

さきに大徳寺では禅院茶礼(献茶を中心とした儀式の茶)を、

この能阿弥の下では殿中茶礼(書院茶立所の台子の茶)を

習得するにおよび、ただの貧僧にすぎぬ自分の茶とは、

「物の足らざるを心で補う」ものであるべきで、

また大陸渡りの名物唐物にのみ

依存している美意識だけが、

わが国本来の美意識ではないことの自覚から、

「和漢の境を紛らかす」として

国物と低く言われた瀬戸などの国産品をとりいれ、

また粗相なるものの美を発見して、

これと唐物とを取り合わる対照の妙を

「面白し」として茶の場に供し、

「藁家に名馬を繋ぎたるがよし」ということを、

宗珠・空海といった高弟たちに教えたと言うものです。

 

 

茶の場も、それまで貴人を迎える室は

膝の触れ合うことのない

最小6畳とされていたのを、

茶に於いては庶人平等だとして

4畳半に仕替えています・・・・・。

茶室のはじまりとして紹介されることの多い

義政の書斎・銀閣寺同仁斎は4畳半で、

義政自ら茶を客に供したとされるのですが、

これは珠光の思想の影響と見る説があり、

実際義政は熱心な阿弥陀信仰者であったのですが、

万物平等の教えから

同仁の室号もそれによるものと言うようです。

 

 

こうした珠光の考える「茶の湯」のありかたが

時代の共感を呼び、

「侘び茶」として桃山時代につながり、

茶の湯の主流にまで成長していく・・・・・。

 

 

こうした茶の湯の思想的深まりが

後の数寄屋の豊かな表現を生み出すのですが、

珠光こそがスキヤに新風を吹き込んだ思想の、

その源に立つ恩人と言うべき人物で・・・・・。

 

 

この時代は、皇室・公家の逼塞期であり、

公家が生活のため地方へ芸能師範として

出向する時代相であったので、

京よりも地方に公家の文化が残ることになったようです。

 

 

そんな時代においても

遊びを忘れぬ公家衆・門跡寺院のなかから、

1400年頃、記録に「茶屋」が登場。

それが桂離宮に見るそれと同じとは思えないですが、

以後、歴史のうえに「茶屋」が散見されるようになります。

 

 

茶のための室が珠光のもとで工夫されてはいたが、

6尺床・棹縁天井・張り壁・塗縁襖・坪の内と、

まだ書院の表現から離陸できずに・・・・・・。

 

 

僕たちの知る茶室らしい表現を獲得するのは、

次代の紹鴎を経て、

その弟子・千利休まで待たねばならないですが、

この間、自由な表現を

盛んに試みていたのは

先の茶屋の名で現れる建築で、

それは茶接待のための休息所としてつくられ、

室内を装飾して、

時に酒宴となることもあるといった

生活に密着した使われ方は、

桃山・江戸へつながる数寄屋の本流の

資格十分ですよね・・・・・。

 

 

桃山・スキヤから数寄屋へ1550年頃から

茶屋の記事が茶書に頻繁に出てくるようになるのですが、

こちらは堺衆が所有の茶屋で遊んだり、

阿波の大名が自分の茶屋に

堺の商人を招いて閑談したりして、

個人が交際に愉しみを求めて

茶屋を構えるという変化が見て取れます。

 

この傾向は利休の茶屋披き、

明智光秀の茶屋接待など

興味深い事件を挟みつつも、

秀吉の時代になって、

やっと「数寄屋」としての茶屋が万人の前に定着をみせます。

 

 

この頃、側近・利休の茶も完成の域に入り、

茶の湯に堅苦しさを憶えていた秀吉は

盛んに茶屋を取り込んだ園遊を催すように。

 

 

天正15年(1591)北野大茶会に

間に合わなかった宗湛を

聚楽第の松原の茶屋に招いた

遊びたっぷりの会などがあるのですが、

なかでも一番は醍醐の花見を催した際の、

とりどりの趣向を尽くした

八軒の茶屋で名だたる武将が

一日商人や百姓となって

物を売って興じたという園遊で。

 

 

こうした遊びの工夫のなかから、

書院の意匠をとり、

田舎家の素朴をまね、

進化中の茶室からは品位を取り込んで、

人を暫し閑雅なくつろぎに憩わせる

数寄屋のスタイルが選択されていったと思われるんです。

 

 

この時代、数寄屋の第一の創造者も、

茶室を完成に向かわせていたのと同じ利休で、

聚楽第にあった利休屋敷は、

そのかつて見たことのない独特の「たたずまい」で

見るものを絶句させるほどであったし、

四国の武将・長宗我部は

利休に茶座敷と茶屋の建設を依頼しています。

 

 

当時、茶室という言葉はなく、

茶座敷・数寄座敷などと呼ばれていたのですが、

紹鴎の4畳半からさらに2畳、1畳半と

簡素化が進み、

4尺床・下地窓・にじり口・突上げ窓など、

現在の茶室を構成する侘び茶の表現は

ほぼ出揃っていた一方で、

黄金の茶室を秀吉が宮中に持ち込んで

天皇に披露した頃から、

皇室周辺にも茶の湯を試みる機運が生まれ、

ここに茶屋・茶室の建築と公家の遊びの伝統が合体して、

新しい数寄屋が現れるもとが用意された時代。

 

 

江戸・数寄屋の定着利休・秀吉亡き後、

偉大な桃山の薫陶を受けた

数多の大名茶人たちが、

京の御所と新都・江戸の間を結んで活動をはじめ、

織田有楽、古田織部、細川三斎、金森宗和、小堀遠州、

片桐石州といった面々で、

利休時代の無常観を大事にした侘び茶よりは、

自分たちの日常に近い感覚で

交際としての茶の完成を目指していくなかで、

各自独特の造形と工夫を茶室に持ち込んでいきます。

 

 

それがまた、数寄屋に持ち込まれるということを

相互に繰り返していくように・・・・・。

さらに、数寄屋を語るうえでの注目は、

寛永期(1620~)の京で動き出した

宮家を中心とする建築・造園の展開で、

桂の宮智仁親王が桂離宮に着手するのを皮切りに、

水無瀬別荘・修学院・曼珠院・仁和寺施設など、

後世から数寄屋邸宅の指標として

憧憬されることになる数寄屋建築を

次々と展開、宮家の造形と言うべき

様式を完成させてしまうのは、

今日から思えば驚異的業績というほかはないです。

 

 

平安時代の寝殿造りで

建築・造園の愉しみを作り出したように、

600年の後、また自分たちの工夫により

新しい建築・造園の愉しみを創作したことは、

公家文化のもつ伝統の地の厚みを感じさせるに充分で、

なにより、利休流の好みとも異なる閑雅に遊ぶ世界を

後世に残してくれたことで、

その後の数寄屋文化に果たした貢献は測り知れないですよね。

 

 

書院建築の世界においても、

将軍が大名家を訪問する際の

「数寄屋御成り」という慣例ができあがった事で、

くつろぎの場であった数寄屋座敷が

公的な場として使われるということになり、

同居する書院との折衷様式が

生まれることに繋がり・・・・・。

 

 

一体に、人の五感を愉しませることに

社会の隔てはないもので、

こうした接待文化になった数寄屋の広がりは

街中へも流出して、

大名・商家の下屋敷から料亭、

さらに揚屋・遊郭まで

各々の目的に合わせた機能を意匠化していった歴史。

 

 

京の粋(スイ)・江戸の粋(イキ)として、

浮世絵に描かれた数寄屋世界が、

明らかに桂の持つ数寄屋の感性とは

別物であるのはこのためですね。

 

 

この時代の補足として手短に記しておきたいのは、

江戸初期に大陸から渡来した

煎茶とその文人趣味に合わせた座敷のことで、

こちらは通常、数寄屋の範疇とは

別の様式として扱う事。

 

こちらは、中国の詩文のなかに俗塵を払い、

仙界につながる境地に遊ぶという、

「茶の湯」とは思想・趣味とするところが異なります。

 

明治・洋化のなかの数寄屋明治維新後は、

欧化の波のなかで伝統建築が日陰に回りがちだったのですが、

混乱を生き抜いた政府貴紳たちや、

政商と言われる有力商人たちの間では、

自宅を流行りの洋館でつくりながらも、

それと連絡するかたちで

必ず傍らに書院の接客室と、

数寄屋の私室を用意することを忘れなかったようです。

 

 

明治20年代以降になると、

貴紳の住宅建築は、

書院で全体の威厳を表明しながら、

細部を数寄屋意匠で遊んで緊張を和らげる、

ということをする一方で、

別荘というかたちで構えた住まいには、

徹底した数寄屋で粋を通した

建築を愉しむということを・・・・・。

 

 

手がける工匠も一流ですが、

任せる貴紳も趣味・識見に優れ、

相互の刺激で

よいものがつくり出されていった歴史があります。

 

 

南禅寺畔の邸宅群(対龍山荘・清流亭)、

目白の屋敷群(蕉雨園・椿山荘)などは好例です。

 

 

大正・昭和・近代建築と数寄屋大正以降の

数寄屋が持つ大きな変化は、

工匠が手がけていた数寄屋という分野に

欧米の建築学術と思潮を学んだ建築家が入って、

設計のみならず監理までするようになった事。

 

 

従来の数寄屋から見ると、

意匠のみが先行して追随すべき技術が

工匠任せという傾向はあるものの、

彼らの残した斬新な感覚は

他に変えがたい価値を「数寄屋世界」に

刻んだことを示して余りあると言わねばならないでしょうね。

 

 

吉田五十八の粋表現、

堀口捨巳の八勝軒と茶室研究、

村野藤吾の洒脱・・・・・etc。

 

僕も、先人の跡を学びながら、こののち、

(仮称)おおらかに暮らしを包み込む数寄屋の家に対して

一歩でも「新世界」に踏み出したいものと思う。

 

それは住まい手さんの暮らしにの文化や

生活習慣や価値観を丁寧に設計デザインした

結果としての延長で・・・・・。

 

歴史と伝統ある数寄屋造りの

お洒落な一戸建てや

店舗を建築していく過程では

必ずその歴史も視野に・・・・・。

 

 

数寄屋造りの歴史の起源は

はるか奈良時代まで遡り、

茶の湯に建築に独特の建築を発明した

千利休の活躍する安土桃山時代を経て、

江戸時代に定着を見る数寄屋造りも、

明治時代以降は洋風建築に押されていきますが、

和の良き伝統を甦らせる努力を尽くした先人の跡を継いで、

デザイン提供の方法を模索しつつ・・・・・。

 

 

 

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