猛烈な忙しさだけではなく心配事もあり、なかなか本を読む時間がないのだが、忙しいからこそ気分転換が必要であり、そのような時にエッセイ集などは、有難い。
タイミングよく、ある作家さんが自身’’初’’となるエッセイ集を刊行されたというので、読んでみた。
以前から、ミステリー作家と云われる彼女の作品の、謎解きテクニックの良し悪しは兎も角、登場人物の心情に自分に似ているものを感じていたのだが、彼女が「嫌ミスの女王」と云われる作家であるため、「似ている」と言うのが憚られてきた。
だが、エッセイ集を読み、「似ている」理由がよく理解できた。
「山猫珈琲」(湊かなえ)
帯びには『好きなものは、「山」と「猫」と「珈琲」 これらのお陰で怒涛の10年を乗り越えることができました」とある。
読ませる本をコンスタントに出版するのは大変なことだと思うが、情報が東京に一極集中している現在、地方在住で売れる(評判となる)作品を世に出し続けることは、読者の想像を超えるほど難しいことのようだ。
本書は、湊氏が作家になる以前の学生時代の後半から、淡路島で作家生活を送る現在までを振り返ったエッセイ集であり、タイトル以外の様々なことが綴られているのだが、タイトルが「山猫珈琲」とされるほど、これらは湊氏の怒涛の10年を支えてきたのだと思われる。
だが、タイトルが「山」「猫」「珈琲」だからと云え、「海」「犬」「紅茶」を好む人が読みづらいということは、決してない。
私の場合、さしずめ「山犬ヤクルト」といった感じだが、「(やはり)似ている」と感じるのは、全ての前提となる「身にまとう時代の空気」が同じだからかもしれない。
湊氏は、ご自身を『祭のあと世代』だと称している。
「バブルが終わった後、社会に出た世代」を、彼女はそう命名しているのだが、この感覚が私にはよく分かる。
勿論 バブル崩壊後、失われた10年とも20年とも云われる時代がくるのだから、日本には『祭のあと世代』と感じる人は多くいるとは思うが、在学中にバブル崩壊を目の当たりにし、就職氷河期の先陣をきり社会に出なければならなかった世代には、その世代にしか分からない’’もの’’があると思う。
この独特の’’もの’’を共有していることが、湊氏の作品に、自分に似ている何かが見つかる理由ではないか、と今は感じている。
さて、上下巻のエッセイ集には、「時代の空気」以外にも私と共通するものがあり、その一つが「山」であるが、それについては又つづく、とする。
追記1
先日読んだ「少女」(湊かなえ)は、設定がとんでもないため、その感想を書きあぐねていた。
本の帯には、大文字で「人が死ぬのを見てみたかった」と書かれ、続けて「少女たちの無垢な好奇心は日常を変え、物語は思いもかけない結果を迎える。女子高生たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー」とある。
本書「少女」は、親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を聞いた女子高生二人が、自らも人の死ぬ様を目撃したいと思い、それをてっとり早く実現させるため、夏休みに老人ホームや小児病棟でボランティアをするというストーリーである。
女子高生の「人が死ぬのを見てみたかった」という心情も、それを「無垢な好奇心」と表現することも到底理解できないのだが、この女子高生が呟く ある言葉には、大いに思い当たる節がある。
『自分を不器用だという人の大半は、気が利かないだけなんじゃないかな』
他者を評して、「〇〇さんは、不器用な人だ、不器用な生き方だ」と言うときの「不器用」は、マイナスイメージではなく、「真面目で誠実だが世渡りが上手くないため損をしている」という、ある種の共感をこめた意味合いで使うのではないだろうか。
だが、時折 自分のことを「(上記のニュアンスで)私って不器用だから・・・」と言う人を見かけることがある。
そして、そのような人に限って、そのような人柄ではない場合が多いと感じるのは、私が「嫌ミス」ならぬ「嫌な人」だからだろうか。
そんな私は、『自分を不器用だという人の大半は、気が利かないだけなんじゃないかな』という言葉に大いに肯いたのだが・・・・・
どこからか、「お前が言うなよ」という声がしてくるような気がしないでもない。
追記2
人が死ぬ場面に出くわしたいという目的は、そこそこ達成されるのだが、「人の死を知るという一夏の経験で、少女は改心し優しい大人の女性への一歩を歩み出した」と、ならないところが、「嫌ミスの女王」の女王たる所以だと感じさせる結末の物語だった。
タイミングよく、ある作家さんが自身’’初’’となるエッセイ集を刊行されたというので、読んでみた。
以前から、ミステリー作家と云われる彼女の作品の、謎解きテクニックの良し悪しは兎も角、登場人物の心情に自分に似ているものを感じていたのだが、彼女が「嫌ミスの女王」と云われる作家であるため、「似ている」と言うのが憚られてきた。
だが、エッセイ集を読み、「似ている」理由がよく理解できた。
「山猫珈琲」(湊かなえ)
帯びには『好きなものは、「山」と「猫」と「珈琲」 これらのお陰で怒涛の10年を乗り越えることができました」とある。
読ませる本をコンスタントに出版するのは大変なことだと思うが、情報が東京に一極集中している現在、地方在住で売れる(評判となる)作品を世に出し続けることは、読者の想像を超えるほど難しいことのようだ。
本書は、湊氏が作家になる以前の学生時代の後半から、淡路島で作家生活を送る現在までを振り返ったエッセイ集であり、タイトル以外の様々なことが綴られているのだが、タイトルが「山猫珈琲」とされるほど、これらは湊氏の怒涛の10年を支えてきたのだと思われる。
だが、タイトルが「山」「猫」「珈琲」だからと云え、「海」「犬」「紅茶」を好む人が読みづらいということは、決してない。
私の場合、さしずめ「山犬ヤクルト」といった感じだが、「(やはり)似ている」と感じるのは、全ての前提となる「身にまとう時代の空気」が同じだからかもしれない。
湊氏は、ご自身を『祭のあと世代』だと称している。
「バブルが終わった後、社会に出た世代」を、彼女はそう命名しているのだが、この感覚が私にはよく分かる。
勿論 バブル崩壊後、失われた10年とも20年とも云われる時代がくるのだから、日本には『祭のあと世代』と感じる人は多くいるとは思うが、在学中にバブル崩壊を目の当たりにし、就職氷河期の先陣をきり社会に出なければならなかった世代には、その世代にしか分からない’’もの’’があると思う。
この独特の’’もの’’を共有していることが、湊氏の作品に、自分に似ている何かが見つかる理由ではないか、と今は感じている。
さて、上下巻のエッセイ集には、「時代の空気」以外にも私と共通するものがあり、その一つが「山」であるが、それについては又つづく、とする。
追記1
先日読んだ「少女」(湊かなえ)は、設定がとんでもないため、その感想を書きあぐねていた。
本の帯には、大文字で「人が死ぬのを見てみたかった」と書かれ、続けて「少女たちの無垢な好奇心は日常を変え、物語は思いもかけない結果を迎える。女子高生たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー」とある。
本書「少女」は、親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を聞いた女子高生二人が、自らも人の死ぬ様を目撃したいと思い、それをてっとり早く実現させるため、夏休みに老人ホームや小児病棟でボランティアをするというストーリーである。
女子高生の「人が死ぬのを見てみたかった」という心情も、それを「無垢な好奇心」と表現することも到底理解できないのだが、この女子高生が呟く ある言葉には、大いに思い当たる節がある。
『自分を不器用だという人の大半は、気が利かないだけなんじゃないかな』
他者を評して、「〇〇さんは、不器用な人だ、不器用な生き方だ」と言うときの「不器用」は、マイナスイメージではなく、「真面目で誠実だが世渡りが上手くないため損をしている」という、ある種の共感をこめた意味合いで使うのではないだろうか。
だが、時折 自分のことを「(上記のニュアンスで)私って不器用だから・・・」と言う人を見かけることがある。
そして、そのような人に限って、そのような人柄ではない場合が多いと感じるのは、私が「嫌ミス」ならぬ「嫌な人」だからだろうか。
そんな私は、『自分を不器用だという人の大半は、気が利かないだけなんじゃないかな』という言葉に大いに肯いたのだが・・・・・
どこからか、「お前が言うなよ」という声がしてくるような気がしないでもない。
追記2
人が死ぬ場面に出くわしたいという目的は、そこそこ達成されるのだが、「人の死を知るという一夏の経験で、少女は改心し優しい大人の女性への一歩を歩み出した」と、ならないところが、「嫌ミスの女王」の女王たる所以だと感じさせる結末の物語だった。