何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

幸せとは、君を思うこと②

2019-11-15 11:11:11 | ニュース
御即位を祝う国民祭典で演奏された楽曲「Ray of Water」(作曲・菅野よう子氏、作詞・岡田惠和氏、ピアノ・辻井伸行氏は今上陛下のご研究をふまえた素晴らしいものだったが、なかでも嵐が歌った第三楽章「Journey to Harmony」は、歌詞の温かさと雅子皇后の涙が大きな感動を呼んでいる。

雅子皇后の涙がこれほどまでに感動を呼ぶのは、その道のりが決して平坦ではなかったことを、心ある国民は知っているからだが、歌詞で繰り返される「君」に、それぞれが自分の大切な人を重ねたからだとも、私は思う。

そう感じた時に心に浮かんだのは、意外な本だった。
年齢的なものはもちろんあるが、それが相応しい年齢の時にも決して読まなかっただろう種類の本を読んだのは、ドツボにハマってしまっている君が昨年に引き続き勧めてくれた本であったせいだ。

「また、同じ夢を見ていた」(住野よる)

本書は、お利口でおませで少し孤独な女の子が、小学校の先生にだされた「幸せとは何か」という課題を考え歩く話なのだが、その答えの一つに、『幸せとは、誰かのことを真剣に考えられるということだ』というものがある。
「幸せとは何か」をテーマに、一人?の人生をたどるという手法は、味な仕掛けというには微妙なのだが、世代ごとに何を幸せと感じるのか、何を後悔するのか、何を諦めて諦めた先にどんな時間を持つのかを、ほんわか(ぼんやり)と伝えるには巧いものなのかもしれない。
そんな曖昧ななかで今の私にまっすぐ届いた唯一の言葉が、『幸せとは、誰かのことを真剣に考えられるということだ』がだった。

それが、「Journey to Harmony」歌詞の『君が笑えば世界が輝く』『誰かの幸せが時代(とき)を照らす』『僕らの喜びをよ 君に届け』に重なったのだ。

「君が笑い、誰かが幸せなことが、自分の喜び」というのは、子供の頃から大切にしてきたキャプテンハーロックの言葉人が人として最も美しいのは、他人の痛みを自分の痛みとして感じている時 人が人として最も醜いのは、他人を踏みつけにして自分を立てようとする時(我が青春んアルカディアより)』につながるのだと思っているが、かってに笑ってくれてたら嬉しい、かってに幸せになってくれたら嬉しい、というのでは本書の作者・住野氏が云う「幸せ」ではないだろう。

君が笑えるよう、幸せだと感じられるよう、真剣に考え応援できることこそが喜びなのだと、当たり前のことながら改めて気づかされた。

そんな思いに浸っていたのだが、恐ろしいけれど然もありなんという記事を読んでしまった。
 
<即位パレードで「雅子さまの足跡」をたどるマスコミが触れなかった男子を産まない皇后への過酷な圧力と<即位パレードで「雅子さまの足跡」をたどるマスコミが触れなかった男子を産まない皇后への過酷な圧力と深刻な事件!>
LITERA 2019.11.12.06.58 配信  https://lite-ra.com/2019/11/post-5085.html
 
<皇室記者が現場で感じた、新天皇夫婦と上皇夫婦の「大きな違い」>
現代ビジネス 2019.11.10 配信 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68337
 
平成の皇太子ご一家を襲ったバッシング報道の異様さ、その意図や背後の思惑については思うところがあったのだが、そのごくごく一部が公に語られるようになったことに驚いている。

その驚きと怒りを御目出度い雰囲気に包まれている今ぶちまけることはしないが、この記事の冒頭にある<「本当は雅子さんはもう、なんだってできますよ」。5年ほど前、夫妻に近い筋からそう聞いていました。前天皇夫妻に過剰な遠慮をする必要がなくなれば、雅子さんは必ず復活する。それは現役の担当記者をしていた十数年前から信じていたことでした。>は、同じく住野氏の「君の膵臓を食べたかった」のある件を思い出させた。

『桜は散ってから、
 実はその三ヶ月くらい後には
 次の花の芽をつけるんだよ。
 その芽は一度眠るの。暖かくなってくるのを待って、
 それから一気に咲く。つまり、
 桜は咲くべき時を待ってるんだよ。素敵じゃない?』(『 』「君の膵臓を食べたかった」より)

雅子皇后を、散った桜に例えるのは失礼千万であることは重々承知しているが、まるでポストが赤いのも雅子妃殿下のせいだと言わんばかりのバッシングの頃は、果たしてお元気になられ復活される日はくるのだろうかと心を痛めて応援していた。正直なところ、それなりの雑誌に「弟が天皇になる日」やら「皇太子殿下、ご退位なさいませ」(著者は、それにより得をするところと結びつきが深い)などという見出しが躍った時には、このまま枯れ落ちてしまわれるのではないかと心配すると同時に怒りに震えたものだった。

だが、そうではなかった。

もちろん現在も治療は続いているのだろうが(心の病は完治という言葉は用ず寛解というのだそうだ)、数年前から格段に良くなられ、ご活躍も可能だったという。
それを引き留めていたもの、そうと知りながらバッシングに乗じたもの、それだけではない、そもそも心の病に追い込んだもの、その根底にある思想。
眠りながら待つしか命を守る術がないのではないかと思わせるほどの苛烈なバッシングだった。
それらのどす黒い堆積土に埋もれながら、咲くべき時を待っておられた。

今 一気に咲きはじめた雅子皇后の花が、これから次々と蕾をふくらませ 花開いていくよう心から祈り応援を続けたいと思っている。