何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

穂高郷 神降りる地③

2021-07-04 15:41:47 | 
 
理不尽なことに立ち向かうとき、「神様には負けられない」と気炎をあげるのか、「祈るよ」と頭を垂れるのか、どちらが正しいのか分からない。
ただ、「神様には負けられない」(山本幸久)でも「泣くな研修医」(中山祐二郎)でも主人公たちは、その言葉とともに、最大限の努力を誓っていることは確かだ。
 
理不尽な仕打ちに天を仰ぎ恨みたくなる神?と、祈りの対象の神
 
神とはなんだろう、と思っている私に、ワンコはもう一冊お告げ本を滑り込ませたね。
 
「神の値段」(一色さゆり)
 
表紙裏のあらすじより引用
マスコミはおろか関係者の前にも姿を見せない現代芸術家、川田無名。彼は、唯一のつながりのあるギャラリー経営者の永井唯子経由で、作品を発表し続けている。ある日唯子は、無名が1959年に描いたという作品を手の内から出してくる。来歴などは完全に伏せられ、類似作が約六億円で落札されたほどの価値をもつ幻の作品だ。しかし、唯子は突然、何者かに殺されてしまう。アシスタントの佐和子は、唯子殺した犯人、無名の居場所、そして今になって作品が運び出された理由を探るべく、動き出す。幻の作品に記された番号から無名の意図に気づき、やがて宗意が徹底して姿を現さない理由を知る ー。
 
 過去には白鳥愚っちシリーズを生み出した「このミステリーがすごい」大賞の受賞作なので、犯人捜しという点では、その人が登場人物として現れるなり犯人と知れてしまう筆致は残念だし、美術界とミステリーの融合というジャンルでは、「楽園のキャンバス」「暗幕のゲルニカ」(原田マハ)には遠く及ばないが、確固たる専門を持つ人の話は、読む者を引き付ける力があるので、これからの作品を楽しみにしている。
 
それはともかく、神、神、神
 
アートミステリー?が「神」をどのように描くのだろうかと興味深く読んだのだが、直球で攻めてきた。
 
ギャラリー経営者・唯子は、言う。(『 』「神の値段」より)
『アートの本質は、宗教的なものです』
『アートは理解するものではなく、信じるものだと思います』
 
この唯子が心酔している絵画は、べつに宗教画というわけではない。ただ、一人部屋で向き合うような絵こそが、絵画との関わり方の本物だと思っている。
 
そう考えている唯子が心酔している絵画の作者は、「神になりたい」と宣う。
 
『私は神になりたい。キリストでも仏でもなく、生命力の反復、例えば天照が太陽を象徴するように、生命力の源泉としての陽光の如き、絶えず其処にいる神になりたい。神を創造主と考えるなら、宇宙の維持は宇宙の創造と同じくらい、或いは其れ以上に、大きな奇蹟である。
神になるには、二つの事を同時に達成せねばならない。作り出す事と、存続させる事。私は神として、誰にも成し得なかった事を実現させたい。しがらみや分類から、超越したところで評価されたい。不在でありたい。永遠の芸術を作り出したい。私自身の手から脱したものを、作り出したい。信仰を叶える為に、私は姿を見せてはならない。』
 
芸術的センスも審美眼もないので、神を感じさせる芸術家にも美術品にも出会ったことはないが、所謂 宗教ではないところにおわす神というものを信じないわけではない。
それが芸術であれ自然であれ、イワシの頭であれ、そこに神がおわすと人が信じ頭を垂れるとき、静謐な空気に包まれるように思うのだが、それは祈るというよりは、自分に向き合う作業のように、私には感じられる。まぁ逆にいうと、それだけ宗教がいう神に懐疑的ということでもあるのだが。
 
神を信じ求めたい気もする一方、それを強く否定するアンビバレンスな感じは、神仙郷の桃源郷を信じなかった陶淵明てき皮肉かもしれない、と強引につなげたのは、私が陶淵明が好きなことに加え、庭の桃で美味しいジャムができたことを記録しておく切っ掛けが欲しかったからに過ぎない、かもしれない。
 
そんなこんなで、たぶん、まだつづく

神を利用する斯界異界

2021-07-04 11:51:21 | ニュース
右も左も、こういう時は揃い踏みで批判するのが以前から不思議だったのだが、考えてみれば、現状わが国にはまっとうな右も左もいないのだから仕方がないのかもしれない。
 
今上陛下の、東京五輪開催による感染拡大懸念、拝察、表明の件だ。
 
天皇陛下の政治利用だと宣う者あれば、天皇の政治関与だと怒る者もいるが、現下の状況に鑑みれば、今上陛下のご懸念が本当だっとして、それを表明されることを許可されていたとして、一体全体なにが問題なのか、私にはさっぱり分からない。
 
これがもし、春先 いやG7前だったら、オリンピック開催・延期・中止議論に大きな影響を与えただろう。その影響力をもって政治的云々をいうなら、そうかもしれないが、開会式まで一月となり、大方の国民も内心 延期・中止が妥当だと思いながらも、もはやここまでくれば開催されるのだろう、という心情になっている時での、「ご懸念」「拝察」表明に、開催そのものに影響を与える影響力があるとは思えない。
 
それでも、右や左から批判が起こるのは、平和の祭典ということになっている五輪がまさに政治案件になっているからだろう。
 
「復興五輪」と銘打ちながら開催地は東京という謎も、そのスローガン自体がいとも簡単に、「コロナに打ち勝った証の五輪」にすり替わったことで、これが開催誘致のための詭弁お題目でしかなかったことが、露呈した。だからこそ、お題目はともかく困難に打ち勝ち成功したという実績を、秋の選挙の景気づけとしたい与党と、そうはさせまいとする野党が、選手の思いも、国民の安心安全もそっちのけで、五輪を政治利用している。
 
だから、今上陛下のご懸念が、自分たちの選挙にどう影響するかが心配な政治家が反応するのは分かるが、右や左の学者までが批判するのは、どうしたことか?
ここに、まっとうではない右と左しかいない状態での立憲君主制度の難しさがある。
 
今上陛下の五輪開催による感染拡大のへのご懸念、の拝察、の表明
 
私の周辺は、積極的に五輪に賛成という気持ちではないものの するからには成功してほしいと願う、平均的な考えの人が多いのだが、誰もかれもが今上陛下の御心中(大御心)を「拝察」し、両陛下への尊崇の念を深めたように感じている。おそらく、それを非難する声が大きければ大きいほど、尊崇の念は高まるに違いない。
 
それが、えせ右も左も、怖いのだろう。
 
この度の皇位継承者を確保するナンチャラ会議の結論を見ても、右といわれるナンチャラが、皇室に知性や良識を求めていないのは明らかだ。おそらく男子だけ製造してくれれば、絡繰り人形でいてくれるのが望ましいのだろう。
では、五輪中止で選挙はいただき!と目論んでいるナンチャッテ左が、今上陛下のご懸念を歓迎しているかというと、そうではない。なぜなら国民が有難くその大御心を頂戴していることが、気に食わなくて仕方ないのだ。
 
右も左もどいつもこいつも(失礼)、自分の飯のタネしか頭にない。
 
両陛下はこれまで多くのスポーツ選手を讃えてこられた。
特に障害者スポーツへの造詣が深い両陛下におかれては、パラリンピックとそこで活躍される選手への思い入れも強いと私ごときも「拝察」している。
だから、五輪の意義や開催に本来否定的なお気持ちではないはずだが、それでも、この感染状況と国民生活をご覧になり、ご懸念を表明せずにはおれないとお考えになるのは、象徴としてむしろ当然ではないだろうか。
 
このタイミングで、おそらくは感染対策の万全を強く願われるからこその、「ご懸念」「表明」
 
それすら許されないなら、そもそも大会の名誉総裁などお願いしてはならないのではないだろうか。
 
時を同じくして、御即位後初めてとなる「国連水と災害会議」での今上陛下のご講演があった。
6月25日の講演の全文はまだ公表されていないが、過去のご講演を紐解くと、度々、多くの災害や疫病から立ち上がった我が国の歴史に言及されている。
 
今上陛下は歴史学者としての知見から、災厄に打ち勝つことを信じつつも、その痛みが最小であることを痛切に願われ、批判も顧みずお気持ちを表明することを決意されたのだと、拝察している。
願わくば、能吏として名高い長官がその能力を、(えせ右的権力に惑わされることなく)国民の真の安心安全を願われる両陛下をお守りすることに発揮されんことを。
 
 
 
 
 
 
しっかし、なんちゃって左の立ち位置も理解しがたい。
皇室の政治関与を許さないが第一義ならば、先の陛下のご退位お気持ち表明など、二重橋に座り込み抗議するべきだったのではなかろうか。
懇意のマスコミに世論を誘導させるかのようなリークがあり、お膳立てできたところで、お気持ちビデオメッセージが降ってきて、政治はお気持ちに沿うかたちで法整備せざるを得なかったのだから、これ以上の政治的関与はないはずだ。
また、兄の一世一代のお代替わりの式に関し、その多くが国事行事であるにもかかわらず、身の丈にあった小規模なものにすべしといった弟の発言、あれは政治的関与ではなかったのだろうか。しかもご自分たちは、新しい身位のために50億円もの費用を投じて仮住まいと増改築を行っているという、摩訶不思議さ。
おそらく、なんちゃって左は、草の根に近いだけに、本当国民から敬意を集めているのが どなたなのか知っているのだろう。
だからこその一連の反応なのだろう。