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理不尽なことに立ち向かうとき、「神様には負けられない」と気炎をあげるのか、「祈るよ」と頭を垂れるのか、どちらが正しいのか分からない。
ただ、「神様には負けられない」(山本幸久)でも「泣くな研修医」(中山祐二郎)でも主人公たちは、その言葉とともに、最大限の努力を誓っていることは確かだ。
理不尽な仕打ちに天を仰ぎ恨みたくなる神?と、祈りの対象の神
神とはなんだろう、と思っている私に、ワンコはもう一冊お告げ本を滑り込ませたね。
「神の値段」(一色さゆり)
表紙裏のあらすじより引用
マスコミはおろか関係者の前にも姿を見せない現代芸術家、川田無名。彼は、唯一のつながりのあるギャラリー経営者の永井唯子経由で、作品を発表し続けている。ある日唯子は、無名が1959年に描いたという作品を手の内から出してくる。来歴などは完全に伏せられ、類似作が約六億円で落札されたほどの価値をもつ幻の作品だ。しかし、唯子は突然、何者かに殺されてしまう。アシスタントの佐和子は、唯子殺した犯人、無名の居場所、そして今になって作品が運び出された理由を探るべく、動き出す。幻の作品に記された番号から無名の意図に気づき、やがて宗意が徹底して姿を現さない理由を知る ー。
過去には白鳥愚っちシリーズを生み出した「このミステリーがすごい」大賞の受賞作なので、犯人捜しという点では、その人が登場人物として現れるなり犯人と知れてしまう筆致は残念だし、美術界とミステリーの融合というジャンルでは、「楽園のキャンバス」「暗幕のゲルニカ」(原田マハ)には遠く及ばないが、確固たる専門を持つ人の話は、読む者を引き付ける力があるので、これからの作品を楽しみにしている。
それはともかく、神、神、神
アートミステリー?が「神」をどのように描くのだろうかと興味深く読んだのだが、直球で攻めてきた。
ギャラリー経営者・唯子は、言う。(『 』「神の値段」より)
『アートの本質は、宗教的なものです』
『アートは理解するものではなく、信じるものだと思います』
この唯子が心酔している絵画は、べつに宗教画というわけではない。ただ、一人部屋で向き合うような絵こそが、絵画との関わり方の本物だと思っている。
そう考えている唯子が心酔している絵画の作者は、「神になりたい」と宣う。
『私は神になりたい。キリストでも仏でもなく、生命力の反復、例えば天照が太陽を象徴するように、生命力の源泉としての陽光の如き、絶えず其処にいる神になりたい。神を創造主と考えるなら、宇宙の維持は宇宙の創造と同じくらい、或いは其れ以上に、大きな奇蹟である。
神になるには、二つの事を同時に達成せねばならない。作り出す事と、存続させる事。私は神として、誰にも成し得なかった事を実現させたい。しがらみや分類から、超越したところで評価されたい。不在でありたい。永遠の芸術を作り出したい。私自身の手から脱したものを、作り出したい。信仰を叶える為に、私は姿を見せてはならない。』
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芸術的センスも審美眼もないので、神を感じさせる芸術家にも美術品にも出会ったことはないが、所謂 宗教ではないところにおわす神というものを信じないわけではない。
それが芸術であれ自然であれ、イワシの頭であれ、そこに神がおわすと人が信じ頭を垂れるとき、静謐な空気に包まれるように思うのだが、それは祈るというよりは、自分に向き合う作業のように、私には感じられる。まぁ逆にいうと、それだけ宗教がいう神に懐疑的ということでもあるのだが。
神を信じ求めたい気もする一方、それを強く否定するアンビバレンスな感じは、神仙郷の桃源郷を信じなかった陶淵明てき皮肉かもしれない、と強引につなげたのは、私が陶淵明が好きなことに加え、庭の桃で美味しいジャムができたことを記録しておく切っ掛けが欲しかったからに過ぎない、かもしれない。
そんなこんなで、たぶん、まだつづく