神、神、神、そしてアルカディア

いつ頃からか、神仏に素直に祈ることができなくなった。
家には仏壇があり、日に一度はその前に座るのだが、宗教的な意味あいは必ずしもないような気がしている。
それは、総本山に金箔でデカデカと社名を入れた仏具が鎮座しているのを見たからなのか、クリスチャン上司の選民思想に疲れたからなのか、いずれにせよ所謂 宗教的な神仏に素直に頭を垂れなくなって等しいのだが、だからといえ、強く反発しているとか、敬虔な信仰者を敬遠するというわけでもない。
ただ、鬼神は敬してこれをと遠ざく、といったところか。
そんな私だが、「神の値段」(一色さゆり)が云う「アートは宗教的なもので、理解するのではなく、信じるもの」という信念をもつ画商の「一人で部屋で絵と向き合う」という絵画との関わり方には共感する。部屋で一人絵画と向き合う時、絵は、祈れば山をも動かしてやろう、死者する生き返してやろうというという偉大な神ではなく、自分自身を深く見つめるため精神を集中させる道具なのだと思う。
救いは結局、内なるところからしか生まれてこないように、私には思える。(宗教こそ内なるものに向き合うものだという意見もあるだろうが、どうにも宗教は普及活動とセットになっているので、極めて俗世間的なものにも思えてしまう)
今、特にこう感じるのは、そのままでは硬くてイガイガして食べられたものではない庭の桃から美味しいジャムができたことで、桃源郷などという言葉を思い出したらかもしれないし、ガレージのシャッターケースの上の鳥の巣に感じるところがあったからかもしれない。

ひと月くらい前から、イソヒヨドリが藁などを加えて我が家を窺っていたのだが、その後シャッターの上に巣らしきものができているのに気付いたと同時に、ヒナの声も確認できた。
親鳥がせっせと藁と餌を運び、ヒナが口を開けて親を待ち、そうこうしているうちに、飛ぶ練習をはじめ、夕刻にはまだ巣に戻ってくる、という日々だった。
それがどうも、つい先日巣立ちを迎えたようだ。
美味しい桃ジャムに、青いイソヒヨドリ
幸せは身近なところにあるという「青い鳥」(メーテル・リンク)を思い出させてくれてくれた、きれいなイソヒヨドリの営みであった。
…と書いて、あまりにも大切なことを思い出した。私の机の一角は、まさに神仏で溢れている。
日本全国の霊験あらたかな神仏に詣でるのを常とする友人が、その先々からちょっとやそっとで手に入らないような有難いお守りなどを贈ってくれるのだ。そのようなお守りたちに見守られながら過ごしているくせに、神仏に頭を垂れることができないなどとは口が裂けても言えないと、今頃気づいて反省している。

今年初めて収穫したブルーベリーと、桃ジャムをのせたヨーグルト
とはいえ、しつこいけれど、、、
本書には、価格と値段の違いを説明する場面がある。(『 』「神の値段」より)
『価格というのは需要と供給のバランスに基づいた客観的なルールから設定される。一方で値段というのは、本来価格を付けられないものの価値を表すための、所詮比喩なんだ。作品の金額というのは売られる場所、買われる相手、売買されるタイミングによって、常に変動し続ける。』
神を目指す画家の一世一代の作品に対し、オークションでついた金額。
それに対し、『あの落札額は、まさに神の値段だったわけだ』というセリフがあるのだが、その金額と落札者を考えると、やはり自分自身で折り合いをつけるしかないことを物語っているような気がする。