何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ワンコ想う山行 ワンコ顕るる奥穂の頂 その壱

2016-08-20 09:51:25 | 自然
もともと我が家にとって神様のような存在だったワンコが本物の神様になって、7か月。

今年の夏は、ワンコの名前の由来となったお山に登る予定だったのに、そのてっぺんにある嶺宮に(ワンコ実家母さんが誕生させてくれた)編みぐるみワンコを立たせてあげる予定だったのに、叶わなかった。

初めて奥穂に登った日。
あの日は、ワンコも知っているように、奥穂に登る予定ではなかったんだよ。
何年も涸沢止まりだったことを打ち破り、その前年に北穂に登っていたから、密かに山pは奥穂に登る計画を立てていたようなんだけど、私は知らされてはいなかったんだよ。
その日も、「来年のためにザイテングラードまで下見に行こう」と誘われたのだけど、提出していた登山計画書と異なることに躊躇いがあり、私は不承不承着いて行っただけなのに、歩き始めると思いの外、身体が軽い。
吉行淳之介氏の「ああ、この身は私じゃない」の逆バージョンとでもいうべきなのか、本当に体も足取りも軽く、気が付くと奥穂のてっぺんに立っていたんだよ。
でも、その理由は、てんぺんにあるケルンの社殿でお約束の写真を撮ったあと、ふと足元にある小さな祠と社標を見て分かったんだよ ワンコ
祠と社標の上に、ぽっかりと浮かんだワンコの顔。
穂高見神がお山のてっぺんに降臨し、アルプスの山々と安曇の地を治められたことから奥穂高と命名されたのだから、そこにワンコが遊びに出かけても不思議なことではないのだけれど、あれほどハッキリと祠のうえにワンコの笑顔が浮かんでいると、不思議な気持ちを通り越して、むしろ当然の理のようにも思えたんだよ ワンコ
奥穂初登頂を、背中を押して助けてくれた ワンコ!

あの嶺宮の社殿と祠に今年は絶対に御挨拶したかったのだけど、叶わなかったよ ワンコ
この夏は、山pが激しい運動が禁じられたから奥穂は無理だったけれど、奥穂が一番きれいに見える山に登ろうということになって、蝶が岳に登って来たんだよ ワンコ

ワンコは日本アルプスの総鎮守さまだから蝶が岳からの眺望も知っているかもしれいけれど、下手な写真を撮ってきたから、見ておくれよ ワンコ

皇太子御一家をお見送りした後、10キロほど歩いたところにあるのが、横尾。 (参照、「四方山祭・四方山話その壱」「四方山祭・四方山話その弐」
横尾大橋を渡ると穂高・涸沢へ、橋を渡らず奥へ進むと槍ヶ岳への道へ、横尾山荘の脇から東に向けて登ると蝶が岳へ。それにつけても横尾山荘のお風呂の良かったこと、いつも通過点にしていたことが惜しまれたよ ワンコ
 


地図によると、槍見台へは40分かかることになっているけど30分で着いたので、しばし小休止。
でもね、ここから更にしばらく登ったところに、以前はなかった「なんちゃって槍見台」というのができていたんだよ ワンコ
しかも、本家本元の「槍見台」より「なんちゃって」からの眺望の方が心なしかカッコイイんだよ ワンコ
お山でまで、二番煎じ・紛い物のほうが幅を利かせているのには考え込んじまったよ ワンコ



前回蝶が岳に登った時にはコースタイム通り槍見台から二時間半で頂上に着いたのだけど、今回は山pの体調を気遣ったからか、体力が落ちたせいか、二時間もオーバーしてしまったよ ワンコ
でも、鈍行で歩いたおかげか筋肉痛もなく、足もとの草花を楽しむこともできて良かったよ。
そして、森林限界を超すなり現れた大眺望!!! 

そして、左に目を転じて見はるかすと、そびえたつ穂高の峰々!
ワンコはよく知っていると思うけど、一番右がランチが充実していた(もとい)「氷壁」(井上靖)で有名な北穂なんだよ。
カメラの腕がナンチャッテな私のせいで分かりにくいけれど、その左にあるのが涸沢岳で、少し窪んだところにあるのが、穂高岳山荘。ここから幾つかハシゴ登ったりすること40分で辿り着く奥穂のてっぺん。


この時、奥穂のてっぺんからワンコがニコニコ顔でこちらを見ているのを感じたよ ワンコ
でも、この後、蝶が岳ヒュッテで仮眠をとっていると、いつものようにお腹の上に寝そべるワンコも感じたんだよ ワンコ
奥穂のてっぺんに立たせてあげることはできなかったけど、ワンコはあちらとこちらを自由に行き来しながら、いつも私達を見守ってくれてるんだと感じたよ ワンコ (参照、「星の宝物 ワンコ」
この日のワンコはニコニコ顔だったけど、翌朝モルゲンロートに染まる穂高の峰々に立つワンコは神々しかったよ ワンコ

それについては、次にね ワンコ

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四方山祭・四方山話 その弐

2016-08-18 23:30:05 | 自然
「四方山祭・四方山話 その壱」より

「山の日制定記念式典」に御臨席される皇太子ご夫妻に敬宮様が同行された今回のご訪問であったが、敬宮様が地方公務にご出席されるのは初めてのことだという。
「山の日」式典らしく御三方お揃いと見受けられるアウトドアのシャツで溌剌と公務されているお姿を拝見し、哀しさを覚えたと書けば奇異な感じもするが、「哀しさ」あるいは「お気の毒」という印象をもったことは否定できない。

一言で云えば、「鍵のかかった部屋」ならぬ「鍵のかかった空間」とでもいうべきか。

健脚な皇太子御夫妻や遠泳で5キロ泳がれる敬宮様ならば、自然散策路どころか上高地を囲む四方の山々を歩かれることも可能であろうが、そのような自由は許されてはいない。この日も式典の後、河童橋を歩かれるのでは?という情報もあったようだが、警備の都合や観光客へのご配慮であろう、結局河童橋を歩かれることはなかった。
明神池までにある幾つかのビューポイントは御覧になったようだが、梓川のせせらぎに耳をすませながら歩く心地よさも、岳沢伏流水に泳ぐイワナを見つける楽しみも、経験されぬまま上高地を後にされた。

多くの伴を引き連れ金満ぶりを発揮できるような大名行列を好む者もいるだろうが、自然を愛する皇太子御一家が、砂煙と排気ガスを撒き散らす車で上高地を’’通過’’されることを好まれるとは思い難い。
「日本百名山」(深田久弥)を愛読し数々の山に登りながらも、多くの登山者で賑わう槍穂をご遠慮されるご配慮や、上高地をご訪問されながら観光客を気遣い河童橋に立つことすらされない皇太子御一家をまぢかで拝見し、なんと御不自由な生活かと胸が痛んだ。
雅子妃殿下のご病気が公表された頃、その生活につき「情報遮断のような状態」と説明されたことがあったと記憶している。
もちろん身柄が拘束されているわけではないが、一時も自由がない空間に生きておられるのを垣間見ることで、その言葉を思い出すとともにニューヨーク三部作の一つである「鍵のかかった部屋」(ポール・オールスター)という題名が思い浮んだのだ。

モスクワの幼稚園に入園し、ニューヨークの小学校に入学し、高校・大学・大学院をアメリカとイギリスで過され、その後は外交官として世界を飛び回り仕事をされていた雅子品殿下。御成婚前の29年の人生のうちの半分以上の時間を海外で生活されていた雅子妃殿下。
それが、住まいを一歩出ることも、ご訪問先で散策することも、自由には出来ない生活になられた。
御成婚前の雅子妃殿下の空間的広がりを考えれば、この御不自由な生活が情報遮断「鍵の掛かった部屋(空間)」に思えて哀しくなったのだが、居合わせた人々も一様に「ご不自由なことでお気の毒だね」と言っていた。
にもかかわらず千代田側という人間は、まるで男児を産まぬ女には、ご褒美である海外公務など以ての他だと言わんばかりに「そんなにも海外に行きたいのか」と言い放つことで、問題を刷り替え雅子妃殿下を貶めていったのだ。

妙にハイテンションになった山pとは対照的に、私は「人にとっての真の幸せとは何か」などと考えながら歩いていたのだが、明神池での敬宮様のお写真を後日拝見し、救われたような気もしている。


上高地ルミエスタホテル「上高地通信」より 
http://www.lemeiesta.com/blog/2016/08/entry-1252.php

この、この日一番の笑顔を敬宮様にもたらせたのは、霊験あらたかな穂高神社の穂高見神だと信じている。
というのも、各紙「皇太子御一家は明神池を散策された」とばかり報道しているが、明神池は穂高神社奥宮の拝所の奥に広がる鏡のように透明感のある美しい池のことであるため、明神池を散策というのは必ずしも正確な表現とは思えないからだ。


そして、この穂高神社奥宮に接している「嘉門次小屋」の方が撮られた写真こそが、眩いばかりの敬宮様の笑顔だが、この「嘉門次小屋」も実は皇室に縁がある。嘉門次小屋といえば、初代・上條嘉門次氏が「日本アルプス」を世界に知らしめたW・ウェストンを案内したことで有名だが、実は山の宮様といわれた秩父宮殿下が奥穂から槍へ縦走された折も案内役を務めている。

穂高見神と山の宮様に導かれての、敬宮様の笑顔だと拝察している。
そして、これからも八百万の神々や皇室の御先祖様が、皇太子御一家を守って下さるように祈っている。


ちなみに、私が今年どうしても奥穂に登りたかった理由も穂高見神にあり、ワンコのために奥穂の頂上の穂高神社の嶺宮にお参りしたかったからだが、そのあたりについては、又つづく。

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四方山祭・四方山話 その壱

2016-08-17 23:00:00 | 自然
「山の日制定記念式典」の会場には、当然のことながら招待者しか入れないので、会場のそばに設置されたテレビ中継を見守る人も多くいた。

テレビ前には多くの人だかりができており、じっくり見ることはできそうになかったので、私達は次の御視察場所に先回りしてみた。
報道関係者が場所取りだか最後の打ち合わせだか熱心に話し込んでいたり、地元長野県警が規制線をはる準備を始めていたりと、普段は目にすることのない光景が広がり、登山できないことを残念がり申し訳ながってばかりいた山パートーナー(山p)も何やら興奮している。
  

いよいよその時が迫り、待ち受ける人たちの期待が最高潮に達したとき、木立の向こうから皇太子御一家が歩いてこられた。
木漏れがさす木立のなかを歩かれる御一家の姿は絵になり、必死でシャッターを押すが何故か無反応。
結局まともな写真が撮れなかったばかりか、カメラの不具合ばかりが気になり、きちんと拝見することすら出来ず、残念無念。
皇太子御一家が御覧になった梓川と穂高連峰 ※


次の御視察場所である明神池には車で移動されるというので、徒歩で小一時間かかる明神池へ先回りすることはできないと諦めトボトボ歩き始めたのだが、私達の前の集団の歩くスピードがあまりにも遅い。
上高地は、大正池から河童橋・河童橋から明神池までと2コースの自然散策路が整備されており、(植物保護のため)道を逸れて歩くことは出来ない。写真を撮りながら歩く観光客の後ろについてしまった時など、抜くに抜けず時計を見ながらイラッとくることもあるのだが、それと比較しても、この時のペースは遅く何事か?と思いながら、見た先に!


日頃はいたって冷静で、特にこの日は体調を心配しながらの旅で沈みがちだった山pだが、皇太子御一家をまぢかに拝見し思わず「皇太子殿下 雅子様 愛子様」と大声で叫んでいる。
しかも、「自分の声に気付いて振り返ってくださった。雅子様と愛子様とはシッカリ目が合った」と大興奮!
これだけでも嬉しく貴重な体験だったが、この後、明神池からお帰りの車列に遭遇した。


又また大興奮の山pが御名前をお呼びしたところ、わざわざ窓を開けて手を振って下さったので、我々のテンションは最高潮に!だが、その一方で私は妙な哀しさも覚えていた。

そのあたりについては、また次に書こうかと思うのだが、それを考えるにつき、あと二枚写真を掲載しておこうと思う。

 

これは、河童橋から望む穂高連峰と焼岳だ。
皇太子御一家が梓川右岸のビューポイントから御覧になった梓川と穂高連峰(上の写真※)も素敵だが、吊り橋である河童橋が揺れるのを楽しみながら仰ぎ見る穂高と、ふと振り返ったところにデンと存在する焼岳は、格別なものがある。
それを、皇太子御一家は御覧になることは出来なかったのだ・・・・・。

つづく

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祭典を前に

2016-08-16 00:15:55 | ひとりごと
今年は長年憧れてきた常念岳とワンコの名を頂戴したお山に登る予定だった。

だが、常念岳へ向かう数日前に家人が帯状疱疹に罹り登山を取りやめることになったため、奥穂こそと勢い込んでいた矢先に、今度は山のパートナー(山p)のもとに精密検査の必要ありとの知らせが舞い込んだ。
当然、山行そのものを止めようという私に対し、山pは「お盆休みの間中、検査のことばかり考えている方が精神衛生上悪い。奥穂は無理でも、せめて奥穂が見えるところへ行きたい」と言う。
直前まで悩みに悩んだすえ、8月11日早朝奥穂へ向けて上高地を発つ予定を変更し、上高地で行われる「第一回山の日制定記念式典」を見学したうえで、体調次第でその後の予定を決めるという、かなり無謀な「無計画の計画」(by 「次郎物語」(下村湖人))で家を出発した。

11日am5:15 上高地着 震えるような寒さのなかでも、岳人の聖地は活気づいている。
天候にあわせた服装チェックをする人、荷物の最終確認をする人、登山届をする人、準備体操をする人


いつもならば、あの人々のなかで自分もまた出発準備を急ぎ、6:30には出発するのだが、今回は9時半に式典が開始されるまでの時間を持て余し、式典会場周辺を見学してみた。
式典会場は、野外とはいえ何重にも柵がめぐらされテントに覆われているため、現地にいるにもかかわらず会場内の雰囲気を窺い知ることは難しかったが、会場をぐるりと回ると隙間から、舞台を見ることができた。


いよいよ期待に胸を膨らませながら、お腹も膨らませようと、早朝から開いていたロッジのテラスでお茶などすることにしたのだが、このテラスから見たものは。
いくらカジュアルでスマートな警備を心がけても一目で警備関係者だと分かる眼光鋭い人たちが、わらわらと行き来している。
朝の上高地にはかなり奇異なそれを、異質とまでは感じさせないところが、日本の警察官の優秀なところなのかもしれない・・・などと思いながら、りんご6つを贅沢に使っていることがウリのアップルパイに舌鼓をうちつつ、その時を待つ。

腹ごしらえも次の撮影場所の確認も終え、「山の日」イベントに出店している出店をのぞきながら歩いていると、おもしろいものを見つけた。
「山の日」らしく登山用品店が出店をしているなかで一際異彩を放っていた、チキンラーメン。


あつあつの湯気がたつチキンラーメンの試食が楽しめるほどに上高地の朝は寒いのだが、そのヒンヤリとした空気を包みこむほどの熱気が、辺りを包み始めた。

祭典の始まりだ

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8月8日 感動を呼ぶ会見

2016-08-10 00:51:51 | ニュース
「8月8日の会見を見て、その全文を読み、彼がこれまで成し遂げてきた偉業に改めて感動するとともに、彼がおそらく初めて素直に語った気持ちに、こちらまで目頭が熱くなった。」
「黙々と為すべきことを為す、にっぽんの漢を見た思いがした。」
と周囲の人の多くは言っている。
彼の偉大さと偉業の素晴らしさは今更私などが言うまでもなく、これまで何度もその偉大さを讃える気持ちを書いてきたが、彼の魅力の一つに、シニカルな物言いがあると思っているので、あまりに素直に気持ちを語られると、「ちょいとまっておくれ」と言いたくなる私は、相当に天邪鬼か。
だが、クールな彼をして目を潤ませ素直な感情の発露となるほどに、この偉業は素晴らしく又そこへの道程は容易ではなかったのだろう、だからこそ彼が語る「達成感」には重みがある。

<イチロー、3000安打達成の会見全文「これからは感情を少しだけ見せられるように」> Full-count 2016.08.08より一部引用
―― 一般の人間には達成感が今後の目標に向けての邪魔になる。3000本の達成感をどうやって消化して次の目標に進んでいくのか?
「え、達成感って感じてしまうと前に進めないんですか。そこが僕にはそもそも疑問ですけど、達成感とか満足感っていうのは僕は味わえば味わうほど前に進めると思っているので、小さなことでも満足感、満足することっていうのはすごく大事なことだと思うんですよね。だから、僕は今日のこの瞬間とても満足ですし、それは味わうとまた次へのやる気、モチベーションが生まれてくると僕はこれまでの経験上信じているので、これからもそうでありたいと思っています」
http://full-count.jp/2016/08/08/post41618/ (参照、「静かなダンスが生み出す偉業」

この言葉が発せられるまでに、イチロー選手はどれほどの努力をしてきたのだろうか。(参照「通過点としての偉業」
小6の頃の作文に「練習には自信があります」と書いたイチローだからこそ、『小さなことでも満足感、満足することっていうのはすごく大事なことだと思うんですよね』という言葉にも説得力があると思う一方で、「小さなこと」に続く言葉が『だから、僕は今日のこの瞬間とても満足です』というあたりに、努力の底知れなさと目標の高さを感じさせ、恐ろしい。
そのあたりに注目しながら、再度「Ichiro イチロー努力の天才バッター」(高橋寿夫)を読み返すと、学校図書館の本だけに、スポーツ以外の事柄(勉強や他の習い事)とのバランスや道徳心に力点を置いていることに気付いたのだが、このバランス感覚と潔癖さが現在に至るイチローのイチローたる由縁かもしれないとも思ったりしている。

イチローの母は、父ローと息子の激しい練習を見守る一方で「野球選手になれるかなれないかは私にはわからないわ。でも、もしなれたとしても、野球しかできない人間にはなってほしくない。一通りのことは、ちゃんと身に着けないと・・・・・」と心配もしていたため、イチローは4歳から習字を、小2からは算盤も習っていた。そのおかげで、イチローは字が上手いし暗算も得意で、クイズ番組でイチローが披露した暗算力はスタジオ中を驚かせるほどのものだったという。

驚くべきことというと、毎日の激しい練習にもかかわらずイチローの中学校の成績は、数学と音楽は五段階評価の「4」だったが、残りの教科は全て「5」だったという。
そのイチローが推薦で進路先が早々に決定したにも拘らず中三の二学期に猛勉強をしたのだから、結果は推して知るべし、学年トップの成績をとったのだ。
校長先生は、『一郎君は野球での推薦入学が決まっていますが、県立の進学校に進んで、勉学と野球の両立を目指してはいかがですか?私の経験からいって、本気で勉強をやれば、東大を狙えますよ』と勧めたが、幼い日よりプロ野球の選手を目指して父子で練習してきた二人には迷いはなく、『文武両道は理想ですが、それではプロの選手にはなれません』と野球の道を選んだという。

幼い日より明けても暮れても父と子で激しい練習をする姿に、周囲からは「あいつ、プロ野球選手になるのか」と笑われたというイチロー親子。チーム競技であれば日の目を見るのは運の要素もあるし、怪我で野球が出来なくなる可能性もある。そんな不確かなものよりは、「東大」を目指す方が確実な道であり、また嘲笑していた周囲の人を見返すことが出来ると思うのだが、イチローは一度定めた目標を変えることはしない。
それを一本気というのか、生真面目というのかは分からないが、暗算を得意とするにもかかわらず「計算高くない」ことは確かだと思う。
そして、この一本気で計算高くないところは、プロとして活躍するようになっても変わらなかった。

(注、『  』「Ichiro イチロ― 努力の天才バッター」(高橋寿夫)より引用)
『イチローの一番すごいところ、それは、記録のためにわざと試合を休んだりせず、どこまでも正々堂々と記録に挑んでいるところだ』 『イチローの記録はどれもすごいが、なかでも、感心するのは、'94年から'98年までの5年間、全試合に出場して首位打者になっている点だ。これは、それまでのプロ野球の常識を打ち破ることだった』と作者・高橋氏はいう。
首位打者争いをしている選手は、シーズン終了の頃には故障がなくとも試合に出ないことがよくある。
それは規定打率にさえ達してしまえば、それ以後一度も打席に立たなくとも公式記録として認められるため、首位打者争いをしている選手は打率が下がるリスクを回避するため、試合に出なくなるのだ。
だが、イチローはそんな考え方はとらない。
現在でも、'86年に阪神のバースが打ち立てた3割8分8厘5毛は日本プロ野球の最高打率だが、それを破ろうと思えばイチローには出来たのだが、そのために試合にでないという選択をイチローはとらなかったため、日本人による最高打率の更新は今も果たせないままとなっている。
『210安打を放った'94年、イチローは126試合をおえた時点で、3割8分9厘4毛の打率をあげていた、残りの試合にでなければ、自動的に新記録がたっせいできたのだ。この時、オリックスの残り試合はたったの4試合。しかも、もう西武ライオンズの優勝が決まっていた。イチローが新記録達成のために、残り4試合を休んだとしても、誰も責めたりはしなかったはずだ。というより、それまでのプロ野球の常識からいって、イチローは休んで当たり前だったのだ。だが、イチローはそうしなかった。「休めばいいのに」という声に耳を貸さず、平然と残りの4試合に出たのだ。そして、その4試合の間に少しだけ打率を落としてしまい、3割8分5厘の成績でシーズンをおえた。 バースの 記録を超えることは、出来なかった』

『ケガをしたわけでもないのに休んで新記録を達成するより、プロのスポーツ選手としてのフェアプレーの精神を貫き、正々堂々と戦うほうを選んだのだ』
『イチローはこの時、スター選手であると同時に、ヒーローとなった。少年たちに、人間としての誇り高い生き方の手本を示したのだ』

イチローにとっては、日本最高打率は魅力ある記録であったかもしれないが、それすら通過点でしかなかったのだろう。
その後のメジャーでの活躍も目覚ましく、次々と金字塔を打ち立てているが、それもこれも通過点だというイチローの昨年の言葉は印象的だ。
「前に進んでいるという感覚は人とし大切」 「一歩一歩が世界に届く」

ひたすら努力を積み重ね、正々堂々と戦い進み続けるであろうイチローを心から応援している。


ところで、これは蛇足だと承知しているが。
イチロー選手が誰も真似ができないほどの努力を重ねてきたことは確かだが、一般的には努力しても報われることばかりでは、ない。
努力が報われず自暴自棄になることもあれば、(不可抗力的理由で)身体を崩すこともある。
イチロー自身は、それを更なる努力で補ってしまうだろうし、たとえ道を変えざるをえなくなったとしても、優れたバランス感覚で、新たな道をも立派に切り拓くだろうが、一般にそれほど強い人ばかりではない。
50歳まで現役を目指すともいわれるイチローがユニフォームを脱いだ姿は、今はまだ想像できないが、仮に指導者になった場合、どのような指導者になるのかに興味をもってしまうのは、私が真面目にコツコツ頑張りながらも報われず、それでも直向に頑張る人こそ応援したいと思う性質だからかもしれない。

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