白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月二十二日(3)

2017年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ドゥルーズ&ガタリから。

「抑圧するための、あるいは抑圧されるための官僚機構《への》欲求は存在しない。権力・職員・弁護依頼人・機械を伴った、官僚機構のひとつの分節が存在する。あるいはむしろ、バルナバスの経験においてのように、あらゆる種類の分節、隣接した事務室がある。すべての歯車は、実際にはその外見にもかかわらず等しいものであり、欲求としての、つまり鎖列それ自体の働きとしての官僚機構を構成する。圧制者と被圧制者、抑圧者と被抑圧者への分割は、機械のそれぞれの状態から由来するのであって、その逆ではない。これは二次的なものである。つまり、『訴訟』の秘密は、K自身が弁護士であり、裁判官でもあるということである。官僚機構は欲求である。それは抽象的な欲求ではなく、機械の一定の状態によって、一定の分節のなかで、特定の瞬間において規定される欲求である。(ハープスブルクの分節的君主政体がその例である)。欲求としての官僚機構は、或る数の歯車のはたらき、或る数の権力の行使と一体になっている。これらの権力は、それが把握する社会的領野の構成によって、それらの技術者と機械化される者とを規定する」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.116~117」法政大学出版局)

「資本主義のアメリカ、官僚制のソ連、ナチスのドイツ──実際、分節されていて隣接したノックによって、カフカの時代にドアを叩いていた来たるべき《悪しき力》。欲求、すなわち歯車に分解される機械、ふたたび機械を作る歯車。分節の柔軟性、柵の移動。欲求は根本的に多義的であり、この多義性によって、欲求はすべてを浸すただひとつの同じ欲求になる。『訴訟』の正体不明の女たちは、同一の享楽によって、裁判官・弁護士・被告をたえず楽しませる。そして盗みをしたために笞打たれる監視人フランツの叫び声、銀行のKの事務室のそばの物置の廊下へ通ずるドアのうしろで聞こえるあの叫び声は、《拷問される機械が発した》もののように思われるが、それはまた快楽の叫び声でもある。しかし、それが快楽の叫び声であるというのは、けっしてマゾヒズムの意味においてではなく、拷問される機械が、自己自身を享楽することをやめない官僚機構的機械の部分品だからである」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.117~118」法政大学出版局)

「連続性という視点からは何が起こるのか。カフカはブロックを捨てない。しかし、ひとびとはまず最初に、これらのブロックはひとつの円周上に分配されているのではなく──この円周のいくつかの非連続な弧が描かれているだけである──、回廊または廊下に並んでおり、したがってそれぞれのブロックは、この無限定の直線に沿って、多かれ少なかれ離れた分節になっていると言うだろう。しかしこれはまだ十分な変化になってはいない。ブロックは存続しているので、ブロック自体がひとつの視点から別の視点へと移行することによって少なくともかたちを変えなくてはならない。そして実際に、それぞれのブロック=分節が廊下の線に対して開かれている戸口を持っているというのが本当であるとしても──それも一般的には次にあるブロックの戸口または開かれた場所から非常に離れたところにあるのだが──、それにもかかわらず、すべてのブロックはその背後にそのブロックの数だけの隣接した裏口を持っている。これはカフカにおいて最も驚くべ地形学であり、それは単なるひとつの《精神的な》地形学ではない。対蹠的なところにある二つの点が、奇妙に接触していることが明らかにされる。この状況は『訴訟』ではたえず再発見されるのであって、そこでは、Kが銀行のなかで彼の事務室のすぐ近くにある物置小屋のドアを開けると、そこは二人の監視人が罰せられている裁判所の一室である。《裁判所事務局のある例の郊外とはまったく逆の方向になっていた郊外》にティトレリの絵を見に行くKは、この画家の部屋の奥にある戸口が、同じ裁判所事務局にまさしく通じていることを知る」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.151~152」法政大学出版局)

「おとなによってなされる、おとなの子どもへの変化と、子どもによる、子どものおとなへの変化とは隣接している。『城』はマニエリスム的な強度のこれらのシーンをはっきりと提示している。つまり『城』の第一章において、二人の男が洗たくたらいの中で湯あみし、身体の向きを変えたりしているのに、子どもたちはそれを見ていてお湯をはねかけられる。またこれとは反対に、もっとあとの方で、喪服を着た婦人の子どもであるハンス少年は、《若者のような考え方》に支配されており、《彼の行為のすべてに現れているまじめさもまたその種の考えに似つかわしかった》。これは、子どもにとって可能なおとならしさである(ここには、洗たくたらいのシーンへの言及が再発見される)。しかしすでに『訴訟』のなかにマニエリスムの大きなシーンがある。それは、二人の監視人が罰せられるとき、そのすべての叙述は子どものブロックとして扱われ、この部分の各行は、むち打たれてわめくのが──ただし半分だけまじめに──子どもたちであることを示している。カフカによれば、この点において子どもたちは女たちよりももっと遠くへ進むもののように思われる」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.164」法政大学出版局)

「機械は、それ自体が機械になっている結合要素のすべてに分解されることによってのみ社会的である。司法の機械は、隠喩的に機械と言われているのではない。機械は、単にその部分品・事務室・本・象徴・地形によってだけでなく、そのスタッフ(裁判官・弁護士・廷丁)、ポルノ的な法律書を持ってそばにいる女たち、規定されていない材料を与える被告たちによっても、第一の意味を固定する。書く機械は事務室にしかなく、事務室は書記たち・室長代理・責任者たちがいなければ存在せず、また、行政的・政治的・社会的でしかもエロチックな配分がなければ存在しない。この配分を欠いては、《技術》は存在しないだろうし、けっして存在しなかっただろう。それは機械が欲求なのであって、欲求が機械《の》欲求であるからではない。むしろそれは、欲求がたえず機械のなかで機械を作り、先在する歯車の横に新しい歯車を──たとえこれらの歯車が対立したり、調和しない仕方で機能する様子があるとしても──たえず限りなく作るからである。機械を作るものは、適確に言うならば、結合、すなわち分解を導き出すすべての結合である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.168」法政大学出版局)

「カフカが最終的な解決、実は限界のない解決に到達するのは、長篇小説の構想によってである。つまりKはひとつの主体ではなく、たえず分節化し、そのあらゆる分節に拡がって行く、《それ自身で増殖する一般的な機能》になるだろう。しかしこれらの概念のそれぞれを明確にする必要がある。一方では、《一般》は個別と対立するものではない。《一般》はひとつの機能を示し、最も孤立している個別は、それが依存するセリーのあらゆる関係項に結びついているために、それだけ一層一般的な機能を持っている。『訴訟』のなかでKは銀行員であり、この分節において、銀行員・客のあらゆるセリーと、また若い女ともだちのエルザとつながっている。しかし彼は監視人・証人・ビュルストナー嬢とのつながりのなかで逮捕されもする。そして彼は、法丁・裁判官・洗濯女とのつながりのなかで訴訟を起こされ、弁護士・レーニとのつながりのなかで訴訟を起こす者であり、ティトレリと小さな娘たちとのつながりにおいて芸術家である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.174」法政大学出版局)

「一般的な機能は社会的でもあり、またこれと不可分な状態でエロチックでもあって、これ以上にうまく言うことはできない。すなわち、機能的なものは同時に官吏であり、欲求である。他方、一般的な機能のそれぞれのセリーにおいて、分身が重要な役割を演じているのは事実であるが、それは二つの主体の問題に対する出発点もしくは最終的な敬意としてである。この問題はすでに克服されたのであり、Kはおのれを分身させることなしに、また分身に依存する必要もなしに、おのれ自身で増殖する。また個人が引き受ける一般的な機能としてのKよりも、《孤立している個人をその部分とする、多義的な鎖列の機能性》としてのKの方が重要であり、また、別の歯車に接近する集団性が重要である。ただしそのばあい、この鎖列が何であるのか、ファシズム的か、革命的か、社会主義的か、資本主義的か、あるいは最も嫌うべき仕方か悪魔的な仕方で結合した、それらの同時に二つのものであるのか、まだわからない。それはわからないことであるが、ひとびとはこれらすべての点についてかならず了解するのであり、またカフカはそれを了解するようにとわれわれに教えたのである」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.174~175」法政大学出版局)

ところで次の文章は大変重要な意味で「ユダヤ的」な何ものかを語ってはいないだろうか。

「それでは、黒く悲しげな眼をした若い女はどういうタイプなのか。彼女たちは、しどけなくくびのあたりをあらわにしている。彼女たちはあなたに呼びかけ、あなたに身をすり寄せ、あなたのひざに坐り、あなたの手を取り、あなたを愛撫し、また愛撫され、あなたを抱き、あなたに歯形を残し、あるいは反対にあなたの歯形を残し、あなたを暴行し、あなたに暴行され、ときにはあなたを押さえつけ、あなたを殴りさえし、暴君的である。しかし彼女たちは、あなたが立ち去るままにしており、あるいはあなたを立ち去らせさえし、あなたを永久にほかの場所へ送ることによって、あなたを追い払う。レーニは、動物への名残りとして、水かきのある指を持っている。しかし彼女たちは、もっと特殊な混交を示している。つまり彼女たちは、一部は姉妹であり、一部は女中であり、一部は娼婦である。彼女たちは、結婚生活・家庭生活に反対であって、そのことはすでにカフカの物語に見えている」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.131~132」法政大学出版局)

「異質性/そそる女/エロティック/貨幣」。「ユダヤ的」な何ものか。一挙に結合したり逆に一挙に分解したりする力を持っており、それ自体が力であり欲求である何か。マルクスから引こう。

「ユダヤ人の実際の政治力と彼の政治的権利とのあいだの矛盾は、政治と金力一般とのあいだの矛盾である。理念的には政治は金力に優越しているが、事実上では政治は金力の奴隷となっているのである。ユダヤ教はキリスト教と《並んで》存続してきたが、それはたんにキリスト教への宗教的批判、キリスト教の宗教的由来に対する疑問の体現としてだけではない。それはまた実際的なユダヤ的精神、ユダヤ教がキリスト教社会そのもののうちに存続し、しかもこの社会のなかで最高の完成をとげたためでもある。市民社会のなかでの特殊な一成員という立場にあるユダヤ人は、市民社会のユダヤ教の特殊な現象であるにすぎないのだ。ユダヤ教は、歴史にもかかわらず存続したのではなく、かえって歴史によって存続したのである。市民社会はそれ自身の内蔵から、たえずユダヤ人を生みだすのだ。もともとユダヤ教の基礎となっているものは何であったか。実際的な欲求、利己主義である。それゆえユダヤ人の一神教は、現実においては多数の欲求の多神教であり、便所に行くことさえも神の律法とするような多神教である。《実際的な欲求、利己主義》は《市民社会》の原理なのであり、市民社会が自分のなかから政治的国家をすっかり外へ生みだしてしまうやいなや、純粋にそういう原理として現われてくる。《実際的な欲求と利己》との神は《貨幣》である。貨幣はイスラエルの嫉み深い神であって、その前にはどんな他の神も存在することが許されない。貨幣は人間のあらゆる神々をおとしめ、それらを商品に変える。貨幣はあらゆる事物の普遍的な、それ自身のために構成された《価値》である。だからそれは全世界から、つまり人間界からも自然からも、それらに固有の価値を奪ってしまった。貨幣は、人間の労働と人間の現存在とが人間から疎外されたものであり、この疎遠な存在が人間を支配し、人間はそれを礼拝するのである。ユダヤ人の神は現世的なものとなり、現世の神となった。手形がユダヤ人の現実的な神である。彼らの神は幻想的な手形にほかならない」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」・「ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.61~63」岩波文庫)

ポスト冷戦後、誇大妄想というほかない「新世界秩序構想」時代がやってきた。が、予想通り、EUの瓦解と同時にアメリカの新保護主義への転換という、資本主義体制には歴史的にありがちな「ジグザグ」コースの時期が訪れた。「新世界秩序構想」はその言葉通りユートピアのまま崩壊した。ただ、世界的規模で、比較的若年層の多くに共通した態度が見受けられるようになった。地域/宗教/体制を問わない。どこへ行っても大変多く見られる。世界の若年層の共通点、とはいえ、時折ではあるが耳にすることもあるに違いない。「醒めた/白けた/シニカルな(冷笑的)」態度。時に冷やかに見える場合があり、時に無邪気でもある。大人かと思えば子供にも見える。年齢だけを見れば確かに子供なのだが考え方は妙に大人びている。つい数年前までは通用していたかもしれない選挙対策や経済政策など、彼ら彼女らにとっては何の役にも立たないか、まったくと言っていいほど響かない。カフカは生前、「城」の中で、そういう少年にハンスというごくありふれた名前を与えて登場させた。ドゥルーズ&ガタリも言及しているが。

「ハンスの説明によると、女教師が猫の爪でKの手を引っかいてみみずばれができたのを見て、そのときKの味方をしようと決心したのだという。それで、いま、きびしい罰を受ける覚悟のうえでとなりの教室から脱走兵のようにこっそり抜けてきたのだった。彼の頭を支配しているのは、なによりもこのようないかにも男の子らしい義侠心(ぎきょうしん)であるらしかった。彼の動作からうかがわれるまじめさも、それに相応して男の子らしかった」(カフカ「城・P.239」新潮文庫)

「ハンスは、母親の話をさせられることになってしまったのだが、ひどくためらいながら、なんども催促されたあげくにやっと話しだした。その話しぶりからわかったことだが、ハンスはまだまるっきり子供にすぎないくせに、ときおり、特に彼が質問をする場合にはそうなのだが(これは、彼の質問が未来を予感しているためだったかもしれないが、あるいは、不安な気持で緊張している聞き手の錯覚のせいにすぎないのかもしれなかった)、ほとんど精力的な、聡明(そうめい)な、見通しのきく大人が話をしているのではないかとおもえるところがあった。しかも、すぐまたいきなり一介の小学生に戻ってしまって、質問の意味が理解できなかったり、子供らしく相手のことなどおかまいなしにひどく小声になったり、しまいにあまりにも立ち入った質問にたいしては強情っぱりのように完全におしだまってしまったりするのだった。しかも、こういうとき大人だったら当惑するのだが、当惑の様子などまるで見られなかった。大体、彼は、質問がゆるされているのは自分だけで、彼以外の者が質問するのは規則の違犯か、時間の浪費にすぎないとでも考えているようなふしがあった」(カフカ「城・P.240~241」新潮文庫)


自由律俳句──二〇一七年二月二十二日(2)

2017年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

カフカ読解。小説本文から幾つか、たった今補足しておきたい。理由は至って単純。次の部分は特に重要というわけではないが、読解の都合上、続けて読み通したほうが良いと思われるから、というに過ぎない。

「『測量師さん、測量師さん!』と、だれかが路地から呼ぶ声がした。バルナバスだった。彼は、息を切らしてやってきたが、忘れずにKのまえでお辞儀をした。『成功したんです』と、バルナバスは言った。『なにが成功したんだ』と、Kは、たずねた。『おれの請願をクラムに伝えてくれたかね』『それは、だめでした。ずいぶん骨を折ったのですが、うまくやれませんでした。わたしはまえのほうにでしゃばって、呼ばれもしないのに一日中机のすぐそばに立っていました。一度などは、わたしのために光をさえぎられた書記に押しのけられたほどです。そして、これは禁じられていることなのですが、クラムが顔をあげるたびに、手をあげて自分のいることをしめしました。わたしは、いちばんおそくまで官房に残っていて、とうとうわたしと従僕たちとだけになってしまいました。うれしいことに、クラムがもう一度戻ってくるのが見えたのですが、わたしのために引返してきたのではありませんでした。ある本でなにかを急いで調べようとしただけのことで、すぐまた出ていってしまいました。わたしがいつまでも動かないものですから、しまいに従僕が箒(ほうき)で掃きださんばかりにして、わたしをドアの外に追いだしました。こうなにもかも申しあげるのは、あなたが二度とわたしの仕事ぶりに不満をお持ちにならないようにとおもってのことです』『バルナバス』と、Kは言った。『きみがどんなに熱心でも、それがちっとも成果をあげないのだったら、おれにとってなんの役にたつだろうか』」(カフカ「城・P.394~395」新潮文庫)

「『でも、成果があったのです。わたしがわたしの官房──ええ、わたしの官房と呼んでいるんです──から出ますと、ずっと奥のほうの回廊からひとりの紳士がゆっくりこちらへやってくるのが見えるではありませんか。ほかにはもう人影もありませんでした。ずいぶんおそい時刻でしたからね。わたしは、その人を待つことに決めました。まだそこに残っているちょうどよい機会でした。わたしは、あなたによくない知らせをもって帰らなくてもよいように、ずっと残っていたかったのです。しかし、そうでなくても、その人を待っていただけの甲斐(かい)がありました。その人は、エルランガーだったのです。ご存じありませんか。クラムの第一秘書のひとりです。弱々しそうな、小柄な人で、すこしびっこを引いています。すぐにわたしだということをわかってくれました。抜群の記憶力とひろい世間知とで音にきこえた人なのです。ちょっと眉(まゆ)を寄せさえすれば、それだけでだれでも見わけてしまうのです。一度も会ったことがなく、どこかで聞いたか読んだかしただけの人たちでも見わけてしまうことがあります。たとえば、このわたしだって、それまで会ったことはまずなかったとおもいます。しかし、どんな相手でもすぐに見わけるのですが、まるで自信がなさそうに、初めにまずたずねてみるのです。それで、わたしにむかって、<バルナバスじゃないかね>と言いました。それから、<きみは、測量師を知っているね>とたずね、さらに言葉をつづけて、<ちょうどよかったよ。わたしは、これから縉紳館へ出かける。測量師にあそこへわたしを訪(たず)ねてきてもらいたいんだ。わたしの部屋は、十五号室だ。しかし、測量師は、すぐに来てくれなくてはならない。わたしは、あちらで二、三の相談ごとがあるだけで、朝の五時には城へ帰る。ぜひとも測量師と話をしたいことがあるのだ、と伝えてくれたまえ>と言うんです』」(カフカ「城・P.395~396」新潮文庫)

「いきなりイェレミーアスが駆けだした。これまで興奮のあまりイェレミーアスにほとんど注意をはらっていなかったバルナバスは、『あいつ、どこへ行こうというんでしょう』『おれより先にエルランガーに会おうってことさ』Kは、そう言うなり、イェレミーアスのあとを追いかけ、彼をつかまえると、その腕にぶらさがった。『突然フリーダに会いたくてたまらなくなったのかね。それだったら、おれもおなじことだ。さあ、歩調をそろえて歩こうぜ』」(カフカ「城・P.396」新潮文庫)

「『なにもかも抜け目なく手を打ったものだね。ただ、きみは、一度ぼくのために酒場から出ていった人間だよ。だのに、もうすぐ結婚式をあげようというときになって、ここへまた舞いもどるのかい』『結婚式なんかあるものですか』『ぼくが裏切ったからというのかね』フリーダはうなずいた」(カフカ「城・P.405」新潮文庫)

「『ねえ、フリーダ、きみは裏切りだなどと言うが、このことは、まえにも何度も話しあったことで、きみもいつも最後には、まちがった邪推であることをみとめざるをえなかったじゃないか。それ以後、ぼくのほうにはなにも変ったことはない。なにもかもきれいなものだ。これまでもそうだったし、これからも変りようがないだろう。だから、きみのほうになにか変ったことがあったにちがいないし。だれかにそそのかされたか、なにかしてね。いずれにせよ、裏切ったとか、不誠実だったとかいうのは、いわれのない非難だよ。だって、あのふたりの娘ってなんだい。色の黒いほうの娘──いや、こんなふうに逐一弁解しなくてはならないなんて、恥ずかしいくらいだよ。しかし、きみの要求だからね。とにかく、あの色の黒い娘は、おそらくきみにとってとおなじくらい、ぼくにとっても虫の好かない女だね。なんとかして離れておれるものなら、あの娘には近づきたくないものだ。もっとも、あの子のほうでも、それを助けてくれるがね。あの子ほどでしゃばらない、慎みぶかい人間はいないからね』」(カフカ「城・P.405~406」新潮文庫)

「『そうですわ』と、フリーダは、叫んだ。言葉が、彼女の意に反してとびだしてきたのである。Kは、彼女がこんなふうに考えかたを変えたのを見て、喜んだ。彼女は、自分が口に出そうとおもったのとはちがったことを言っているのだった。『あなたがあの娘を慎みぶかいとおっしゃるのは、勝手ですわ。あなたは、あらゆる女のなかでいちばん恥知らずのあの娘を慎みぶかいとおっしゃるのね。しかも、信じられないことだけど、正直にそう考えていらっしゃる。あなたが白っぱくれていらっしゃるのでないことは、わたしにもわかっているわ。橋屋のお内儀(かみ)も、あなたのことをこう言っていましたわ。<わたしは、あの人を好かないけれど、かといって見すててしまうこともできない。まだろくに歩けもしないのにとっとと先へ進みたがる小さな子供を見ると、たまらなくなってつい手を出さざるをえないものだわ>とね』」(カフカ「城・P.406」新潮文庫)

「『やめて、もうたくさんよ』と、フリーダは言って、イェレミーアスの腕を引っぱった。『この人は、熱にうなされて、自分の言っていることもわからないんですわ。でも、K、あなたはいらっしゃらないで。お願いします。あれは、わたしとイェレミーアスとの部屋ですのよ。というよりか、むしろわたしだけの部屋です。あなたがおいでになることを、わたしがお断りします。あら、K、ついていらっしゃるわね。どういう理由があってついていらっしゃるの。わたしは、もうけっしてあなたのところになんか帰りませんよ。そんなことを考えただけでも、身ぶるいしますわ。さあ、あなたの娘さんたちのところへ行ってらっしゃい。あのズベ公たちは、ストーヴのそばの長椅子にシャツを着たきりであなたとならんで腰をかけているって聞きましたわ。それに、あなたを迎えにいくと、猫のようなうなり声を吹っかけるんですってね。あの娘たちに惹(ひ)かれていらっしゃるんですから、あそこなら居心地がいいでしょう。わたしは、あそこへ行かないようにいつもあなたを引きとめました。あまり成功はしませんでしたが、何度も引きとめました。それも、もう過ぎたことです。あなたは、自由の身です。すてきな生活があなたを待っていますわ』」(カフカ「城・P.419」新潮文庫)

「『どうしてもっと早く来なかったのですか』と、エルランガーは言った。Kは、言いわけをしようとした。が、エルランガーは、疲れたように眼をとじて、言いわけは結構という合図をした。『あなたにお伝えしておかなくてはならんことは、つぎのことです。この家の酒場に、もとフリーダとかいう女が務めていた。わたしは、名前しか知らず、本人に会ったことはありません。わたしに関係ないことですからね。このフリーダは、ときおりクラムにビールの給仕などをしておったようです。いまは、別の娘が酒場にいるようです。もちろん、こんな異動なんか、どうだってよいことです。おそらくだれにとってもそうでしょうが、クラムにとっては、確かに問題にもならんことにちがいありません。しかしですね、仕事が大きくなればなるほど(もちろん、クラムの仕事は、いちばん大きいのですが、)外部にたいして身を守る力が、それだけすくなくなる道理です。その結果、どんなに些細(ささい)な事柄の、どんなに些細な変更にでもこころを乱されることになります。たとえば、机の上の様子がちょっと変ったとか、まえからそこにあった汚点(しみ)が消されたとか、そういうことにでも気持が乱されます。給仕女が交替したということでもそうです。もちろん、ほかの人やほかの仕事の場合ならいざしらず、クラムは、こんなことぐらいでは気持を乱されません。そういうことは、問題にもなりません。にもかかわらず、わたしたちは、クラムができるだけ気持よく仕事に専念できるように見張っていなくてはならない義務があるのでして、クラムにとってはなんの障害にもならないようなことであっても──おそらくクラムにとっては、この世に障害なんて存在しないでしょうが──障害になるかもしれないとおもえば、これを除去するのです。わたしたちがこのような障害をとりのぞくのは、クラムやクラムの仕事のためではなく、わたしたち自身のため、わたしたちの良心の安らぎのためです。ですから、フリーダという女は、即刻酒場に戻らなくてはならないのです。酒場に戻ったら戻ったでまた障害になるかもしれませんが、そのときはまた出ていってもらうまでです。しかし、いまさしあたっては、どうしても戻る必要があります。わたしが聞いたところでは、あなたは、この女と同棲(どうせい)しているそうですね。だったら、この女がすぐに戻れるようにしてください。この際、個人的な感情なんかは、斟酌(しんしゃく)するわけにはいきません。あたりまえの話ですよ。だから、この件についてこれ以上すこしでも議論をすることはお断りします。これはもうよけいなお節介になるかもしれませんが、念のために申しあげておきますと、こういう小さなことででもあなたが見あげた人だということになれば、ときとしてあなたの今後の生活にも役だつことがあるかもしれませんよ。あなたにお伝えしなくてはならないことは、これだけです』エルランガーは、別れの挨拶(あいさつ)がわりにKにうなづいてみせ、従僕から渡された帽子をかぶると、急いで、といっても、すこしびっこを引きながら、廊下を遠ざかっていった」(カフカ「城・P.444~445」新潮文庫)

「廊下そのものには、まだだれの姿も見えなかったが、各部屋のドアは、すでに動きはじめていて、何度もすこしあけられたかとおもうと、すぐまた急いでしめられるのだった。こうしてドアを開閉する音が、廊下じゅうにかまびすしかった。天井(てんじょう)にまで達していない壁の切れ目のところに、ときどき寝起きするらしく髪を乱した顔があらわれてはすぐ消えるのが見えた。遠くのほうからひとりの従僕が、書類を積んだ小さな車をゆっくりと押してきた。もうひとりの従僕が、そばについていて、手に一枚の表をもっていた。あきらかにドアの番号と書類の番号とを突き合わせているらしかった。書類車は、たいていのドアのまえでとまった。すると、たいていのドアがひとりでに開かれて、しかるべき書類が室内に手渡されるのだった。書類は、紙きれ一枚のこともあったが、こういうときは、室内と廊下とのあいだにちょっとしたやりとりがあった。それは、従僕のほうが文句をつけられているのであるらしかった。こういう場合、近所の部屋は、すでに書類が配達されているのに、ドアの動きがすくなくなるどころか、かえってはげしくなるようにおもわれた」(カフカ「城・P.447」新潮文庫)

「ほかの連中は、不可解なことにこうしてドアのまえに積みあげられたままになっている書類の束をものほしげな眼でのぞいているのかもしれない。ドアをあけさえすれば書類を受けとれるのに、どうしてそうしないのか、解しかねているらしい。書類がいつまでも積んだままにしてあると、あとでほかの連中に分配されるというようなこともあるのではなかろうか。それで、いまからしきりに様子をのぞいては、書類がまだドアのまえにあるかどうか、したがって、まだ自分にも希望があるかどうかを、確かめようというわけなのだろう。おまけに、置いたままになっている書類は、たいてい特別に大きな束だった。これは、ある種の自慢か悪意から、あるいは、同僚を鼓舞しようという正当な自負もあって、しばらくのあいだ置きっぱなしにしているのだろう、とKは考えた。Kにこの仮定をさらに確信させたのは、ときおり(それは、きまってKが見ていないときなのだが)もうたっぷりと見せびらかしたこの書類が突然、しかも、すばやく部屋のなかに引入れられ、それっきりドアはもとのように微動だにしなくなってしまうことであった。すると、周囲のドアも、静かになるのであった。絶えざる魅惑の的であったものがついに片づけられたことにがっかりしたのであろう。それとも、満足したのかもしれない。しかし、ドアは、やがてまた徐々に活動をはじめた」(カフカ「城・P.447~448」新潮文庫)

「Kが彼の事務室と中央階段をへだてる廊下を通りかかると──この日は彼が最後まで居残り、ほかには発送部で二人の小使が電球の小さな光の輪のなかで働いているだけだった──あるドアのかげからうめき声がきこえてきた。のぞいてみたことはないがいままで漠然(ばくぜん)と物置小屋と思っていたところだった。彼はびっくりして立止り、聞き違えではないかどうか確かめるためもう一度耳を澄ました──しばらく静かだった、それからしかしふたたびうめき声がした。──はじめ彼はひょっとして証人が必要になるかもしれぬと思い小使の一人を呼ぼうとしかけたが、抑えがたい好奇心に駆られてすぐドアをあけてしまった思っていたとおりそこは物置小屋だった。いらなくなった古い印刷物や、ひっくりかえった空の陶製インク瓶(びん)が入口のうしろに積まれていた。部屋のなかには、天井が低いのでかがみこんで、三人の男がいた。棚(たな)に固定されたロウソクがかれらを照らしていた。『きみたちそんなとこで何してるんだ』。興奮のあまりあわてて、しかし声を抑えてKは訊ねた。最初に目をひいたのは明らかに他の者を牛耳っている一人の男で、そいつは一種の黒い革服を着て首から胸許(むなもと)までと両の腕をむきだしにしていた。彼は返事をしなかった。しかし他の二人が叫んだ。『あんた!あんたが予審判事におれたちの苦情を言ったりしたもんだから、こうして笞(むち)で打たれる羽目になったんだよ』。言われてようやくKは二人が本当に監視人のフランツとヴィレムで、第三の男がかれらを打つために笞を手にしているのに気がついた。『いや』、Kは言ってかれらを見つめた、『苦情を言ったわけじゃない、ぼくの部屋で起ったことを話しただけだ。それにきみたちだって非の打ちどころのない振舞いばかりしてたわけじゃないだろう』」(カフカ「審判・P.116~117」新潮文庫)

「『おれたちが罰をうけるのはあんた訴えたりしたためなんだ。そんなのが正義だなんて言えるかね?おれたちふたり、なかんずくおれは監視人として長いこと立派にやってきた──あんただって役所の観点に立てばおれたちがよく監視したってことを認めなければなるまい──昇進する見込みだってあったわけだし、だからあんなことさえなけりゃこいつみたいにまもなく笞刑吏にだってなれたはずなんだ。こいつときたらまったく運のいいやつでだれからも告発されたことがなかった、実際またあんな告発なんてめったに起るものじゃないんだがね。だがこうなっては万事休す、おれたちの人生ももおしまいだ、これからは監視人なぞよりもっと下(した)っ端(ぱ)の仕事をやらされることだろう、しかもそのうえいまこのおっそろしく痛い笞をくらってさ』。『笞ってそんなに痛いのかね?』Kは言って、笞刑吏が目の前で振っている笞をとっくり目でたしかめた。『いずれ素っ裸にひんむかれることになるのさ』、ヴィレムが言った。『そういうことか』、Kは言ってしげしげと笞刑吏を見つめた。船乗りのように陽灼(ひや)けした、野性的で生きのいい顔立ちの男だった。『二人の笞打ちを免じてやる可能性はないのかね』、彼は男にきいてみた。『ないとも』、と笞刑吏はうすら笑いを浮かべながら顔をふった」(カフカ「審判・P.118~119」新潮文庫)

「『かれらを放してくれればたっぷり礼をはずむがね』。Kは言って、あらためて笞刑吏の顔は見ずに──というのは、こういった取引はたがいに目を伏せたままするのに限るから──そっと財布をとりだした。『そうやっておいてあんたは』、と笞刑吏は言った、『大方こんどはおれを告発して、おれにも笞をくらわせようというんだろう。だめだ、だめだ!』『冷静に考えてくれ』、とKは言った、『もしこの二人が罰せられるのをぼくがのぞんだんだったら、いまさら金を出して放してやろうとするわけがないじゃないか。あっさりドアを閉めて、これ以上何も見ない聞かないでさっさと帰ってしまえばすむことだ。ところがそうはしないで本気でかれらを逃がしてやることを考えている。もしかれらが罰せされることになる、罰せられるかもしれぬと気づいていたら、ぼくは決してかれらの名を言ったりしたかったろうね。というのはぼくはかれらに罪があるとは思っていないんだから。罪があるのは組織だよ、上の役人たちにこそ罪があるんだ』。『そのとおりだ!』、と監視人たちは叫んで、すでに裸になった背中にたちまち一撃をくらった」(カフカ「審判・P.119~120」新潮文庫)

「監視人フランツはそれまでたぶんKの口出しがいい結果を生むと期待してだろう、かなり控え目にしていたのだったが、いまやズボン一つという恰好(かっこう)のまま戸口までにじり寄り、跪(ひざまず)いてKの腕にすがりついたままささやいた。『二人いっぺんに救いだすことができないんだったら、せめておれだけでも逃がすようやってみてくれないか。ヴィレムはおれより年上だし、どんな点でもおれより鈍い、それにやつは二、三年前にも軽い笞刑をくらったことがあるんだ、おれはまだそんな不面目な目に会ってないし、なにをするにしろみなヴィレムに言われるとおりにしただけで、良きにつけ悪(あ)しきにつけ先生株はあいつなんです。下の銀行の前で婚約者が成行きいかんと待ってるというのに、これじゃみじめすぎて恥ずかしいよ』。こう言ってかれはKの下着で涙に濡(ぬ)れた顔を拭(ふ)いた。『これ以上待てんぞ』、と言うなり笞刑吏は笞を両手でつかんでフランツに打ちおろした。ヴィレムのほうは隅(すみ)っこにうずくまったまま顔を向けることさえできずにこっそり様子をうかがっている。フランツの発した叫びが上った。切れ目もなく変化もなく、とても人間の喉から出たものとは思えぬ、拷問(ごうもん)にかかった楽器からでも出たような叫びであった。声は廊下じゅうにびびいた。建物全体にきこえたに違いなかった」(カフカ「審判・P.121」新潮文庫)

「『わめくな』、とKは自分を抑えきれずに声をあげ、小使がやってきそうな方角を緊張して見守りながらフランツをついた。強くではないが正気を失った男を倒すには充分だったらしく、フランツは倒れ痙攣(けいれん)しながら床を両手でかきむしった。だがそれでも打擲(ちょうちゃく)を免れるわけにはいかないで笞は倒れた男を狙(ねら)い、ころげまわるあいだも苔の尖端(せんたん)が規則正しく振りあげられ振りおろされた。すでに遠くに小使の一人が姿を現わし、二、三歩遅れて二番目のが現れた。Kはすばやくドアを閉め中庭に面した窓に歩みよってその一つを開けた。叫びは完全に聞こえなくなっていた。小使たちを近づけまいとして彼は叫んだ。『わたしだよ!』『今晩は主任さん』、とむこうでも叫び返した、『何かあったんですか?』『いやなにも。中庭で犬が吠(ほ)えただけだ』、とKは答えた。それでも小使が動こうとしなかったのでさらにつけ加えた、『きみたちは仕事をしていていいんだよ』。それ以上小使との話に巻込まれまいとして彼は窓から身をのりだした。しばらくして廊下に目をやるとかれらはすでに消えていた。Kはしかしなお窓ぎわにとどまっていた。物置部屋にゆく勇気もなかったし家へ帰る気にもなれなかった。目の下にあるのは小さな四角い中庭だった。まわりにはずらっと事務室が並んでいるがどの窓ももう真暗で、最上階の窓にだけ月がうつっていた。Kは目をこらして中庭の隅の暗がりを見つめ、そこに数台の手押車が乱雑に置かれているのを認めた。笞打ちをやめさせられなかったことが彼を苦しめたが、成功しなかったのは彼の責任ではなかった。もしフランツが悲鳴をあげさえしなかったら──なるほどたしかに痛くはあったろう、しかしひとには我慢しなければならぬ決定的瞬間というものがあるのだ──やつが悲鳴をあげさえしなければおれにはまだ笞刑吏を説得する手段が見つけだせていたはずだ。少くともその可能性は大いにあった。下級役人階級全体が雲助だとしたら、なかで最も非人間的な役目を持った笞刑吏だけがなぜその例外であるはずがあろう。紙幣を見せたとき彼の目が輝いたのは充分に見てとれた。彼が笞打ちに精出し始めたのは明らかに賄賂(わいろ)の額を少しでもつりあげるためだったのだ。おれは本気で監視人たちを逃がしてやろうと思っていたのだから、金惜みするはずはなかった。すでにこの裁判組織の腐敗との戦いを始めてしまった以上、こういったことにも手を染めるのは当り前なのだ。が、フランツが悲鳴をあげ始めたあの瞬間に、当然ながらすべて終ってしまった。小使やひょっとしてそのほかの連中までがやってきて、おれが物置部屋の連中とかけあっているところをのぞかせるわけにはいかないではないか。それほどの犠牲をだれだっておれに要求する権利はない。おれだってもしそれまでにするつもりがあったら、自分から裸になって監視人の身替りになると笞刑吏に申し出たほうが事はもっと簡単だったのだ。とはいえ、この身替りを笞刑吏はきっと受入れなかったに違いない。そんなことをしても何の利得にもならないばかりか、彼の義務をひどく損う、そう、たぶん二重に損う結果になっただろうからだ。なぜといっておれが訴訟中であるかぎり、裁判所のすべての吏員にとっておれは損ってはならぬ者だからだ。むろんこの場合には特別の規定が適用されたかもしれなかったが。いずれにしろおれにはドアを閉める以外には手がなかったのだ、むろんそうしたからといって今だって自分が危険を完全に免れたわけではないのだが」(カフカ「審判・P.121~123」新潮文庫)

「翌日になっても監視人のことはKの念頭を去らなかった。仕事中も気が散っていたので、それを片付けるために前の日よりも遅くまで事務室に残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかったとき、習慣になったように彼はそこを開けた。真暗なはずと思いこんでいたから、そこに現れた光景には我を失った。何一つ変っていなかったのだ。すべてが前の晩彼がドアをあけて見たときのままだった、入口のすぐうしろには印刷物とインク瓶、笞を持った笞刑吏、完全にひん剥(む)かれたままの監視人、棚の上のロウソク。そして監視人たちはすぐさま訴え叫び始めた、『よう、頼むよ!』Kはあわててドアをしめ、そうすればもっとよく締まるというようにさらに拳(こぶし)でその上を叩(たた)いた」(カフカ「審判・P.124~125」新潮文庫)


自由律俳句──二〇一七年二月二十二日(1)

2017年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年二月二十二日作。

(1)すべての女児を米軍が廃村

(2)母はカルト娘はソープようやく並の国

(3)出かければ維持費が水だけ

(4)甘過ぎる演歌を止める

(5)早くカジノを貧困が鍛えた待機なでしこ

(6)あわてても一日

☞「『余(あんま)りだわ』と云う声が手帛の中で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅過ぎたと云う事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であった。彼は涙と涙の間をぽつぽつ綴る三千代のことの一語を聞くに堪えなかった。『僕は三、四年前に、貴方にそう打ち明けなければならなかったのです』と云って、憮然(ぶぜん)として口を閉じた。三千代は急に手帛から顔を離した。瞼(まぶた)の赤くなった眼を突然代助の上に睜(みは)って、『打ち明けて下さらなくっても可いから、何故』と云い掛けて、一寸躊躇(ちゅうちょ)したが、思い切って、『何故棄ててしまったんです』と云うや否や、又手帛(ハンケチ)を顔に当てて又泣いた。『僕が悪い。堪忍して下さい』代助は三千代の手頸(てくび)を執って、手帛を顔から離そうとした。三千代は逆おうともしなかった。手帛は膝(ひざ)の上に落ちた。三千代はその膝の上を見たまま、微(かす)なか声で、『残酷だわ』と云った。小さい口元の肉があが顫う様に動いた。『残酷と云われても仕方がありません。その代り僕はそれだけの罰を受けています』三千代は不思議な顔をして顔を上げたが、『どうして』と聞いた。『貴方が結婚して三年になるが、僕はまだ独身でいます』『だって、それは貴方の御勝手じゃありませんか』『勝手じゃありません。貰おうと思っても、貰えないのです。それから以後、宅(うち)のものから何遍結婚を勧められたか分りません。けれども、みんな断ってしまいました。今度もまた一人断りました。その結果僕と僕の父との間がどうなるか分りません。然しどうなっても構わない、断るんです。貴方が僕に復讐(ふくしゅう)している間は断らなければならないんです』」(夏目漱石「それから・P.236~237」新潮文庫)

「『復讐』と三千代は云った。この二字を恐るるものの如くに眼を働かした。『私(わたくし)はこれでも、嫁に行ってから、今日まで一日も早く、貴方が御結婚なされば可(よ)いと思わないで暮らした事はありません』と稍(やや)改たまった物の言い振であった。然し代助はそれに耳を貸さなかった。『いや僕は貴方に何処までも復讐して貰いたいのです。それが本望なのです。今日こうやって、貴方を呼んで、わざわざ自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されている一部分としか思やしません。僕はこれで社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はそう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔(ざんげ)する事が出来れば、それで沢山なんです。これ程嬉しい事はないと思っているんです』三千代は涙の中で始て笑った。けれども一言も口へは出さなかった。代助は猶(なお)己れを語る隙(ひま)を得た。──『僕は今更こんな事を貴方に云うのは、残酷だと承知しています。それが貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。その上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きている事が出来なくなった。つまり我儘(わがまま)です。だから詫(あやま)るんです』『残酷では御座いません。だから詫まるのはもう廃(よ)して頂戴』」(夏目漱石「それから・P.237~238」新潮文庫)

「三千代の調子は、この時急に判然(はっきり)した。沈んではいたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又『ただ、もう少し早く云って下さると』云い掛けて涙ぐんだ。代助はその時こう聞いた。──『じゃ僕が生涯黙っていた方が、貴方には幸福だったんですか』『そうじゃないのよ』と三千代は力を籠(こ)めて打ち消した。『私だって、貴方がそう云って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ』今度は代助の方が微笑した。『それじゃ構わないでしょう』『構わないより難有(ありがた)いわ。ただ──』『ただ平岡には済まないと云うんでしょう』三千代は不安らしく首肯(うなず)いた。代助はこう聞いた。──『三千代さん、正直に云って御覧。貴方は平岡を愛しているんですか』三千代は答えなかった。見るうちに、顔の色が蒼(あお)くなった。眼も口も固くなった。凡てが苦痛の表情であった。代助は又聞いた。『では、平岡は貴方を愛しているんですか』三千代はやはり俯(う)つ向いていた。代助は思い切った判断を、自分の質問の上に与えようとして、既にその言葉が口まで出掛った時、三千代は不意に顔を上げた。その顔には今見た不安も苦痛も殆ど消えていた。涙さえ大抵は乾いた。頬の色は固(もと)より蒼かったが、唇は確(しか)として、動く気色はなかった。その間から、低く重い言葉が、繋(つな)がらない様に、一字ずつ出た。『仕様がない。覚悟を極めましょう』代助は背中から水を被(かぶ)った様に顫えた。社会から逐い放たるべき二人の魂は、ただ二人対(むか)い合って、互いを穴の明くほど眺めていた。そうして、凡てに逆(さから)って、互を一所に持ち来たした力を互と怖(おそ)れ戦(おのの)いた」(夏目漱石「それから・P.238~239」新潮文庫)

「しばらくすると、三千代は急に物に襲われた様に、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く様(さま)を見るに忍びなかった。肱(ひじ)を突いて額を五指の裏に隠した。二人はこの態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、凝(じっ)としていた。二人はこう凝としている中(うち)に、五十年を眼(ま)のあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。そうしてその緊張と共に、二人が相並んで存在しておると云う自覚を失わなかった。彼等は愛の刑と愛の賚(たまもの)とを同時に享(う)けて、同時に双方を切実に味わった」(夏目漱石「それから・P.239~240」新潮文庫)

「彼は永らく手に持っていた賽(さい)を思い切って投げた人の決心を以(もつ)て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になったと自覚した。しかもそれは自ら進んで求めた責任に違いなかった。従って、それを自分の脊(せ)に負うて、苦しいとは思えなかった。その重みに押されるがため、却(かえ)って自然と足が前に出る様な気がした。彼は自ら切り開いたこの運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整えた。父の後には兄がいた、嫂(あによめ)がいた。これ等と戦った後には平岡がいた。これ等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫(ごう)も斟酌(しんしゃく)してくれない器械のような社会があった。代助にはこの社会が今全然暗黒に見えた」(夏目漱石「それから・P.247」新潮文庫)

「最後に彼の周囲を人間のあらん限り包む社会に対しては、彼は何の考も纏(まと)めなかった。事実として、社会は制裁の権を有していた」(夏目漱石「それから・P.245」新潮文庫)

「彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体を具(そな)えて現われて来なかった。彼は今日まで如何なる職業にも興味を有(も)っていなかった結果として、如何なる職業を想い浮かべてみても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。彼には世間が平たい複雑な色分(いろわけ)の如くに見えた。そうして彼自身は何等の色を帯びていないとしか考えられなかった。凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった」(夏目漱石「それから・P.254~255」新潮文庫)

「漂泊者」。ただ単なる失業者のことを指していると考える読者は今さらいないに違いない。「ユダヤ人」あるいは「国境を越えていく者」。貨幣/知性/欲望。差し当たりアウシュヴィッツの被害者が代表的存在とされてはいるものの、しかし実際にガス室送りにされ、とっとと虐殺されていったユダヤ人は特に「中小の商店主とその家族」・さらに多くは「低所得者層に限って」、であった。当時の欧米の資本主義的生産様式を動かしていたのは、特権的地位を独占しているユダヤ系大資本であり、それ抜きに世界は回転することができなかった。ゆえにナチス・ドイツ支持者はユダヤ人全滅をスローガンに掲げながら、その実、絶滅収容所送りにされたのはすべてのユダヤ人ではない。ユダヤ人ではあっても大資本家とその周辺はむしろナチス・ドイツと提携関係してほんの僅かの資金提供さえすれば容易に賞讃されるといった戯け切った政治がドイツ全土に吹き荒れた。殺害対象はユダヤ人低所得者層に集中された。さらに人種の分類にはまったく関係なく、ありとあらゆる共産主義者とその支持者も同様にいきなり逮捕され絶滅収容所へ送り込まれ監禁・拷問され、なかなか口を割らない猛者は当然虐殺され、口を割れば殺されなくても済まされるのではと考えた者もあっけなく虐殺された。

しかしなぜそのような社会が日常化したか。鉄の意志を持つ哲学者にして音楽家であるアドルノの言葉は今なお重い。

「ボルシェヴィズムに金を出す強欲なユダヤ人銀行家の陰謀という妄想は、彼らの生れつきの無力さの徴しであり、優雅な暮しは幸福の徴しである。これにさらにインテリのイメージがつけ加わる。インテリは他の人々には恵まれていない高尚なことを考えているように見え、しかし汗水流して苦労し体を使って働くことはない。銀行家とインテリ、貨幣と知性、この二つは流通の指数であり、支配によって傷つき、歪められた者たちの否定された願望像である。そして支配者はこの願望像を、支配の永遠化のために利用しているのだ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.360」岩波文庫)

貨幣/知性/美女(可視化された「欲望」あるいは「欲望としての性」)。この三位一体。順調な流れを邪魔されるとたちまち大量殺戮を引き起こす三つの要素。忘れてはいけない。

「現代社会、そこでは宗教的な原始感情やその再生品が、諸革命の遺産と同様に、市場に売りに出される。そこではファシストの指導者たちが密室の奥で国土や国民の生命を取引する。他方抜け目のない聴衆はラジオにかじりついて相場の研究に余念がない。こういう社会、そこではさらに、この社会の仮面をあばく言葉は、まさしくそれ故に、政治的結社への加入を勧める勧誘の辞として正当化される。こういう社会では、たんに政治も商売だというだけでなく、商売が政治全体を蔽う」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.360」岩波文庫)

「社会の仮面をあばく言葉は、まさしくそれ故に、政治的結社への加入を勧める勧誘の辞として正当化される」、とある。欺瞞的な報道を垂れ流してあます所のない今の日本の報道機関にとっては耳の痛いフレーズであるに違いない。新興宗教教団にしても政治政党にしても、他の政治-宗教団体の欺瞞的「仮面をあばく言葉」を暴露して扇動し、自分たちの教団あるいは政治結社へ一般市民を勧誘したとしても、その教団や政治結社自体がさらに上を行く欺瞞的なカルト的宗教や政治団体であるという事例は今もって後を絶っていない。ヘーゲル弁証法の超絶的遣い手としてマルクスやレーニンと並んで前人未到の域に達したアドルノの実力を見せつけて余りある指摘であると言えよう。

「差し当たり」という時期はもう過ぎ去った。過ぎ去らせるためにわざわざ一役も二役も買って出たのはマスコミ(特にテレビ)である。大手マスコミ(特にテレビ)は大失敗した日本政府の経済政策(アベノミクス)と自社のスポンサーの大失態を同時にごまかすための「機動隊」の役割にまで堕落した哀れな姿を全国に晒している。そもそもマスコミという時代遅れの形態自体が余りにも粗雑で甘過ぎる。グローバル資本主義がもし日本語を語ることができるとすれば、こう言うだろう。冗談ではなく「ゼロから出直せ」。さらにアドルノによる次の言葉も理解できていないことが日に日に判明してきた。この程度のことは世界中の超名門大学で学問している学生であれば、未成年であっても、特に専門家でなくとも、ほんの一般教養として身に付けているというのに。日本のマスコミはそれを報道しない。隠蔽している。

「この戦争が終れば生活はまた元の『正常さ』に戻るとか、まして──文化の復興などというのはそれだけですでに文化の否定であるのに──戦後にまた文化が復興されるであろうと考えるのは、たわけもいいところである。何百万というユダヤ人が殺害されたのであり、しかもこれは幕間劇のようなもので、カタストローフそのものは別にあるときている。この文化はこのうえ一体何を待ち設けるというのであろう?かりに無数の人びとにまだ待ち時間が残されているにしても、ヨーロッパで起ったことになんの結果も伴わないなどということは考えられないのであって、犠牲者の莫大量は必ず社会全体の新しい質としての野蛮に転化せずにはすまないであろう。この調子で間断なく事態が進展する限り、カタストローフの恒久化は避けられまい。殺害された人びとのための復讐という一事を考えてみるだけでよい。それと同数の人間が今度は別の人間の手で殺されるということになれば、殺戮が制度化し、辺鄙な山岳地方などを除いて遠い昔になくなったはずの資本主義以前の血の復讐の方式が大々的に復活し、主体を失った主体ともいうべき各国民が総力を挙げてこれに加わることになるだろう」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.69~70」法政大学出版局)

「逆に死者のための報復が行われず、犯罪者たちに恩赦が施されることになれば、罰を免れたファシズムは何やかや言っても結局勝利を収めたことになり、いかに容易に事が行われるかという先例をファシズムが作ったあとでは同じ事が別の場所で引き続き行われることになるであろう。歴史の論理はその張本人たる人間と同じように破壊的である。その重力の赴くところ、歴史は過去の不幸と同等のものを再生産するのだ。死が常態となるのである」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.70」法政大学出版局)

「歴史は過去の不幸と同等のものを再生産する」。たった今引用した。ナチス・ドイツ並びにソ連によって絶滅収容所も収容所群島も「日常化」した歴史があるけれども、昨今の「死の日常化」には特定の収容所のような特別な施設は必要ない。フーコーのいうようにどこもかしこも「監獄」と化したからだ。「見た目」は異なることも大いにあり得るという意味も当然含んでいる。事実、どこへ行っても防犯に名を借りた監視カメラや盗撮カメラが仕掛けられている。しかし日本のマスコミには日本語を理解する読解力すらない。


自由律俳句──二〇一七年二月十九日(4)

2017年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

さて、以上の引用に目を通したら休日を取ろう。その間、できれば二回ほど読み返しておくほうが良いかも知れない。そうでないと小説を「単なるストーリー」として読むことはできても、カフカ作品の価値を理解する方向で読解したことには全然繋がらないからである。そんなことではハーバード、ケンブリッジ、エコール・ノルマル、北京、モスクワなどの超名門大学では相手にされない。

「これらの若い女たちのおのおのがそれぞれのセリーのなかで占めている顕著な役割は、彼女たち全部がひとつの異常なセリーを構成するようにさせている。この異常なセリーは、それ自体で増殖し、またあらゆる分節を横切り、それに衝突する。彼女たちのひとりひとりが、いくつかの分節の蝶番のところにいる(たとえば、弁護士と被告ブロックとKとを同時に愛撫するレーニ)だけではなくそれ以上のものがある。彼女たちのひとりひとりが、特定の分節の視点からは、本質的なもの、つまり、連続したものの無限の力としての『城』、『訴訟』と《接触》し、《関係》があり、それらに《隣接》している。(オルガは次のように言う。《私は単に従僕たちを通じて城と繋がりがあるだけでなく──父の努力を引き続きうけついでいることによっても城と繋がりがあるんです。こうした事情を察したら、世間の人は、私が従僕たちからお金を受け取って、それを私たち一家のために使っていることも赦してくれるかもしれぬでしょう》)。したがって、これらの若い女たちのおのおのが、Kに援助を申し出ることができる。彼女らに活気を与えている欲求においても、彼女たちが惹起する欲求においても、《彼女たちは、司法・欲求・若い女・娘のアイデンティティの最も深いものに対して証言する》。若い女は司法に似ていて、原則がなく、偶然である。《裁判所は君が来れば君を迎え入れるし、君が行けば君を去らせるのだ》。また、《役所の決定は若い娘みたいに内気だ》という、『城』の村で語られるきまり文句がある」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.130」法政大学出版局)

「裁判官たちは、《子どものように》ふるまい、考える。ちょっとした冗談が、抑圧の方向を変えることがある。司法は必然ではなく、むしろ偶然であり、ティトレリは司法のアレゴリーを盲目的な運命、翼のある欲求として描いている。司法は安定した意志ではなく、動く欲求である。それは奇妙だ、正義の女神は秤がゆれないようにと、じっとしているはずだから、とKは言う。しかし聖職者は別のところで次のように説明する。《裁判所はお前には何も要求しない。裁判所はお前が来ればお前を迎え入れるし、そしてお前が行くならばお前を去らせるのだ》。若い女たちは、その裁判所の補助員という身分を秘密にしているから正体がはっきりしないのではなく、彼女たちが全く同一の多原子価的な欲求のなかで、同じように裁判官と弁護士と被告の意のままになっていることによって、まさしくおのれが補助員たることを明らかにしているのだ。『訴訟』全体に欲求の多原子価性が貫流しているのであって、これがこの作品にエロチックな力を与えている」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.100~101」法政大学出版局)

「抑圧は、抑圧する側においても抑圧される側においても、司法に属するときはそれ自体がかならず欲求である。そして司法の当局は、罪をさがすのではなく《罪によって引き寄せられて、われわれ監視人を派遣せざるをえない》のである。当局は穿鑿し、探しまわり、踏査する。彼らは盲目であり、いかなる証拠も認めない。彼らが特に考慮するのは、廊下で起こった事件、広間のなかのひそひそばなし、アトリエのなかでの打ち明けばなし、ドアのうしろの物音、舞台裏のつぶやき、欲求とその偶然を表現するすべてのミクロな事件である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.101」法政大学出版局)

「Kは、紳士荘へと走るイェレミーアにつぎのように言うだろう。《気の心を突然つかまえたのはフリーダへの思慕からい。私もその点では君に劣らない、だから足なみをそろえて行こうよ》。Kは、或るばあいには淫奔な者として、或るばあいには貪欲なまたは関心のある者として否認されうる。そしてそれは、それ自体における司法のアイデンティティである。社会的投資はそれ自体がエロチックであり、逆に最もエロチックな欲求が政治的・社会的な投資を行ない、社会的な領野全体を求める。これ以上に適切な言い方はできない。そして、娘または若い女の役割は、彼女がひとつの分節を断ち切り、それを並ばせ、彼女が属している社会的領野を逃走させ、欲求の限りのない方向で、限りのない線上に逃走させるときに、頂点に達する。学生が洗濯女に暴行しようとする裁判所の扉を通して、彼女はK・裁判所・傍聴人、それを裁判全体を逃走させる。レーニは、伯父と弁護士と事務局長とが話をしていた部屋からKを逃走させるが、しかし、彼は逃げてもまだ自分の訴訟から離れることはできない。裏口を見つける者、つまり、遠くにあると思われていたものの隣接性を明らかにし、連続したものの力を復活させるか作り出すのは、ほとんど常に若い女である。実際『訴訟』の聖職者は、このことについてKを次のように非難する。《君はあまりにも他人に助けを求めすぎる、それも特に女こどもにな》」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.130」法政大学出版局)

「それでは、黒く悲しげな眼をした若い女はどういうタイプなのか。彼女たちは、しどけなくくびのあたりをあらわにしている。彼女たちはあなたに呼びかけ、あなたに身をすり寄せ、あなたのひざに坐り、あなたの手を取り、あなたを愛撫し、また愛撫され、あなたを抱き、あなたに歯形を残し、あるいは反対にあなたの歯形を残し、あなたを暴行し、あなたに暴行され、ときにはあなたを押さえつけ、あなたを殴りさえし、暴君的である。しかし彼女たちは、あなたが立ち去るままにしており、あるいはあなたを立ち去らせさえし、あなたを永久にほかの場所へ送ることによって、あなたを追い払う。レーニは、動物への名残りとして、水かきのある指を持っている。しかし彼女たちは、もっと特殊な混交を示している。つまり彼女たちは、一部は姉妹であり、一部は女中であり、一部は娼婦である。彼女たちは、結婚生活・家庭生活に反対であって、そのことはすでにカフカの物語に見えている」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.131~132」法政大学出版局)

さて、「審判」でも「城」でも、どちらでも「司法の可動性」が重要問題とされた。なぜ「可動的」なのか。それは司法の「欲求」であり、もっぱら「欲求」である以上、それは動くものだ。という単純ではあるが、実際に適用されれば途方もなく危険なものともなる、「勝手気ままな司法」が、カフカがまだ生きていた時代(一八八三〜一九二四年)に、既にどくどく胎動し始めていたということ、少なくともカフカはその動きを目の当たりにしているという点に注意を払いたいと思う。なおトランプ政権が打ち出して批判を浴びている政策、なかでも保護主義的経済政策はグルーバル資本主義に逆行している、という批判がある。けれども、白人低所得者層の大量失業に伴う保護主義的経済政策という選択は、グローバル資本主義に逆行するのではまったくなく、むしろ逆に、グローバル資本主義の側の当り前の要請として、逆説的には見えても不自然ではない「流れ」として、当然出てくるべくして出てきた経済政策にほかならないことははっきりさせておかねばならないだろう。緊張が続き過ぎたかも知れない。頭を休ませておこう。

「『あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそう仰しゃるの』『へえ元は何だったんです』『何でも天璋院様(てんしょういんさま)の御祐筆(ごゆうひつ)の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥(おい)の娘なんだって』『何ですって?』『あの天璋院様の御祐筆の妹の御嫁にいつた──』『成程。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の──』『あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の──』『よろしい分りました天璋院様のでしょう』『ええ』『御祐筆のでしょう』『そうよ』『御嫁に行った』『妹の御嫁に行ったですよ』『そうそう間違った。妹の御嫁に入(い)った先きの』『御っかさんの甥の娘なんですとさ』『御っかさんの甥の娘なんですか』『ええ。分ったでしょう』『いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか』『あなたも余っ程分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきっから言ってるんじゃありませんか』『それはすっかり分っているんですがね』『それが分りさえすればいいんでしょう』『ええ』と仕方がないから降参をした。吾々は時とすると理詰の虚言(うそ)を吐(つ)かねばならぬ事がある」(夏目漱石「吾輩は猫である・P.38」新潮文庫)


自由律俳句──二〇一七年二月十九日(3)

2017年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

「少女は聞き返すと極端に大きく口を開け、彼がなにか突拍子もないことかおかしなことでも言ったというように手で軽くKを叩(たた)き、そうでなくても短かすぎるスカートを両手でたくしあげると、すでに上のほうでがやがや叫びが聞えるだけになったほかの少女のあとを一目散に追っかけていった。しかし次の踊り場のところでKはまた全部の少女と会うことになった。背の曲った子からKの意図を教えられて、彼を待ちうけていたのは明らかだった。全員が階段の両側に立ち、Kがそのあいだを楽に通りぬけられるようぴたっと壁にはりついて、手でエプロンのしわをのばしていた。こうやって人垣(ひとがき)をつくることといい、どの顔もが子供っぽさとふしだらさとの混合をあらわしていた。Kが通りすぎると少女たちはきゃっきゃっと笑いながらまた集って、先頭にはあの背の曲った子が立ち案内役を引きうけていた。Kが迷わずに行けたのは彼女のおかげだった。彼がさらにまっすぐ上っていこうとしたとき、彼女は階段の分れ道を示して、ティトレリさんのとこに行くにはこっちを通らなければだめだと教えた。画家のところへ行く階段は特に狭く、非常に長く、曲り角がなく、上まで全部見渡せて、上りつめたところがティトレリの部屋のドアだった。ドアの斜め上に小さな天窓がついているのでこれまでの階段と違い比較的明るく照らしだされているこのドアは、剥(む)きだしの角材を組合せたもので、その上に太い筆でティトレリという名前が赤く描きだされていた。Kがお供を従えて階段の中途に達するか達しないうちに、大勢の足音に誘われたのか上のほうでドアがちょっと開けられ、どうやら寝巻しか着てないらしい男がその隙間(すきま)に顔を出した。『おお!』、と彼は大勢が来るのを見ると叫び姿を消した。背の曲った子はうれしがって手を叩き、ほかの少女たちももっと早くKを上らせようとうしろからせきたてた」(カフカ「審判・P.196~197」新潮文庫)

「しかし、一行がまだ上りつめないうちに上のほうで画家はドアをすっかり開け放って、ふかぶかとお辞儀しながらKに入るよううながしていた。けれども少女たちは拒まれ、彼は一人として入れようとしなかった。いくら頼んでもだめで、許しがない以上彼の意志に逆らってどんなに入ろうと試みてもむだだった。ひとりあの背の曲った子が伸ばした彼の腕の下をかいくぐることに成功したが、画家は彼女を追っかけ、スカートをひっ摑(つか)むと、一度だけ自分のまわりをぐるっと回転させてやってから、ほかの少女たちがいるドアの外におろした。その間少女たちは、彼が持場を離れているあいだでも、一歩でも敷居を越して中に入ろうとしなかった。こういったことをどう判断していいのかKにはわからなかった。全体が仲のいい馴(な)れ合いのうちに行われているようにも見えた。ドアのそばの少女たちはかわるがわる首を伸ばしては、Kには理解できないさまざまなふざけた言葉を画家に投げつけていたし、背の曲った少女が彼につかまって飛んでいるあいだ画家のほうも大声で笑っていたのだ」(カフカ「審判・P.197~198」新潮文庫)

「Kはそのあいだに部屋を見まわした。こんなにみじめでちっぽけな部屋をアトリエと呼ぶなんて、彼一人では考えつかなかったろう。間口奥行きとも大股(おおまた)で二歩以上は歩けまい」(カフカ「審判・P.199」新潮文庫)

「しかし彼を不快にしたのは実は暖さでなく、むしろそのほとんど息もつけないような澱(よど)んだ空気なのだった。部屋はおそらくもう長いあいだ喚起されたことがないのだ。画家が自分は部屋に一つしかない画架の前の椅子に坐って、Kにはベッドに腰かけるよう頼んだことも、Kの不快感をさらに強めることになった。しかもKがベッドの端にしか坐らないのを画家は誤解したらしく、もっと楽にしてくれとすすめ、Kが躇(ためら)っているとご本人が出むいてきて、むりやり彼をベッドとふとんの奥深く坐らせてしまった」(カフカ「審判・P.205」新潮文庫)

ティトレリの「アトリエ」での対話。「城」と重なる部分が大いに読み取れるに違いない。

「『では、そうなればわたしは自由なんですか』、とKはためらいがちに言った。『そうです』、と画家は言った、『しかしそれは見せかけだけの自由、もっと正確に言えば、一時的な自由です。というわけは、わたしの知人たちがその一人である最下級の裁判官には、最終的な無罪宣告を下す権限がないのです。この権限を持つのは、あなたにもわたしにも、いやわれわれすべてにまったく手のとどかない一番上の裁判所だけです。それがどういうところか、われわれは知らないし、ついでに言えば、知りたいとも思いません。そんなわけで、告訴から自由にするという大きな権限はわれわれの裁判官にはないのですが、しかしかれらは告訴から外すという権限は持っています。すなわち、あなたがこんなふうにして無罪の判決をうけると、あなたは当座はたしかに告訴から離されるのですが、それはその後もずっとあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第すぐさままた効力を発揮するというわけです。わたしは裁判所と深い結びつきがあるのでこんなことも申しあげられるんですが、裁判所事務局用の規定にはちゃんと、真の無罪と見せかけの無罪との違いが形に現わされているんです。真の無罪の場合には訴訟書類は完全に廃棄すべしとなっていて、そのときはそれらが訴訟手続から全部消えるのです。告訴ばかりか、訴訟も、無罪の判決さえも、すべてが廃棄されてしまいます。が、見せかけの無罪の場合は事情が違う。書類についていえば、潔白の証明書、無罪の判決、無罪判決の理由の分だけそれがふえたという以上の変化は起っていません。その他の点ではしかしそれは依然として手続の中にあって、裁判所事務局間のたえまのない交渉にうながされるまま、上級裁判所に送付されたり、下級裁判所に差し戻されたりしながら、大小さまざまの振幅、大小さまざまの渋滞をへつつ、上に下に揺れ動いているわけです。この道筋は予測もつきません。外から見れば、すべてはとうに忘却され、書類は紛失し、無罪判決は完璧(かんぺき)である、という外見を呈していることがよくあります。事情に通じている者ならそんな外見に欺(だま)されやしません。一つの書類でもなくなったわけでなく、裁判所には忘却なんてことは存在しないのです。そしてある日──だれにも予期できません──どこかの裁判官が書類をいつもより注意深く手にとって、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、ただちに逮捕せよと命じるわけです。いま申し上げたのは、見せかけの無罪判決と新しい逮捕のあいだには長い時間が経過すると仮定した場合の話で、事実それはありうることだし、わたしもそんな場合をいくつも知っています。しかしそれとまったく同様に、無罪判決された者が自宅に帰ってみると、もうそこに彼をふたたび逮捕せよと命令を受けた者が待っている、といったこともありうるのです。そのときはむろん自由な生活はそれで終りです』。『そしてまた訴訟は新規まき直しというわけですか?』、とKは信じられぬというように言った。『もちろんです』、と画家は言った、『訴訟が新たに始まります。しかし前と同じようにふたたび見せかけの無罪判決をかちとる可能性はあるわけです。ふたたび全力を集中しなければならず、降参するわけにはいきません』。このあとの言葉を画家が言ったのは、もしかしたらKがいささかがっくりきたといった印象を彼に与えたためかもしれなかった」(カフカ「審判・P.220~222」新潮文庫)

「『それではしかし』、とKは、なにかを暴露しそうな画家に先回りして言った、『第二の無罪判決を手に入れるのは初めよりむずかしいんじゃありませんか?』『その点については』、と画家は答えた、『はっきりしたことは何も言えません。あなたが言われるのは、二回目の逮捕ということで裁判官が被告にたいし不利な影響をうけてるんじゃないか、ということでしょう?そんなことはありません。裁判官はすでに無罪を言いわたすときこの逮捕を予見していたのです。従ってこの事情はほとんど影響しません。けれどもその他無数の理由からして、裁判官の気分とか、事件にたいする法律的な判断が違ったものになっているということはあります。だから二回目の無罪判決をかちとる努力はその変化した状況に適応するものでなければならず、最初の無罪判決を得たときと同様強力なものでなければなりません』。『しかしこの第二の無罪判決もまた決定的なものではないわけでしょう?』、とKは言って、何か拒むように頭をまわした。『もちろんです』、と画家は言った、『第二の無罪判決には第三の逮捕がつづき、第三の無罪判決には第四の逮捕がというわけです。すでに見せかけの無罪という言葉の中にこういった事情が含まれていたわけです』。Kは黙っていた。『見せかけの無罪はどうやらあなたにはあまりお気に入らないようですね』、と画家は言った、『もしかするとあなたには引延しのほうが向いてるかもしれない。引延しの本質を説明しましょうか?』Kはうなずいた。椅子の背に大々とよりかかっていた画家は、すっかり寝巻の襟(えり)をはだけて、中につっこんだ片方の手で胸や脇腹(わきばら)をさすっていた」(カフカ「審判・P.222~223」新潮文庫)

「引き延ばし」。延長という措置が設けられている。この延長は手続き面での延長という形を取る。が、実質的には時間的な延長でもある限り、刻一刻と様々な剰余を生む。

「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・P.223~225」新潮文庫)

「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・P.228~229」新潮文庫)

「つねに用心していること、決して不意を襲われぬこと、裁判官が自分の左に立っているのにうっかり右を見つめたりしないことこそ、被告のとるべき態度の根本原則だと彼は思っていたのに──なんどでもまた彼が破るのは、まさにその根本原則だったのだ。彼の前には長い廊下がひろがり、そこから空気が動いて来たが、それにくらべればアトリエの空気のほうがまださわやかだった。廊下の両側にベンチがおかれている点も、Kの関(かかわ)っている事務局の待合室と正確に同じだった。事務局の設備は詳細な規定で定められているようだった。見たところここでは訴訟当事者の行き来はそれほどではなかった。一人の男がそこになかば横になって坐(すわ)っていたが、これはベンチの上の腕の中に顔をうずめ、眠っているらしかった。廊下のはしの薄暗がりにも男が一人立っていた。Kはベッドを越え、絵を持った画家がそれにつづいた。まもなく一人の廷吏に出会うと──私服のふつうのボタンにまじっている金ボタンで、Kはいまやすべての廷吏の見分けがついた──画家はその男に絵を持ってKのお供をしてくれと頼んだ。ハンケチを口にあて、Kは歩くというよりむしろよろめいていった」(カフカ「審判・P.229~230」新潮文庫)

「『おまえは事実を誤解している。判決は一度も下るものではないのだ、訴訟手続が次第に判決に移行してゆくのだ』。『やっぱりそういうことですか』、とKは言って頭を垂れた。『さしあたりおまえはおまえの件で何をするつもりかね?』『もっと援助を探してみるつもりです』、とKは言って僧がこの意見をどう判断するか見るために頭をあげた、『ぼくが充分に活用していないある種の可能性がまだあるんです』。『おまえは他人の援助を求めすぎる』、と僧は非難するように言った、『しかも特に女に、そんなのが真の援助でないことがわからないのか?』」(カフカ「審判・P.298」新潮文庫)

「訴訟手続が次第に判決に移行してゆく」。おそらくその逆、「判決が(反対に)訴訟手続きへ移行してゆく(始めからやり直し)」。この「移行」。「判決」と「訴訟手続き」の間に、かつてあったはずの境界線の消滅。訴訟当事者は混乱に陥る。いま進んでいる時間と言葉は現実的な意味で「判決」なのかそれとも「訴訟手続き」を待っているに過ぎないのか。訴訟当事者にもはっきりわからなくなってくる。だがそれもまたグローバル資本主義が以前から持っていた側面の一つに過ぎない。欧米では六〇年代後半から、少し遅れて日本でも八〇年代後半にはしばしば議論されていた。それはそれとして、この「移行」は、「城」における「可動的」な「柵」の動きに、余りにも似ている。決定権は当事者に「ある」と同時に「ない」という逆説的状況が生じてくる。決して意図的にではなくても生じてくるし、また、生じてこないわけにもいかない。

「『だからわたしは裁判所の者だ』、と僧は言った、『だとしたらなぜおまえになぞ用があろう。裁判所はおまえにたいし何も求めない。おまえが来れば迎え入れ、おまえが行くなら去らせるまでだ』」(カフカ「審判・P.313」新潮文庫)