
(オー!サニーディ!サンシャイン!)
山から帰ってきた。
スキースクールという職業について、ちょっと書いてみようと思う。
全国的にスノースポーツは、マリンスポーツと同じように底辺が拡大していない。
『私をスキーに連れてって』以来、メディアに取り上げられなくなり、
モーグルスキーのように初心者には程遠いものがもてはやされた結果、スキー人口が減った。
ウインドサーフィンで言えば、初心者には不可能なウエーブのクローズアップと同様である。
スキー場のホテルは何年も先に決まっているスキー修学旅行をブッキングするのが最善なのだ。
当然、スキースクールも確実に稼動する。そして想像を絶する忙しさなのだ。
今、全国の多くのスキースクールのメインレッスンは修学旅行である。
中学生や高校生を担当するスキー教師は大変な目にあう。
何故かと言うと、まず彼ら生徒はスキーをしたいわけではない。
標高1500Mの極寒の山に連れてこられ、ガンダムのような靴を履かされるのだ。
天気のいい日ばかりではなく、生まれて初めてのゲレンデが猛吹雪のときもある。
一つの班は10名前後。
動きの悪い子、気持ちの弱い子、やる気の無い子、様々である。
10名の子の上達に差が出ないように、同じレベルに持っていくのは、本当に大変である。
落伍者が出ないよう、思春期の子供たちに多くの気を遣い、怪我をしないよう体調管理もする。
彼らが吹雪を背中から受け、正面から受けないように、コロコロ変わる天候に気を払う。
生まれて初めてスキーをはいた子達は3日目には林間コースを下りれるようになる。
そこで、山やユキの話をする。
天気が良ければ、信州の山々の名前を教え、寒ければ、ウエアについた雪の結晶の話をする。

(スキーやってて良かったなって思う景色)
スキー教師たちはスキーを教えるだけではなく、
ミーティングの結果を学校に報告し、ツアールートのコンディションを前日に確認しに行き、
経験の浅いスキー教師を研修し、自分の技術も高め、
夜遅くまで生徒たちの認定証を作成し、毎日ベッドにつくのは午前様である。
とにかく、A HARD DAY'S NIGHTがシーズンいっぱい続くのである。
オイラの得意技は大声である。
大声を出して、彼らのモチベーションを上げる。寒い日はなおさら大声を出す。
トレーン(みんなで繋がって滑る)ときも最後尾の子に声が届くよう、とにかく声を上げる。
元気のもとは声のデカサなのだ。
だから、オイラは山にいると喉を痛めて常にハスキーボイスになる。
話は変わり、昔、こういうことがあった。
デキの悪い関西の高校を担当したときだ。オイラが25歳のころだ。
男子を10人持った。ヤンチャ不良高校生だ。
レッスン初日は、誰もスキーを履こうとしない。いきなり文句をたれ座り込む彼ら。
オイラは覚悟を決め、彼らと真正面から向かい合った。
舐められないように、かなりキツク彼らに接したのを覚えている。
3日間のレッスンはなんとかかんとか終了し、彼らの帰り時間が迫るころ、
オイラは彼らに呼び出された。ホテルの外だ。
『こりゃ、ひょっとしてフクロかな』なんて思った。
オイラを囲むように彼らは立った。
リーダー格のヤツがいきなり、色紙をオイラに差し出した。
『先生、これ受けとってくれや』ドスのきいた関西弁だ。
それには彼ら一人一人のお礼の言葉が汚い字で書かれていたのだ。
それと、ホテルの売店で買ったであろうハンドタオルも差し出してくれた。
オイラは少しでも気を許すと涙が出そうになって、確か笑ってごまかした。
オイラがスキーをやってて本当に良かったと思った瞬間だった。
スキー自体の楽しさと山の景色の素晴らしさと人間のつながりの感動がいつも雪山にあった。
この度は、カービングスキーに慣れることができ、
雪山の美しさを再認識し、多くの後輩が歓迎してくれて、実にこの三位一体を経験できた。
どうやらスキー教師がオイラの天職のようである。
一人、ナイターゲレンデに立ったとき、自分自身大して変わっていないことに気がついた。
20年前に同じゲレンデに立っていたとき、そのときと考えることは大して変わっていない。
つまり、人生はとても短い。時間の隔たりを全く感じなかったのだ。
時間はあまりにも早く経ってしまうのだよ。
だからオイラは第二の人生にフルアタックだ。
結局のところ、オイラは雪山と多くの仲間たちがいるスキースクールでパワーをもらって帰ってきた。
そしてスキーとはサヨナラである。

左、全日本スノーボード技術選1位ヒラマ

春からムラスポ社員の青学女子大生イントラ

夜の班別ミーティング。