なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

今日は疲れた

2007-05-05 02:21:24 | Weblog
 今日は暑いくらいの天気だったけれど、風が強かったのでチャペルに向かって歩く時に娘のベールを抑えなくてはいけませんでした。
 花嫁にエスコートして半歩前を歩く・・・のにベールが風に舞わないように背中を軽く押さえる・・・そんな器用な歩き方が私みたいな手の短いオジサンには無理な話だ。
 加えてあの無用に長い裾・・・忠臣蔵の長裃みたいな・・・アレを3回は踏んづけたと思う。
 娘も私も転ばなくてよかった
  ところで神父さん・・・もしかしたら牧師さん?
 外国人でした・・・特徴のある抑揚、そう昔ラジオで聞いたこことのあるドラマを思い出しました。
 ストーリーではなくて言葉の抑揚だけです
  井上ひさしのマッキンポット神父だったと思う・・・
 声の出演は森繁久弥だったかどうか定かではないが、あの言葉の調子です。
  なんだか可笑しくなって、最前列に座って笑いをこらえるのに必死でした。
 神父さんの後ろはガラスの窓で、明るい日差しが差していて、遠くに海が見えていて船が浮かんでいる。
 その船を見ることで笑いをこらえました(私は皆が真面目な顔をしているとお葬式の最中でも可笑しくなる=病気かも)
 
 あの神父さんカタカナの日本語は、日本に慣れていないから?、それともよく喋れるようになっていると聞くべきか?
 尤も、私はもっと意地悪なことを考えていました・・・「アレは営業用の喋り」
  事実このチャペルでの結婚式を主宰する神父さんを「日本人」「外国人」のいずれかを指名できるのだそうで、勿論お値段に差がある。
 いや、お布施に差がある。
  ということは日本人が日本で結婚するのに信徒でもないのにチャペルで結婚式を行って、神父さんは外国人を有り難がる・・・
 言っていることは本当に良いことです「健康な時も、そうでない時も・・・」全くその通りなのだから、誰がどんなイントネーションで言おうとこの言葉が頭と心に沁み込んでいけば良いのです。

 ここであることに・・・当然囲碁がらみ・・・気がつきました。
  私も、囲碁の後輩的な人にアドバイスらしいことを言う時があります。
 コミュニティなどのリアルの碁を観戦した後では偶にある。
 自分ではかなり基本的なことに限定しているつもりなんですが、いまいち受けが良くない。
  時として当人が問題と考えている事と別の所を問題にしているのかも知れない
 ともかくお笑い芸人ではないのだから受けなくても良いのですが、せっかく発信したことが受け止めてもらえないと寂しいですね。
 更に訳を考えてみれば単純な話・・・要するに「発言内容」ではなくて「発言者」が信用が無いのです。
  鮮やかな手を打つでなく、当たり前の手を打って勝てといっているので、全く強いと思われていないし、勿論尊敬など無縁。
 同じことを例えばプロ棋士が言ったのと、ザル碁のヘボが言ったのでは、受け手の反応が違う・・・これが「外国人神父効果」と同じかも
 私が棋力的に信用が薄いのはマア仕方ないとして、だからといって言ったことまで信用出来ないとすると、正しいこともないがしろにされてしまう危険性があります。
 これは不幸なこと
  それを防止するには聞き手に正しい耳を持ってもらうのが一番良いのだけれど、最も手っ取り早いのは「ヘボはあれこれ言わない!」だろうな?
 黙って見ているのも修行の内かな