
勿論その場での口出しではありません。
マアそこで投了ともなれば原型に戻しやすいし、彼等の関心もまだのこっているでしょうから話は出来る。
さてそれが良いことかどうか?。
昔の囲碁仲間にM田さんという人がいました。
彼は病院の院長先生ですから、社会的地位もあるし普段なら出会うことなど無い種類の人でしょう。
そこのところが趣味の取り持つ縁でしょう、お互いに”先生”と呼んでいるのですからね。
尤もあちらは正真正銘の先生で、こちらはだいぶインチキ先生。
さてこの先生性格がおおらかで口調もベランメエに近い・・・かなり言いたい放題も言う。
そういう性格だから、そういう対局を見て楽しむ人もいるわけで・・・これが何だかんだとアドバイス?・解説したがる人なのです。
そういうときの先生の常套句は「頼みもしないのに教えたがる奴がいる!」
喧嘩ではありませんが、気持ちとしては苛立っているでしょう
敵もなかなか、このくらいでは・・・暫くは静かなのですが
”教え魔”というより”解説魔”ですね。
それで、私のしようとしている事は単なる”解説魔”的動機だろうか・・・そう受け取られる可能性は大きい。
私は彼らと4.5子で打っていますが「打ってくれ」=「教えてくれ」ではないと思っています。
勿論言葉としては「教えてくれ」ですが・・・
しかし今までに彼らのほうから敗着・敗因を教えてくれと言われたことがないのです。
当然私も分からないことが多いのですから、頼まれても期待に沿える自信は無いにしても、一緒に考えることは出来ると思う。
私としてはそういうことを含めて”碁を打つ楽しさ”だと思うのですが。
もしかしたら私の方が間違っているのか・・・あるいはこの辺が楽しみ方の分岐点なのかも知れません。
これまでに彼らには2つのことしか話していません(細かいことでは話したかも知れませんが)
打っていて余りにも損な分れを平然と打っているのを見かねて”つい手の内を見せた”ということです。
① 黒の星に小ケイマにかかり、黒の1間ハサミに白三3に打ったときの変化。
黒押さえに白ノビ、普通は黒3本ノビですが、これを2本で押さえ、白の下がりに黒も押さえで白が切って>>>黒のハマリ
② 黒隅の星から小ケイマしまりの構えのところに、白裾カカリ
<言葉だけなんで分かりにくいでしょうが、すみません>
さて黒さんたちは自分から嵌りに来るような気がします・・・「嵌め手」ということでもないのだけれど・・・知っているのと知らないのとでは大きな違い。
しかもこういうことが続くと”こういう勝ち方をしていて良いものだろうか”という疑念というか心地悪さが広がってくるものです。
ですから昼休みの終了に時間が残っているので、この辺の説明をした。
この程度で彼等の棋力が上がるとは思っていませんが、4.5子の置き碁では私が打ちにくくなることは確かですね。
白は勝たなくてはいけないわけではないのですから良いですが。
昼休みの碁ですから、トレーニングというより単なるジョギング程度の意味なんでしょうが、彼らはそれしか打っていないに近いらしい。
もし「碁が楽しい」から「そして強くなりたい」に変わった時、今の接し方では無理だと思うのですが、どうだろうか。
つまり”打ちっぱなしの碁”を繰り返しても、楽しみの時間ではあっても棋力のアップには繋がらないのではないだろうか?
その辺を「毎日みたいに碁を打っている」ことで勘違いしていないだろうか
寧ろこういうことで時間を空費したと、後で思わないだろうか?
もしそういう後悔をした場合は、私も共犯ですね。
言葉にすると大げさで素人としては気恥ずかしいけれど、勝敗もさることながら「視野が広がる」とか「思慮が深くなる」とかに喜びを感じてくれると良いのだけれど・・・もしそうなら私と同じ程度にならなれることは保証できそう。
でも、今のままの楽しみ方なら、楽しみ方は好き好きですが棋力は何年経っても・・・
私も人事ではないが、一生勉強と言いながら、何処かで棋力の上達が止まるということはこの辺の原因なのかも。
但しこれを押し付けるの分けにも行きません。
それは頼まれもしないのに「私のおせっかい」
しかも耳に逆らうような力は無くて”耳をなでる風”程度のものでしょうね
全く難しい
