なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

36500日

2007-05-30 02:20:32 | Weblog
 今朝は出掛けに息子に「1日を無駄にするなよ」と声をかけて出かけました。
 玄関で靴を履きながら、成人過ぎた息子に言うことではないなと思いながら、もし声をかけたセリフに続けて言うなら「1年365日、100年で36500日、何をしようとしまいと確実に減っていく」となるところでしょうか。
 さすがにこれは言葉にはしませんでしたが・・・
  第一”100年”と例えたのが地獄の鬼が聞いたら大笑いです。
 私は既に6割くらい消化しています・・・100年として・・・主治医の話しっぷりではそんなに甘くない、相当差し迫っている口調だし、心臓のバイパス手術は必至なのだそうです。
 それでも昔お世話になっていた近所の開業医のご託宣では「何時プッツンしても可笑しくない」と家族には告げていたとかだから、それから20年たっているということは・・・かかりつけの病院を変えたのが良かったのか、それとも私に粘りがあるのか?
 ともあれ玄関で靴を履きながら、アレは自分用のセリフだったなと苦笑いです

 「ムダ」ということで誤解があるかも知れないので説明すると・・・本当は息子にも言いたいのですが、「役に立つ」の対極にある「ムダ」ではありません。
 1日何もしない=「ムダ」と言っています・・・何もしない1日があっても良いような気もしないでも無いのですが、それは年寄りになってからということで。
 本を読んだりスポーツをしたりウォーキングでも良い・・・何でもよい、やりたいこと・今日出来ることをトコトンやれと言っているのです。
 勿論勉強でも良いけれど、囲碁を覚えたいのならもっと良い
  何処かへ行かなければ出来ないのなら出かければ良いし、今日即できないことならば今できる準備があるだろう。
 悪いことでなければなんでも良い・・・但しゲーム機相手に時間を・1日を浪費するのは最低に近いと思っています。
 創造性というか発展性というかそういうものに繋がらないと思う・・・そこのところが同じパソコン画面相手にネット碁を打つのとは大きな差があるように思う。

 自分の学生時代を考えたら、例え息子にでも自分のことを棚にあげてお説教じみたことはいえません、先ほど程度のセリフがが自分では限度です。
 私は地方から出てきて4畳半一間を間借りしていましたが寝るとき以外にはそこにはいない風な生活でした。
 たいていは植物系の部活の部屋か大学近くの駅前の雀荘・・・マア大学かその周辺には居た。
 当時は講義が一限2時間でしたから先輩たちは休講を利用して近くの雑木林に植物採集に行くのですが、私もこういうときは必ずついていきます・・・休講と関係なく。
 (その林は開発で見る影もなくなりましたが、貝塚があるのでその部分は手付かず・・・偶に横を車で通ると懐かしいですね)
 だから偶に講義に出席すると初顔合わせの教授など・・・「君があの○○君か」などしげしげと顔を見られたり、早速教授から質問が飛んできたり・・・予習しないと講義には出られませんね。
 講義には出ないくせに専門外の教授の部屋に出入りしていたり、変な学生で名前だけは知れていたり・・・
 ともかく好きなことをやっていたので1日が短いどころか、寝る間も惜しかった
  好きなことに時間と労力をつぎ込む・・・しかしそれは飯の種ではないから、マア単なる道楽息子でした。
 大学のある駅周辺の雀荘では少しだけ名前が知れていたり・・・そういうことは娘や息子には伏せています。
 それで自分のやってきたことを考えて子どもには「何でも良いから打ち込め!」と物分りの良さそうなオヤジをやっている。

 競馬についてはその昔血統書が愛読書だったり、レースを展開を覚えてしまうほどのめりこんでいたことはあるけれど、これは一歩間違うと経済的破綻が予測される・・・そこで娘が幼児期に足を洗った。
 中途半端には出来ないので、以来競馬場には足を踏み入れていない。
  マージャンはフリーで雀荘で遊んでいて週に2,3回徹マンとか連続72時間とか遊んだけれど、これは禁煙と同時に足を洗った。
 私にとって喫煙とマージャンは結びついているので、禁煙をするには止めざるを得ない。
 だから残っているのは囲碁オンリーです。
  これなら世間体からも女房殿からも公認ということですね
 例えば家で何かの用事とか、食事・入浴などと声がかかっても「只今試合中」の一言で回避できます・・・諦められているか、見捨てられているとも言いますが。

 ともあれ我が愚息!ゴロゴロしているなら囲碁を憶えなさい。
  かの孔子様だって2千年も前に、何もしないよりは余程良いと言っているのですから。