久し振りにパチリです。
いや、機械音なのでリアルの対局のような趣のある音ではないのですが、それでも石を置くときの音が好きです。
リアルでしたら、人それぞれの石を置く癖だとか場面での感情などで微妙に音が違うし、石が本物の石か瀬戸物・ガラス・練り物でも違うし、盤が板とか2寸・4寸でも違う。
その違いを感じるのが楽しくもある。
形勢の良いときの音と言うか石を置くときの調子には違いがあるでしょう。
同じ人でも「置く」「打つ」「叩きつける」のような違いがあるし、それぞれの間でも微妙無さがある。
「耳がよければ」その違いで形勢とか相手の感情は分かりそうです・・・但し盤上の形勢を冷静に見ることが出来るのは形勢が良いときでしょうか・・・
つまり殆どのアマの場合悟りの境地とは程遠いので、違いに気がつく様な時はある程度形勢にも気持ちにも余裕がある時だけです。
ともかくネットでの対局では石音の音量を中くらいよりやや低めに設定し、盤は薄めの茶色で木目調は無しで打っている。
このくらいだと目も疲れないし、夜中でも気にしないでいいし、着手があったときの信号にもなります。
さて久し振りの対局は私の先番でコミ4目半出し。
序盤で白氏にミスがあったらしい・・・私はミスというより打ち過ぎだと感じましたが・・・。
黒の厚みの近くで白は弱い石を作って、全体を捨てるに捨てられなくなった。
いや、捨てるという方針は無かったのかも知れませんが。
ともかく、私より先に相手が重大なミスを犯して、一局の流れが決まってしまったのだと思う。
主な原因としては、単に相手のミスがあっただけで、「調子が戻った」などとは言えないでしょう。
尤も、ミスを見つけられたということは良かった、あるいは良くなったのかもしれません。
しかしある問題に気がつきました、私がミスだと感じたことを、相手はミスだとは思っていないのかも知れない・・・私が中押しで負ける時は、私が当然と思って打っていることの中で、相手は問題点を見つけているのでしょう。
今日の場合もしかしたら、相手にしてみればいつもの手・いつもの流れで打っているだけかもしれなくて、その中に咎められる場面・瞬間があるのだと思う。
その場面・瞬間でしか咎められないということで、それを捉えられるかどうかが局面に大きく作用する・・・
マア私などの純粋な?アマ、ザルにして見れば調子が良いとか悪いとか、勝負の機微はその程度のものかも知れません。
勝負は中盤の入り口で白氏の投了で終わりました。
これを棋譜倉庫から出して並べ直したり、別の手は無かったのかシュミレーション。
やはり白氏が別の打ち方をしていれば勝負は分からなかったかもしれない・・・そういう場面がありました。
尤も、そういううち方が、白氏にとって彼らしい打ち方だと彼自身が思うかどうかは分かりません。
場面に沿った正しい手=勝つ確率の高い手だとして、それがその人らしく打ちたい手かどうかは別な時も有るような気がします。
巧く言えないのですが、打ちたい手=場面での最善・最強手が一致するように成ることが勉強の成果と言うものでしょうか?
残念ながら、そうは行かない悲しい現実がありますが・・・
それだからこそ囲碁は何処までも楽しいのですね。
もう一つ、私の手にももっと厳しく打つ手もあったことが分かりました。
場合によっては、その手をその時に発見できなかったことが勝負を決め切れないことに繋がる事だってある・・・そういう意味では運良く勝てただけなのだろう。
さて対局待ちリストに戻ってみると、懐かしい名前に出会いました。
いや、名前だけですかから”その”人かどうかは分かりません・・・それほど珍しくは無い苗字だし、”ある”名前だし。
最も、最近は使わない旧漢字表記があるから若い人ではないから私の知っている人の確率が僅かに上がります。
若し同一人なら
彼は友達のお兄さん・・・少年時代に同じチームで野球をした投手のお兄さんで、私たちが小学生の頃彼は中学生で、チームの監督のアシスタントとしてコーチをしてくれていた。
今の少年野球は土日祝に練習・試合をしますが、当時の私たちは違いました。
グランドは学校の校庭か町内にある企業のグランドで、チームは同じ町内の子供たちですからこれは学校の部活ではありません。
でも晴れていれば活動は毎日で、監督も夕方は顔を出してくれる。
それまでの時間に見守ってくれるのがそのコーチであるお兄さんでした。
その人の存在が無かったら平日の活動は無かったかもしれません・・・
さて、囲碁のボードに乗っている人は?
その人は・・・私の出身の県に在住している・・・更に僅かだが確率が上がった。
その人は初段直前くらいの点数らしいから対局することはないけれど、ボード上では私の名前を見ているかもしれません。
私の方は、フルネームだと同姓同名はまずは無いと思われるので知っている人は分かるでしょう。
さて、私は故郷に帰る事はめったにないし、ネット上でしかすれ違わないかも知れませんね。
いや、機械音なのでリアルの対局のような趣のある音ではないのですが、それでも石を置くときの音が好きです。
リアルでしたら、人それぞれの石を置く癖だとか場面での感情などで微妙に音が違うし、石が本物の石か瀬戸物・ガラス・練り物でも違うし、盤が板とか2寸・4寸でも違う。
その違いを感じるのが楽しくもある。
形勢の良いときの音と言うか石を置くときの調子には違いがあるでしょう。
同じ人でも「置く」「打つ」「叩きつける」のような違いがあるし、それぞれの間でも微妙無さがある。
「耳がよければ」その違いで形勢とか相手の感情は分かりそうです・・・但し盤上の形勢を冷静に見ることが出来るのは形勢が良いときでしょうか・・・
つまり殆どのアマの場合悟りの境地とは程遠いので、違いに気がつく様な時はある程度形勢にも気持ちにも余裕がある時だけです。
ともかくネットでの対局では石音の音量を中くらいよりやや低めに設定し、盤は薄めの茶色で木目調は無しで打っている。
このくらいだと目も疲れないし、夜中でも気にしないでいいし、着手があったときの信号にもなります。
さて久し振りの対局は私の先番でコミ4目半出し。
序盤で白氏にミスがあったらしい・・・私はミスというより打ち過ぎだと感じましたが・・・。
黒の厚みの近くで白は弱い石を作って、全体を捨てるに捨てられなくなった。
いや、捨てるという方針は無かったのかも知れませんが。
ともかく、私より先に相手が重大なミスを犯して、一局の流れが決まってしまったのだと思う。
主な原因としては、単に相手のミスがあっただけで、「調子が戻った」などとは言えないでしょう。
尤も、ミスを見つけられたということは良かった、あるいは良くなったのかもしれません。
しかしある問題に気がつきました、私がミスだと感じたことを、相手はミスだとは思っていないのかも知れない・・・私が中押しで負ける時は、私が当然と思って打っていることの中で、相手は問題点を見つけているのでしょう。
今日の場合もしかしたら、相手にしてみればいつもの手・いつもの流れで打っているだけかもしれなくて、その中に咎められる場面・瞬間があるのだと思う。
その場面・瞬間でしか咎められないということで、それを捉えられるかどうかが局面に大きく作用する・・・
マア私などの純粋な?アマ、ザルにして見れば調子が良いとか悪いとか、勝負の機微はその程度のものかも知れません。
勝負は中盤の入り口で白氏の投了で終わりました。
これを棋譜倉庫から出して並べ直したり、別の手は無かったのかシュミレーション。
やはり白氏が別の打ち方をしていれば勝負は分からなかったかもしれない・・・そういう場面がありました。
尤も、そういううち方が、白氏にとって彼らしい打ち方だと彼自身が思うかどうかは分かりません。
場面に沿った正しい手=勝つ確率の高い手だとして、それがその人らしく打ちたい手かどうかは別な時も有るような気がします。
巧く言えないのですが、打ちたい手=場面での最善・最強手が一致するように成ることが勉強の成果と言うものでしょうか?
残念ながら、そうは行かない悲しい現実がありますが・・・
それだからこそ囲碁は何処までも楽しいのですね。
もう一つ、私の手にももっと厳しく打つ手もあったことが分かりました。
場合によっては、その手をその時に発見できなかったことが勝負を決め切れないことに繋がる事だってある・・・そういう意味では運良く勝てただけなのだろう。
さて対局待ちリストに戻ってみると、懐かしい名前に出会いました。
いや、名前だけですかから”その”人かどうかは分かりません・・・それほど珍しくは無い苗字だし、”ある”名前だし。
最も、最近は使わない旧漢字表記があるから若い人ではないから私の知っている人の確率が僅かに上がります。
若し同一人なら
彼は友達のお兄さん・・・少年時代に同じチームで野球をした投手のお兄さんで、私たちが小学生の頃彼は中学生で、チームの監督のアシスタントとしてコーチをしてくれていた。
今の少年野球は土日祝に練習・試合をしますが、当時の私たちは違いました。
グランドは学校の校庭か町内にある企業のグランドで、チームは同じ町内の子供たちですからこれは学校の部活ではありません。
でも晴れていれば活動は毎日で、監督も夕方は顔を出してくれる。
それまでの時間に見守ってくれるのがそのコーチであるお兄さんでした。
その人の存在が無かったら平日の活動は無かったかもしれません・・・
さて、囲碁のボードに乗っている人は?
その人は・・・私の出身の県に在住している・・・更に僅かだが確率が上がった。
その人は初段直前くらいの点数らしいから対局することはないけれど、ボード上では私の名前を見ているかもしれません。
私の方は、フルネームだと同姓同名はまずは無いと思われるので知っている人は分かるでしょう。
さて、私は故郷に帰る事はめったにないし、ネット上でしかすれ違わないかも知れませんね。