なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

ケセラセラ

2008-10-24 17:50:21 | Weblog
 昔姉の持っていた雑誌の付録で、シャンソンだとかスタンダードナンバー、有名な映画の主題歌などの本が家にありました。
姉の世代は戦争前のものがある時代を経験し、戦争中が子供時代で、戦後一気にアメリカ文化が押し寄せてきた時代が青春期です。
 昭和30年前後だったと思います、英語の歌詞にカタカナの振り仮名があったかも知れませんが、ともかく音楽に関してはそういうものが人気があったのでしょう。
 その本には「枯葉」「テネシーワルツ」「旅情」などが並んでいました。
 今でも懐かしのメロディーみたいな番組でテネシーワルツを聴くと当時のことが思い出されます。
 その本に入っていたのが「ケセラセラ」・映画<知りすぎた男の主題歌>という副題が付いていたように記憶しています。
 英語で言うと歌詞の中に出てくるようにウィルビーですが、当時はスペイン語であろうが英語であろうがわからなかったわけで、単に「なるようになる」と覚えました。

 さて4連敗と4連勝を繰り返し、今また負けたところだという話を昨日書きました。
 今後どういう展開になるかは非常に気になるのですが、一方で気にし過ぎるのも変だと思いながら気にしている。
 囲碁は1局1局が楽しいということがまずはメイン。
  勝ち続けることとか、勝率が良いことに喜びを感じるとしたならば・・・それは一定程度期間限定なら可能ですが、ずっとというのは不可能な話。
 まるで、無限連鎖のネズミ講みたいなもので、囲碁ならばアマがプロを突き抜けて神様くらい強くならない限りありえない話です。
 そういうことですから、いつかは限界にぶつかる・・・いや、すぐに壁に阻まれるでしょう。
 当然勝ったり負けたりになるはずですが、その時「勝ったり負けたりの繰返し」を=0みたいに感じるか、1局の中にある程度勝敗を越えた楽しみを感じるか、あるいは勝ったり負けたりの中に楽しみを見つけるか出来なければ、興味が尻すぼみになるでしょう。
 プロの場合は、興味以上に生活が優先ですから、面白かろうが苦痛だろうが打たなくてはいけないし、勝たなければいけない。
 その点アマは気楽ですが、気楽なだけに1局を無駄にはできないでしょう。
  私自身の事で言えば、打てる局数も無限ではないでしょうし、自分の楽しいと感じる碁を実現しなくてはいけないと考えている。
 勝つことだけでなく、「こういう碁を打ちたい」とか「こういう囲碁仲間と楽しい時間を過ごしたいとか」・・・あまり具体的ではない部分もありますが。

 私ぐらいの年齢で、上がり目も期待できないようなオジサンとしては、まさに楽しみのところが問題です。
 これ以上強くはなれないだろうと言う客観的な見通し・あきらめの心境と同時に「少しでも強くなりたい」という気持ちがなくなったら味気ない感じがするだろうし、碁を打つエネルギー半減のような気がします。
 いや、エネルギーは要らないかもしれませんが、あるときふと「私はなぜ囲碁を打っているのだろう?」と思うことがあるかもしれない。
  まあ来年のことを言うと地獄の鬼に大笑いされそうですが、、今日囲碁を打てているなら明日も打っているだろうということでしょうね。
 悪い表現では惰性かもしれませんが、リアルにせよネットにせよ囲碁を打てる楽しみがあるうちは幸せでしょうね・・・ケセラセラ・・・明日は分りませんが、多分大丈夫でしょう。