なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

”師匠”の話

2008-10-30 18:26:47 | Weblog
 昨日「師匠の思い出1」を書いていてふと気がついたことがあります。
  非常におおざっぱにいえば、打って頂いた人は皆先生と言えます。
   どんな形であれ、自分に何かを教えてくれるでしょう、反面教師などという言葉もあります。
 それでは、これまで打っていただいた方、とりわけ上手の人は皆師匠かと言うとそんな風に呼ぶ感覚でもない。
 
 「感じる人」と「そうは思えない人」の違いがどこかにあるのですね。
  例えば、私は勝手に囲碁を覚えたので超初級時代には師匠はいません・・・強いて言えば新聞の囲碁欄ですが、人間ではないのでこれははずします。
  学生時代は囲碁好きな仲間を集めて打っていただけですから、皆仲間という関係です。
 まあ、どんな仲間でも自分の囲碁の進歩にいささかでも効果があるならそれも「師匠」と呼べないこともないけれど、それではわざわざ「私の師匠」という必要がなくなるのでこれもはずします。
 学生当時大学の先生に打って頂いたことがあるが、確かに自分よりは強そうなんだけれど、「師匠」という感じはしなかった。
 先生は自称2段ですが私の先で打って2敗1勝だったでしょうか・・・私の自覚が「級位」ですから、こういう戦績で良いのか疑わしかったし、私よりは強いのは確かだけれど、「先生」という感じはしなかったのです。
  明らかに先生が強くないと「師匠」という実感がないのでしょう・・・師匠に追い付いていくにしても、少なくとも出発点は差がないといけないです。
 でもそれだけは無い、何かがあるはずです。

 さて、私の最初の師匠は昨日書いたようにK先生です。
 これは「道場」の看板を掲げているところに入門したのだし、僅かとはいえ「会費」という月謝を払っているのですから、形の上では確実に師匠です。
 加えて、入門してからの触れ合いとはいえ、先生の人柄というのもある。
 そして当然ですが、碁について立ち居から教わったのですから・・・
  この時期に、(実戦を増やすために)碁会所にも行ったのですが、そこの席亭との比較。
 当時私は級位だったはずで、碁会所の席亭のAさんには5子で分が悪かった。
  それは当然でしょうね・・・指導碁的な置き石で5子だっただけで勝負だったらも少し置かされていたはずです。
 私の記憶ではAさんに数局は打って頂いた・・・形の上では教わったのには違いないが、教わった私が教えてくれたAさんを先生という感じで見ていなかったような気がします。
 いや、今でもそうかも・・・
  Aさんは席亭という立場があり、客を放って置けないということもあったのだろうが・・・そういう義務的な対局でも無かったとは思うのだけれど。
 でも「この人に教わりたい」というような希望とか、「この級位者を鍛えたい」という熱意のぶつかり合いはなかったでしょうね。
 だからと言って碁そのものがつまらないということでもないのですが、但し「高段者に打ってもらった」ということに過ぎないのかも
 せっかく高段者に打って頂いても、こういう心がけではいけないのでしょうが・・・「希望」「熱意」のほかにもお互いの「周波数」もあるでしょう。

 ところで、このAさんとは約4半世紀後に出会いまして、3局ほど打っています。
 年齢差というか、あちらは元席亭ですから元会員の私が先で打って3連勝中・・・これは密かに心の中で快哉です。
 聞くところによればAさんは別のコミュニティでは別格的存在で他の人との
段位のバランス上九段格!なんだそうです。
 それでは私は・・・いやそんなバカなことはあり得ません。
  基準となっているランキングがおかしいか、Aさんが超下手こなしの名人なんでしょう。

  話は脱線ついでに、誰かに何かを教わって上達を目指す時・・・然るべき先生と思えたら、指導料を払って教わるのが効果的だと考えています。
  席料などにしても、最近はコミュニティなどを利用した「無料」というものがはやって、町の碁会所の経営は厳しいですが、棋力面で見た場合一概には言えないにしても、私の感じでは碁会所の方が強い人が多いように感じます。
 お金を払ってでも打ちにくるのですから当然とも言えますが・・・
  教わる時もこういうことが関係あるかも知れません。
 お金を払ってでも教わりたいというのも熱意の表れだし、授業料を払った以上きちんと教わろうとするだろうし、教える側だって責任を感じて一生懸命やるでしょうし・・・
 もっとも私がお金を取って教えると言っても、生徒は集まらないに決まっているからやはり先生となるには相応の力がないといけませんね。

 話は戻ります
  「師匠」と思うとき・そう呼ぶときでも同じでしょうが、何かしら心のつながりみたいなものを感じますが、私の勝手読みでしょうか。
  まあ、日本語としての解釈はともかく私はそう思っている。
 中国では「老師(ラオシ)」と呼ぶらしいが、これは年齢とか性別は関係ないらしいから、昔中国から来たうら若いリーリー先生、シェンシェン先生を「ラオシ」と呼んで閉口させていました・・・
 当然両先生とも私の師匠(老師)です。