先日嘗ての同僚が残念なことに旅立った話をしました。
彼とは1年半くらい机を並べた仲ですが、無口なタイプだし自分の話はしない人でしたから、彼が私と同じ県の出身だということは彼が病気で長期療養に入る直前まで知りませんでした・・・しかも大学も同じ・・・同じ時代に同じ場所で同じ空気を吸っていたという事です。
マア、彼は真面目に勉強していて私は遊んでばかりいたので接点はなかったでしょう。
残念なことになりましたが、葬儀は故郷でで行われこちらからは元上司と同僚が代表で参列しましたが・・・こういう種類の話・場面になると、よくわからないけれどオカシクなって来るのですから私の性格は悪い。
人が悲しんでいる場面で・・・イヤ深刻な場面ほど笑いたくなるのですから困ったものです。
これは他人事だからという事でなくて、自分の両親の葬儀でも火葬場でもそうだった・・・深刻な顔・顔・顔、湿っぽい読経・・・僧侶の顔を見て・僧侶の声を聞くとついつい「笑っちゃうしか無いではないか」という気分になり、そういう衝動に駆られてしまう。
さてさて困った性格ですが、今回は別の問題で笑ってしまいました・・・(公然とではなく心の中だけです)。
彼の場合は病を得て、恐らくは本人も親族も避けられない問題と向かい合ったはずです。
それは私など想像もつかない心理でしょう。
しかし、同情する余裕があるのか無いのか?
よく考えたら、事務所の中で仮に彼に続く順番をつけたら、かなりの確率で私は上位のはずです。
しかも彼のように「向かい合う時間」は無いのかもしれませんし、日々向かい合っているとも考えられなくもない。
少々品位に欠ける囲碁用語出言うと「アッと言ったがこの世の別れ」となるかもしれません。
何といっても前の主治医には「あなたは数年後には必ずバイパス手術が必要になるでしょう」とタイコ判を押されているのですから。
心臓周りの血管に難点があって、血圧が高くて、血液も不良品・・・そうして見るとよく生きていると感心したくなります・・・オーバーに言えば日々サバイバル
(本当はそういう生活を楽しんでいるところも少しはある)。
さて、アクシデント(イヤ想像できるのでアクシデントとは言わないかもしれませんが)が現実になったら!
毎日の自転車通勤は良いとして、軽いウォーキングは良いけれどジョギングはとんでもない話で、団地を訪問して5Fまで一気歩いてに上った話を担当医師にしたら「無茶はしないで下さい」と注意されたほどです。
でもマア、仮にアクシデントが起きたら・・・
盛大なお別れパーティは願い下げですが、家族と親族、知人ぐらいはお別れしたいものでしょう。
ところがその時中央に飾る写真が無いことに気がつきました・・・例の菊の花に囲まれた額入りの肖像写真は用意が無い。
私は自分の顔が写る写真が嫌いなので、一番最近なのは娘の結婚式の集合写真しかないはずです。
モーニング姿は良いとしても、祝いの恰好の写真しかないなんてなんだか可笑しいですね。
また従兄弟に肖像画専門のプロはいるけれど、アイツに頼むと相当ぶったくられるに違いないから、そういう無駄は出来ません。
代案も思いつきました。
顔ではなくて手の写真が代役にならないだろうか?・・・中指と人差し指で石をつまんで、まさに打ちおろそうとする瞬間の手・・・これならひそかに用意出来そう。
「家族よりも囲碁を愛したヘボ碁のオヤジ」にぴったりでしょう。
それに、自分の顔を見なくて済むし
それとヘボながらも考えて打とうとする気持ちだけはあったという事で、手で湯呑を持っている場面の手と湯呑の写真も良さそう(顔は無し)・・・
もうひとつオマケに、扇子で「パチッと鳴らす瞬間」の写真。
出来たら呉清源師か石田芳夫先生の扇子が良い・・・
こんなことを考えているのですから、楽しい想像で、悲しい顔にはならないはずです・・・昔から一人遊びの天才だったかもしれませんが、やはり、まじめに生きているのかどうか疑われるに違いない
彼とは1年半くらい机を並べた仲ですが、無口なタイプだし自分の話はしない人でしたから、彼が私と同じ県の出身だということは彼が病気で長期療養に入る直前まで知りませんでした・・・しかも大学も同じ・・・同じ時代に同じ場所で同じ空気を吸っていたという事です。
マア、彼は真面目に勉強していて私は遊んでばかりいたので接点はなかったでしょう。
残念なことになりましたが、葬儀は故郷でで行われこちらからは元上司と同僚が代表で参列しましたが・・・こういう種類の話・場面になると、よくわからないけれどオカシクなって来るのですから私の性格は悪い。
人が悲しんでいる場面で・・・イヤ深刻な場面ほど笑いたくなるのですから困ったものです。
これは他人事だからという事でなくて、自分の両親の葬儀でも火葬場でもそうだった・・・深刻な顔・顔・顔、湿っぽい読経・・・僧侶の顔を見て・僧侶の声を聞くとついつい「笑っちゃうしか無いではないか」という気分になり、そういう衝動に駆られてしまう。
さてさて困った性格ですが、今回は別の問題で笑ってしまいました・・・(公然とではなく心の中だけです)。
彼の場合は病を得て、恐らくは本人も親族も避けられない問題と向かい合ったはずです。
それは私など想像もつかない心理でしょう。
しかし、同情する余裕があるのか無いのか?
よく考えたら、事務所の中で仮に彼に続く順番をつけたら、かなりの確率で私は上位のはずです。
しかも彼のように「向かい合う時間」は無いのかもしれませんし、日々向かい合っているとも考えられなくもない。
少々品位に欠ける囲碁用語出言うと「アッと言ったがこの世の別れ」となるかもしれません。
何といっても前の主治医には「あなたは数年後には必ずバイパス手術が必要になるでしょう」とタイコ判を押されているのですから。
心臓周りの血管に難点があって、血圧が高くて、血液も不良品・・・そうして見るとよく生きていると感心したくなります・・・オーバーに言えば日々サバイバル
(本当はそういう生活を楽しんでいるところも少しはある)。
さて、アクシデント(イヤ想像できるのでアクシデントとは言わないかもしれませんが)が現実になったら!
毎日の自転車通勤は良いとして、軽いウォーキングは良いけれどジョギングはとんでもない話で、団地を訪問して5Fまで一気歩いてに上った話を担当医師にしたら「無茶はしないで下さい」と注意されたほどです。
でもマア、仮にアクシデントが起きたら・・・
盛大なお別れパーティは願い下げですが、家族と親族、知人ぐらいはお別れしたいものでしょう。
ところがその時中央に飾る写真が無いことに気がつきました・・・例の菊の花に囲まれた額入りの肖像写真は用意が無い。
私は自分の顔が写る写真が嫌いなので、一番最近なのは娘の結婚式の集合写真しかないはずです。
モーニング姿は良いとしても、祝いの恰好の写真しかないなんてなんだか可笑しいですね。
また従兄弟に肖像画専門のプロはいるけれど、アイツに頼むと相当ぶったくられるに違いないから、そういう無駄は出来ません。
代案も思いつきました。
顔ではなくて手の写真が代役にならないだろうか?・・・中指と人差し指で石をつまんで、まさに打ちおろそうとする瞬間の手・・・これならひそかに用意出来そう。
「家族よりも囲碁を愛したヘボ碁のオヤジ」にぴったりでしょう。
それに、自分の顔を見なくて済むし
それとヘボながらも考えて打とうとする気持ちだけはあったという事で、手で湯呑を持っている場面の手と湯呑の写真も良さそう(顔は無し)・・・
もうひとつオマケに、扇子で「パチッと鳴らす瞬間」の写真。
出来たら呉清源師か石田芳夫先生の扇子が良い・・・
こんなことを考えているのですから、楽しい想像で、悲しい顔にはならないはずです・・・昔から一人遊びの天才だったかもしれませんが、やはり、まじめに生きているのかどうか疑われるに違いない