なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

友達を思い出す言葉

2009-07-31 01:49:04 | Weblog
 普通に話したり考えたりしている時・・・当然こういうことは言葉で行うわけですが、使う言葉・単語によって思い出がよみがえることがあります。
 言葉そのものは一般的なものであっても、あたかもそれが固有名詞みたいに心の中では特定な人と結びついているものもあるのです。

 昔・・・大学を出て社会人になったばかりとはいえ社会人の自覚が無く、学生気分の延長みたいな気分で生活していた頃の時代です。
 私としては趣味の中に囲碁は入っていましたが、それでも囲碁道場に通うようになる以前のことですので、趣味「囲碁」「競馬」「麻雀」が同じくらいの比率で混在している時代。
 社会人と言っても、単に仕事をして生活費を稼いでいるということであって、仕事をする主たる動機としては遊ぶために仕事をしているだけみたいな形でした。
  周りから見れば危なっかしい生き方でしょう・・・それでも俗に言う「飲む」「買う」は無い、専ら「打つ」専門で、しかも一定の限度内で遊んでいたところはあるので、要領よく遊んでいるとも言えなくも無い。
 マアそんな頃
  週末には学生時代の仲間が我が家に集まったものです・・・我が家と言っても2DKぐらいのアパートですが。
 これは恒例の麻雀で、土曜日の夜に集まれば徹夜という事ですが、麻雀独特の音を極力出さないことと不用意な大声を発しない事・・・これはアパートですから当然です。
 ちょっと変わっていたのは、はじめから打つ回数と順番を決めて置くことでしょうか。
 普通麻雀は4人で遊ぶものですが、徹夜で遊ぶのですから当然疲れる遊びです・・・ですから初めからメンバーは5人以上集まって、抜ける順番を決めてある。
 抜けたら仮眠を取るもよし、皆のためにラーメンを作るもよし。
  それと終わりの時間を設定して遊ぶ回数もあらかじめ決めて置きます。
 概ね、近所の食堂で「ランチ」が始まる時間に設定します。
  そしてその日一番勝った人が皆にランチを御馳走する栄誉に・・・
 従って一番勝ったといっても、大して儲からない場合は勝者の悲劇があるわけですが「御馳走する栄誉」は逃れられません。

 そういう時代友人にS君と言う人がいて、物静かですが時として鋭い指摘があるタイプ。
 彼の口癖は「膨大なゼロ」。
  彼の麻雀としてのタイプは「堅い」、大負けしないけれど大勝も少ない。
   見方を変えれば「巧い」けれど、力強くは無いかもしれません。
 従って一番勝ったとしてもそれは相対的な数字であることが多かったわけで、徹夜で労力を使った割には差が無いという意味。
 尤も、「皆にひれかつ定食を奢る栄誉は譲れない」と冗談を言っていたものです。

 こういう友人たちとの遊びはそれぞれが仕事の場での責任が大きくなるにつれ、それぞれが家庭を持つようになり自然に無くなっていくものです。
 そして彼も故郷に帰って行ったのですが、数年後に亡くなったという・・・
  帰郷後は誰ともつき合いが無くなったようで、所謂風の便りで知りました。
 今でも「膨大なゼロ」は彼の記憶が蘇るキーワードになっています。
  麻雀に限らず囲碁をであっても、対局数が膨大であって結果はイーブンみたいな時、ふと頭の中に「膨大なゼロ」がよぎります。
 「こんなに打っても成長するわけでもないのに」という自嘲めいた意味と、「こうやって仲間と遊んでいる」という思いと・・・さてこれは大いに無駄なのかそれとも幸せな事なのか。