なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

鷹揚な打ち方が出来ません。

2009-07-30 05:07:07 | Weblog
 先日名古屋場所が終わりましたが、最近相撲を見ていて「横綱相撲」という感じの相撲が見られなくなったような気がします。
 表現が適切かどうかわかりませんが「勝敗を争うスポーツ」としての相撲になっているような気がします。
 昔ほど力士間の実力に差が無いというか・・・
 立ち会いのテクニックが勝敗を左右する確率が高い・・・相撲というスポーツでは当たり前でしょうが・・・それが早く立つことに意識が行って、きれいに立つという方はややなおざりにしているような気がして、私としては立ち会いに”いやらしさ”を感じる相撲が多くなったような気がしています。
 それと勝負の最後の瞬間・・・
 豪快に投げ飛ばすことも相撲の醍醐味なんですが、一方で既に勝敗が決しているような形なのに、なおかつ土俵下に突き落とすような場面が増えています。
 ”かばい手”のような相手を思いやるような形はまずは見られなくなっている。
 それだけ勝負が厳しくなっているともいえるし、力士間の実力差も小さいので、そういう勝負以外のところで気持ちを働かせる余裕が無いのかも知れないとは想像はしているのですが、一方で人間のスケールが矮小化しているようなかんじもするので、少し寂しい気もします。

 ところでアマのザルどうしの囲碁では横綱相撲というのは無理な話です。
  立ち会い相手十分でも受けて立って、がっちり相手の圧力を受け止めて、逆に前に出るとか圧倒する・・・
 これが出来るのは、例えば向こう3子くらいの相手が楽番で向こう先で打つような時くらいでしょう。
 いや、これでも横綱相撲などと恰好をつけていると“金星”を提供してしまうかもしれません。
  
 問題は多分対局条件での打ち方より、プレイスタイル・棋風の方でしょう。
  囲碁の場合は仮に相手十分でもこちらも十分という別れがあるはずで、定石と言われるならそういう形になるはずで、コミによって必ず勝敗が決まるとは言ってもそれは最後のヨセの場面までいかないとわからないはずです。
 勝負である以上「相手には十分な体制はとらせない」中で「自分十分を目指す」わけですが・・・どうも性格が悪いというか、後者の方に意識が行きすぎるようなところがあります。
 だから時として「囲碁って性格が悪い方が強くなるんですよね」などと言われてしまったりする。
 「よく考える」=「相手の邪魔をすることを考える」ような・・・
   
 水曜日に一局打ちまして・・・飛んだり跳ねたり、時には相手に目くらましをぶつけたり・・・まさに私らしい碁ではあったけれど、打ちながら自分でも「こんなんで良いのか?」と思いながら打ちました。
 徹底して相手に地を持たせない打ち方というか・・・自分でももうちょっと鷹揚な打ち方の方が良いような気がするのですが、具体的にはどうすればよいかはわからない。
 知り合いに言わせると「時として友達が出来ない打ち方」なんだそうで
  別な表現で言えば「厳しい」のなら良いのだけれど、単に「セコイだけ」だったりしますから、そこが問題です。

 勝負は運よく「中押し勝ち」でしたが、対局終了後の「たいへん勉強になりました」という文章が気になります。
 その言葉の上に「こんな碁も有るのかと」という言葉が乗りそうで、素直に喜べない1勝でした。
 これで今月は5勝4敗・・・星取りとしてはともかく、内容はマダマダ。