なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

今月3勝目

2009-07-16 17:47:06 | Weblog
 今月は初めの方で3連敗が入ったので、どうなる事やらと心配した(その時点で1勝4敗)のですが、その後なんとか踏ん張って現在のところ3勝4敗となったので、結局はマアマアペースにはなってきたように思います。
 となると、なんだか「泰山鳴動ネズミ一匹」みたいな感じもします・・・これが一局ごとに点数が変化してハンデを微調整する効果でしょうか。
 起き上がりこぼしの重力の仕掛けみたいなものですね。
  それでもこの振幅の大きな人とか、あるいは同じ人でも振幅の大きな時と小さな時とがあるのが面白いですね、きっと心理的な波とか調子の波があって、それが相手の波との関連で増幅したり、そういう変化も生じるのでしょう。

 ところで、ここは実名サイトですが(かなり)以前は月ごとの成績がホームページに掲載されていたものを見ることができたのですから面白いというか恐ろしいというか・・・でもそれはそれで楽しみでもあったり。
 毎月の集計が月明け2日あたりに更新されます。
  最多対局、対局数ベスト10とか最多勝利数、連勝数、1か月の点数のアップベスト10とか・・・
 今は流石に個人情報保護の時代で、会員限定という形でも発表されることは無いようです。
 成績の良かった人を褒めるのに問題はなさそうなんですが・・・悪かった人もわかってしまうので嫌んですね・・・ましてや会員以外も覗けるページです。
 おそらく会員の方からクレームがついたのでしょう、私個人としては「鈍感な性格」ということもあるでしょうし、そういう風に発表されることに慣れてしまっていることもあってさほどには嫌でも無かったのです。

 団塊の世代ですから何をやるにも分母が大きい世代で、常に競争させれれていたし、他の人と比較されるよなところがあったので、そういうのが嫌だという感情はあるにしても一方でそういう扱いに慣れてしまっているようなところがある。
  うまくいくより「ちょっと惜しい」結果の方が普通でしたから悪い成績でもそれはそれだけのことで挫折では無かったし。
 言い換えると個人の立場の弱い世代であり、そのおかげでけっこう図太く生きている世代でもあるかも知れません。

 囲碁の点数も結局収まるところに収まるのでしょう・・・いつの日かダウンした成績が回復不能になる日が来るとは思いますが。
  それでほっとする心理と、いつも「どこかに収まる」つまらなさを感じるのですから我ながら勝手なものですね。
 大きな変化・大きな飛躍を夢見ながらそれは叶わないし、一方で「収まって」ほっとしている小市民的な・・・イヤマアそんなものですね。
 

段位詐称?

2009-07-15 11:05:59 | Weblog
 先日仕事で市内の所管する事務所の立ち入り調査の途中で、やや暇というか空白ができた時に、顔を上げると壁に額がかかっているのが見えました。
 ここは先方さんの仕事場であり、仕事上の打ち合わせもするのでしょうから仕事に関する資格などの証明証かと思ったのですが、毛筆で書かれている。
  こういう免許は普通は趣味のものですね・・・私もタンスの中に日本棋院の免許証が眠っていますが、もし自分で事務所を開くようなことがあれば飾るかもしれません(恥ずかしながら)。
 毛筆で書かれ、額に入った免許を見て少しでも感心してもらえれば良いし、商売にも役立つかもしれません。
 まあ実際の役に立つかどうかは別にしても、話のネタにはなりそうです。
  それで、そこにかかっていたのは○○流の師範免許
   顧問が元総理大臣経験者、もう一人の顧問が元女性大臣
  それは詩吟の師範・・・首相の経験者とか元大臣とかが詩吟でどれ程の権威付けになるかは知りませんが、マア趣味の世界でも頑張っている人なのかとは思いました。
 ただ、頭の中では次に「段位詐称」という問題に移っていました。
  仕事をしながら、自問自答とか話題を広げたり・・・脳の中がツーウェイ構造というか分裂構造というか・・・亀裂気味ではあります。
  どこぞの新県知事の問題がありました・・・「二段の実力があると言われたので、自分は二段だと思っていた」みたいなことでしたよね。
 結論から言えば学歴詐称とは違うので有罪か無罪かと聞かれれば無罪のほうに投票するでしょう。
 但し、剣道2段ということを広言して結果的にせよ好感度アップに利用された面はありその点は道義的責任はあるだろうと思うし、さらに好感度アップに敢えて利用した面も否定できない面はかなり濃い灰色だとは思っている。
  利用可能なものは何でも利用するという厚顔無恥・・・
 更に言えば、免許も受けていないのに段位を名乗る常識の無さは問題ですね。

 これが柔道だったら、わたしの認識違いかもしれませんが、柔道が講道館が創始したスポーツである以上段位は講道館が許可するものしか無いはずです。
  従って勝手に柔道○段を名乗ることは出来ないはず。
   柔道○段=講道館○段のはずですよね。
 これが剣道の場合は流派が多いし、歴史的には自分で○○流を名乗ることもできたでしょうからそういう権威付けは曖昧化もしれません。
 但し現在は「連盟」のようなものがあるはずだし、それとの関連問題はありそう

 ところで囲碁の場合は
  通常は日本棋院とか関西棋院が発行する段位が標準でしょうが、碁会所ごとに段位を名乗ることだってある。
  この場合、高段位を名乗って陰で笑われたり、面と向かって「ヘボのくせに」という発言に耐えられるのなら本人の判断のような気もする。
  つまり、段位の前に権威付けをしている団体名を付ければ詐称問題とはならないはずです。
 「アマ囲碁8段」と言ってたとしても「○○碁会所8段格」と言うなら、笑われること眉をひそめられることはあったとしてもインチキではない。
  あるいは「自称8段」と発言しても法的に間違いはない。
  それを単に8段と言うと、これは日本棋院発行段位をかたったような、あるいはそういう想像を誘う曖昧な表現であるということでインチキ性が高い。

 そういえば昔のわたしの経験話・・・仮称N山さんということで
  碁会所で熱心な方で、すでに停年退職していますが在職中は会社でプロ棋士を招いて囲碁クラブの指導を受けていたりしたらしい。
 そういう関係でおそらく日本棋院の段位を取得しているらしいのだが、本人は決して認めない、そういう人がいた。
  周りは冗談で「N山2段」みたいな呼び方をするのだが、敢えて素知らぬ態度をとる・・・
  その碁会所では会員の名札を段級位に分けてかけていますが対局はそれぞれの持ち点によるハンデで打ちます。
 そしてひと月間の成績によって翌月は点数が変わると同時に、場合によっては名札の掛けてある場所が移動するのです。
 棋院などでは申請によって認められれば希望の免除が受けられるはずで、謂わば免状はその人のそれまでの最高到達点、ここでは場合によっては下がることもあれば上がることもある。
 したがって棋院の発行した段位とは異なることもあるわけで、もし所持している段位より碁会所でのランキングが低い場合は本人からは「言えない」こともある。
  まあ棋院○段と碁会所の○段と割り切れば良いのですが。
   そういう意味では最も権威があってしかるべき日本棋院の認定段位を名乗れないというのも寂しい話ですね・・・

 さて、人に聞かれて「囲碁○段」と言えば昔なら「良い趣味ですね」「お強いんですね」と多少は、本心ではないにしろ尊敬されたものですが、最近はそういうことはなくなってきたような気がします。
 囲碁の段位も、(もしあったら)パソコンゲームの段位も変わらないような受け取られ方になってきているような気がします。

ダウン

2009-07-14 01:00:36 | Weblog
 病気では無い・・・はずなんですが、月曜日はほぼダウン状態。
  ボクシングでいえばテクニカルノックアウトみたいなものです。
 いつもの週なら火曜日が仕事で”ウォーキング”する日なのですが、今週は相方の都合により月曜日に変更されていて、おかげさまでお天気には恵まれ過ぎた郊外ウォーキングとなりました。
 昔は雑木林や丘陵、畑とか荒れ地だったと思われる一帯に家が立ち並び、大型店やしゃれた店が並んでいるところ・・・私の住んでいるところは海を埋め立てたところにコンクリートの共同住宅を並べたところで、ここは一戸建ての住宅が並んでいる。
 わたしのように区分所有者から見ればうらやましい街ですが、暮らしているところがほぼ平坦な街に比べ、ここの道路は上り下りがあるのでそこのところが・・・
  イソップ物語のキツネみたいなもので、ここは住むのに私には向いていないと”足”がうめいたのです。
 もっとも毎日暮らしていれば慣れるかもしれません。
  若い母親などは前後に子供を乗せた例のママチャリで走っているのですから、慣れとか体力で乗り切れるのかも知れません。

 しかし、私には向いていないらしい・・・。
  強い日差しの中を、大した距離では無いはずなのに、歩いてばてました。
 いや、この”たいした距離ではない”が問題だったようで、車を使うとかバス路線を利用するには近いはずで・・・地図上は・・・それなのに駅から歩くのには上り下りがある分楽ではない。
 しかもここが一番問題なのですが、私は「同行の人に迷惑をかけたくない」という感じで「涼しい顔」を装い、実は内心必死で頑張ってしまうところがある。
 「暑いのでもう少しゆっくり歩きましょう」と言えればいいのに、「足腰が弱いジイサマ」と思われるのが癪で頑張ってしまう・・・我ながら馬鹿だ。
 『今日は腰の調子がおもわしくない』とか『膝が悪くて・・・』『若いころにけがをした足首が・・・』などなど言い訳は用意しているのですが、要するに持病+体力不足。
  スケジュールを終了して帰りの電車に乗って座れた時は天国でした・・・僅か20分の休憩でしたが。
 そして最後の難関は駅を降りてから事務所までの12分ウォーキングで、橋のアップダウンと国道にかかる歩道橋。
 これがオーバーに言うと最後の難関で、ここを超えればラスト150メートルのラストスパート!?。

 そして本当に最後は仕事を終ってからの帰宅チャリ35分。
  ともかく夕飯を終って、パソコンで囲碁観戦しながらお茶を飲んでいるはずだったのが気がつくと、お茶は冷めてパソコンの画面は対局者リストのまま。
 要するに観戦に入る手前で眠ってしまったらしい。
  時刻はすでに翌日になっている。
 家族も辺りの町の気配も寝静まっている様子で・・・超低音で入浴・・・まるで泥棒の入浴みたいに。
 しかし、疲れているのに4,5時間で目が覚めるのですから体力が無くて情けない。
 若いころなら朝まで寝ていたでしょうに・・・尤も若ければばてていないでしょうが。

 さて深夜入浴しブログを入力しているうちに目が覚めてきて・・・一応5時間睡眠の後ですから多少は体力電池が戻ってきている・・・そうなると「眠っていられない」・・・懲りないジイサマです。

PS
  それで結局・・・観戦しながら眠くなって、珍しくパソコンの電源を落として眠りました・・・起きているつもりにならないくらい眠くなったようです。
 そして目が覚めると、家の中は静かで物音がしません。
  女房殿はすでに出勤後で、居間のTVはつけっぱなしでああるが、音量が極小に絞ってある。
 時刻は7時。
  これくらいでも身支度をして朝食を食べられるので、7時でよかった。
   これがあと30分遅かったら、朝食を抜くか途中のコンビニで何か買うかのどちらかです・・・但し、朝の薬を飲まなくてはいけないから何か食べないといけないし、血糖値を下げる薬もあるからそれは空腹では服用できません。
 一方、朝食ではカロリーの問題はすくないものの、「ダイエットしなさい」と命令を受けているわけで、それは運動で体重を落とすのは至難の業なので、結局食物摂取量と摂取のタイミングでの調整に・・・
 何にしても微妙なバランスで生きているわけで、「痩せの大食い」なんていう人がうらやましい。
 当方は夏場は水を飲んでも太るくらいの体質です。
  いずれのしても、疲れているときは例え夜中に目が覚めても、遊んでいてはいけませんね・・・そういうことは体力が許さない年齢になったようです。

丁寧過ぎ?(過ぎたるは・・・)

2009-07-13 17:28:20 | Weblog
 ネット碁では点数制度でハンデが決まって打つのですが、実名制度で聞きなれた名前の方であっても実際にお会いしたことがある人は一人もいません。
 従って人格的にも尊敬できる人が多いでしょうが、実際にはそこまでの感情は無いし、ましてや囲碁に関しては自分と先くらいのハンデの人と打つことがほとんどなので、囲碁としても「ザル仲間」みたいな親近感はあってもお互い尊敬の念を持ったり持たれたりと言う事は無いと思うのです。
 一方で言葉の問題でしょうが、たとえば碁会所などで顔を合わせた人に「一局打ちましょう」とほぼ同意語で「一局教えてください」はある。
 これは言葉通りに外国語に訳す場合は、両人の棋力の関係とか普段の人間関係とかベースを分かってないとどういう意味で使ったかが難しそうに感じます。
 マア、でもリアルで実際に顔を合わせて交わす言葉であるなら、その辺りのニュアンスはお互いに分かることではある。

 ところがネット囲碁の場合は少し困ることがあります。
  最初に対局前に挨拶を送信し合うのですが、これはいくつかある定型句から選べます。
 私の場合は「よろしくお願いします」一本で、挨拶の場合はこの言葉にセットしてある。
 同様に終局時は勝っても負けても「ありがとうございました」です。
  バカの一つ覚えではありませんが、礼儀としての挨拶ですからこれで良いと思っているのですが、実は定型句にもいろいろあって、中には「ご指導よろしくお願いします」とか終局時に「ご指導ありがとうございました」とか更にその後に「たいへん勉強になりました」と言うのがあるから、もしもこういう言葉を受け取るとなんだか気恥しい気分になってしまいます。

 いくら言葉のアヤで「ご指導お願いします」=「頑張って打ちましょう」、「ご指導ありがとうございました」=「どうもありがとう」程度、『たいへん勉強になりました」=「お疲れさま」くらいの意味なのは分かっていても、どうもまともにこういう挨拶文を送られるとどうも居心地の悪さを感じてしまうのです。
 長い一局の中には当然酷い手を打ってしまって悔やむようなことはもあるわけで、そういうことを感じている時に「勉強になりました」が来ると鋭い錐で刺されたような気分で、ついつい落ち込み気味になります。
 ましてや相手がしっかりした碁を打って、こちらが酷い手ばかり打って中押しで「ごめんなさい」した時に「ご指導ありがとうございました、大変勉強になりました」が来ると落ち込みはさらに激しくなります。
 
 私が「よろしくお願いします」と「どうもありがとうございました」しかセットしていないように、その人は「ご指導」と「勉強になりました」しかないのかも知れませんが・・・時と場合によっては丁寧な言葉は嫌みに響きます。
 むしろ、意識的にそういう表現にしているような気さえしますが・・・
  いや、嫌みだと感じる自分も情けない感じがします。
  

韓ドラシンドローム?

2009-07-12 16:55:46 | Weblog
 土曜日は前日までの天気とは打って変わって湿度は低くさっぱりとした天気でしたね。
 この時期にこういう天気に恵まれるなんて・・・記憶にない。
  ですから、梅雨の晴れ間の洗濯日和だし、布団干し日和でもあり、女房殿が張り切る日でもある・・・『ありがたい、ありがたい』と言いながら一人で家の中を走り回っている。
 しかも、午後はフラダンスサークルの練習日で、夜はバドミントンクラブの定例練習・・・何とも達者なバアサマですから、私の方が取り残されて”寂しい老後”という心配は無さそうなことだけは安心であるけれど、傍迷惑に近い元気とも言えるかもしれません。

 そう言うわけで、私の部屋のベッドの寝具もはぎとられて物干し行きですが、それでも他に行くところも無いので、そのベッドでに居座ってネットで囲碁観戦。
 何局も観戦しましたが・・・最後まで観戦した対局が無い。
  途中で記憶が曖昧になり、いつの間にか対局が終わっていて両対局者はいなくなっている。
 要するに私は途中で眠っている。
  まるで子守かわりにネット観戦・・・こういう状態は観戦と言えるかどうか恥ずかしいですが。
  そう言えば女房殿などはTVでサッカー観戦をしながら居眠りするのが得意なので、「普通そう言うことは出来ない」と嗤われているのですが、まさにメクソハナクソみたいな夫婦です。

 それでこういう状態で・・・
  「家の娘が親友の息子と婚約をしまして、彼はバツイチなんですが娘の方が納得して・・・」「彼が遊びに来ると家の中で準備で忙しく動き回って・・・」と言うストーリーなのですが、これが最近見た韓ドラのパクリ。
 いや、パクリと言うよりあっちの話に私が夢で出演していたようなものです。
  囲碁観戦していたはずがこういう夢。
   本当の親友、唯一の親友は20年以上も前に他界していて、彼には息子では無くて愛娘が一人・・・。
 家の娘は資格を取ると、さっさと結婚して家を出て行ったのですから夢のストーリーとは設定がまるで違う。
  所詮夢と言えば夢、それにしても何とものんびりしたジイサマの見そうな夢でした。
 考えてみると高校時代に夢中で英語の勉強している時代は英語で寝言を言って家族を驚かせたことがあるし、寝ていたと思ったら突然寝言でお説教じみたことを言ったりもする・・・要するにその時一番興味のある世界に浸ってしまう性格らしい。
 と言う事はドラマの世界に興味が惹かれているのか・・・マアいずれにせよ「のんびり」した「ジイサマ」には違いないが、夢の世界から目が覚めなかったら?

ああ3連敗

2009-07-11 09:49:38 | Weblog
 7月に入って1勝はしたものの4敗、しかもこのところ3連敗。
  まあ、さして珍しくも無いことではあるけれど、連敗と言うのは進行中の場合はどこで止められるか分らないと言う不安があります。
 「そろそろ」なのか「まだまだ」なのか・・・
 私は経験が無いのですが、不景気の時の株の値段と言うのもこういう感じかなと言う気がします。
 そう言えば若い頃夢中になっていた競馬もそう言うところがありました。
  競馬の言葉で「まだはもう、もうはまだ」と言うのがあります。
 要するにどう転ぶか勝負事は分からないわけで、結果が出てしまえばいかようにも説明は出来ると言うことでしょう。
 
 尤も囲碁の場合は競馬とかサイコロを振って勝負を決めるようなものとは違って、必ず敗因はあるはずです。
 それは確率的なものでは無くて、専ら自分自身の棋力に原因があって、他には相手の方との棋力の相対的な力量差と言うものでしょう。
 本当はその時の体調・心理的コンディションなども関係あるとは思いますが・・・

 ともあれ3連敗。
  このところのお天気みたいに鬱陶しい感じの敗戦続きですが・・・何とそのお天気が・・・外を見ると明るく晴れています。
 しかも、窓を開けるとさわやかな風が入って来ます。
  昨日の深夜暑苦しくて我慢できず、押し入れから扇風機を取り出してリズム扇でタイマーセットして寝たことが嘘みたいなお天気です。
 まるで梅雨明けと言うか瞬間秋晴れみたい。
  このお天気で気分転換して連敗脱出をかけて頑張ってみようかななどと考えましたが、考えてみたら私だけ天気に恵まれたわけでは無いから・・・もしかしたら相手も私と同じように気分を一新して対局に臨んで来たら・・・などとちょっと心理的な凹みは修復途上のようです。

 本当は単に巡り合わせとか、調子が悪いから負けたと言うより、戦いの仕方が悪かったような気がしている。
 十分な体制が取れていないのに」、ファイトだけは満々で、先に仕掛けてしまう悪い癖が出ている。
 その上、鎬が見えていないのに理由も無く楽観していたり、不安を感じながらもケアを怠ったり・・・
 こういうことは実戦不足もあるし、棋風以前の性格かも知れませんから、きっとこの先も自分のこういう欠点と長く付き合うことになるでしょう。

 ともあれ、3連敗したところから出発し直し。
  そうだ、気分転換ついでにこれから床屋さんに行って来ます。
 本当はこどもの頃から床屋さんは好きではないけれど、マアこれも気分転換にはなると思います。
 

夜中にお宝勘定

2009-07-10 17:35:25 | Weblog
 落語で言ったら・・・夜中に辺りが寝静まってから、畳の下とか台所の板の間の下から壺を出して、隠しておいたお宝を勘定して充実感・満足感を味わって幸せな気分に浸る・・・のならよいのですが。
 しかし我が家には縁の下も畳も存在しないし、そもそもお宝が無い。
  昔の歌人が歌った最大のお宝・子供にしたってとてもお宝とは呼べそうもない
 但し、手持ちの薬の種類と量はもしかしたら宝の山かも知れません。
  今は可能な限りジェネリック薬品にしてもらっていますが、それでも定期検診後に薬局に行く時はある程度のお金を財布に入れておかないといけない。
 これが以前ですと全て先発薬でしかも6週間とか8週間分の薬代でしたから私としてはとんでもない金額で、社会保険のある国で良かったと泣き泣き喜んだもので、確定申告用に薬代の領収書を整理しておいたものです。
  
 薬代の負担は以前よりは多少は軽減しましたが、それでも健康の人から見たら無用な出費ですね。
  私にとってはまさに必要悪みたいなものです。
 私の財布を通過して支払われる項目の第1位が調剤薬局の薬代で、第2位が総合病院・循環器内科・生活習慣病クリニック・歯科大での医療費、第3位はぐっと下がって本屋さんかCDレンタル・・・昔ならエンゲル係数が貧しさの指標でしたが、私の場合はホスピ係数とでも言いましょうか、生き残るために他のことを我慢する係数でもあります。
 そう言うことで、定期検診の日は薬局から薬が出るのでその整理の日でもある。
  いくつかの病院・医院から出ている薬は全部で13種類!。
 朝・昼・晩・就寝前とか、食前、食後とかいろんなパターンがある。
  
 さて夜中にネットで囲碁の観戦をしながら薬の整理です。
  種類別に分けて入れられる箱に区分けして保管・・・1つずつ取り出せる状態にハサミで切っておいて保管して、入りきらないものは別の保管箱。
 更に夜のうちに翌日分の朝・昼・晩・就寝前用の準備。
  折角の薬なのに飲み忘れは医師から見ても治療の予定が狂うからいけないが、かと言って飲み忘れたからと倍薬を飲むような辻褄合わせは危険・・・従ってすこしずつ手持ちが増えて言って、時々調整が必要。
  ともあれデータ的に調子が良いのですから薬が減っても良さそうなんですが、なかなかそうはいきません。
  
 調子が良いのに今回みたいに1つ薬が増えることもある!!。
  検査のデータでは結果上々なのに薬が増えたのです。
 要するにデータが良かったのは病気の状態が改善されたと言う事より、薬が効いた結果に過ぎないと言う事で、試しで使った薬を常飲しなさいと言うことに・・・。
  医師も「運動は大切ですからしなくてはいけませんが、あなたの場合は適度と言う部分が難しい・・・心臓が心配・・・運動のやり過ぎに気をつけて」となるから・・・裏読み且つ深読みすると、「治ることはないですから、気をつけて少しでも長く持たせましょう」「調子が良いように見えるのは、薬のおかげですから過信しないように」となるようです。
 と言うことは、一生お医者さんと薬からは縁が切れない。
  孫悟空にとってのお釈迦様、私はお医者様の手のひら・匙加減で生かしていただいているようなもの。
  薬が無用になった日が私の命日と言うことのようです・・・だとすると、幸せな姿?、夜中に薬整理するのは、この先長いか短いかは別として一生続くことになるのでしょう。

125万分の1

2009-07-09 18:32:14 | Weblog
 今朝のNHKの朝の番組で、「羽生の脳」についての番組紹介がありました。
  それほど難易度が高くは無いかも知れませんが、詰将棋の問題を1秒間画面に出されてそれを初手だけとはいえ回答する・・・この正解率が80%だそうです(他のプロ棋士の平均が60数パーセントだそうです)
 そしてこの一連の作業を脳のスキャンで観察して、脳のどの部位が活発に働いているかの観察。
 「直観力」に脳のどの部分が働いているのかの観察なんだそうです。
   脳の個人的な性能としては元が違うとは思いますが、その人が特殊な訓練を積み重ねた結果直観力が育って来ていると言うことらしい・・・
 簡単な例で言えば、パソコンのキーボードのタイピングもこういう訓練とは同じ流れらしいのですが・・・ともかく名人クラスになると脳の奥深いところで活発に働く場所があるらしい・・・

 そう言えば昔読んだ本で、深夜の暗闇の中で若手の棋士が暇潰しに棋譜を読み上げる・・・「誰と誰がいつ対局して、結果はどうだったかを当てる」と言うゲーム・・・10手、20手のうちにことごとく正解出たそうですから・・・こういう職業的な脳の働きは恐ろしいものがありますね。
 そして単に記憶だけでなく、問題を瞬時に読み取り瞬間で答えを出す・・・プロとはそういうベースがあるらしい。

 ところで、もうひとつプロの話
  こちらは神ががった話では無く、とても人間臭い話で、プロ棋士のブログで本人の経験談として紹介されていました。
 相手が公式対局に遅刻して失格した話・・・本当は私も詳しく感想を書きたいのですが、読んだ翌日に確認のために読み返そうと思ったら・・・消えていました。
 私は面白いと思ったのですが、何か不都合でもあるのかも知れない。
  私みたいなヘボではよくある話なんですが・・・
 例えばネットに対局希望が出ているので、当方もオファーを出した時に、偶然熟睡してしまったのか、あるいは不意の客なのか応答が無い時があります。
 当方が挨拶をして、先方が応じない場合1分後には対局が開始され時計が動き出します。
 そして5分間着手が無ければ自動的に失格。
  本来なら囲碁の楽しみを実現させてくれなかったのですから困った話ですが、時として「何もしなくても白星?」とよこしまな考えが浮かぶことがあります。
 そう言う時に限って、残り1分くらいで相手が着席したり・・・
  嬉しいような、あてが外れたような・・・こういうときは気持ちを立て直さないといけません。

 ところでブログの自分用の編集画面を見るとアクセス数が出て来ます。
  これは深夜の1時半ごろに更新されるようですが、私のブログも読んでくれる人がいて感謝しております。
 ブログランキングなるものがあるのですが、この分母が125万を超えている。
  有名人のブログや、生活に役に立つブログなどがきっと上位のはずですが、当方は無名で役に立つとも思われないしランキングを争うような気持ちも無い。
 そう言う意味でランキングは無視せざるを得ない。
  ランキングはともかく総数の125万超は凄い数字ですね。
 暫く更新していないものもあるかも知れませんが、それにしても凄い数字です。

今月のデータ好調

2009-07-08 16:30:00 | Weblog
 ネットの囲碁対局は7月に入って全敗・・・勝率にしたら0.000・・・マア1戦0勝1敗です。
 次に勝てば、勝てればすぐに勝率5割に復帰できるので悲観的状況では無いですが、他の勝負事でもそうですが、出だしで2つ勝てると『これでヤレル』見たな感じがして気持ちが落ち着くようなところがあります。
  ですから今のところ気持はやや落ち着かない状況です。

 ところで今日は生活習慣病の方の今月の検診日。
  午前10時半の検診ですから朝食7時から、食後3時間半後のデータになります。
 最近は先生に指摘されることが多くて、いろんな検査後に先生との1対1の検診・会話が気が重いのですが、そこのところは長年?の病院通い馴れと言うところで「何を言われようと私の体だから、先生に何を言われてもいいじゃない」と開き直って・・・。
 前回検査から4週間後の今日の検査では、体重は微減、血糖値正常・・・血圧正常・・・何と!データ的にはほぼ正常。
 マア、普通の人には必要のないケア多くの薬に助けられての結果ですから「万歳」を唱えるほどのことでは無い。
 むしろ、これで正常値をはみ出していたら「打つ手なし」状態とも言えるので、マア取り敢えず強のところは執行猶予で保釈みたいなものです。

 ところが今日は『!?』を見てしまいました。
  私の隣の方に座った人・・・私も大柄ですが彼はそれよりも大きい・・・大きな鞄から500ミリのペットボトル飲料を取り出して、待合室で一気飲み。
 そのからペットをしまったかと思ったら、今度はお茶のペットボトル・・・
  更に水のペットボトルを次々に空にして、待合室の水道でそのから容器に水を補給!!
 「これは一体何だ!」と言う光景。
  私は医者では無いし、何をしようと本人の問題ではあるけれど・・・想像するに血糖の状態が正常では無いのかな?と想像させる。
 初めて見る顔ですから・・・だからこそここに来たのかな?

  私も今日は結果が良かったけれど、悪かった頃はもしかしたら今日見た人と似たようなものだったのか?と恐ろしくなりました。
 「人の振り見て・・・」と「自分は自分とマイペース」・・・この配分と言うか、どちらにも偏らないバランス、あるいは問題によっては使い分けが大事なのですが、口で言うほど実戦は楽では無いですね。

会話のスピード

2009-07-07 18:57:38 | Weblog
 今日はタイトルのように「会話」で酷い目に遭いました。
  
 会話と言うと長年連れ添った夫婦の例として、何も言わなくても奥さんが察してお茶が出てくるとか・・・それが良いことなのか、一種の理想なのかはこの際別問題なので保留します。
 但し、会話の目的が意思を伝えることとすると、会話をしなくても意思が伝わるのですから、これが一番早い事はたしか。
 これは奥さんの献身から出来るのでしょう・・・ですから我が家ではほぼ不可能。
 当家は70年台の貧乏学生同士が結婚したので、未だに友達的なところがありますが、会話抜きで意思が通じるとは言えません。
 思いやると言うほどでは無くても、想像すると言う点で女房殿にはヤヤ欠点があるような気がしている・・・マア、解っていても無視していたほうが亭主がつけ上がらないという計算もあるかもしれませんが。
 ともあれ私がどういうことに気持のザラツキを感じ、どのあたりまでが我慢の限界点かなどと言うことについては無頓着なような気がします・・・これ以上は愚痴になるので沈黙はゴールドかも。

 ところで今日訪問した所管地区の事務所は酷かった・・・「酷い」と言う意味が問題ですが・・・
 私たちは法律の改正後の事務処理がきちんと行われているかどうか、事務所の仕事の処理を立ち入り検査で聞き取り調査をしたり、帳簿の提出をしてもらうのですが・・・これがきちんと揃っていれば20分とかからない。
 ソコソコでも30から40分で一つの調査が終わるはずが・・・今日訪問した3軒が3軒とも1時間以上かかって、しまったのです。
 特に2軒目の人・・・昔コメディァンで「早い話が・・・」と言いながら超スローモーで喋るあのパターンで、ともかく話すスピードが!!
 それがその人のキャラだとすればそれを怒るわけにもいかないし・・・
  一つ話をすると、必ずチェックが入る・・・だから一つのことを3回は言わないと・・・まさにそれを伝えに来たわけですが、度が過ぎる感じで心中穏やかでは無い。
 20数項目の話の全てがその調子・・・
  専門分野の資格を持っている筈なのに、何でこんなに通じないのか不思議
   会話のスピードそのものが遅くて、且理解のスピードが・・・

 でも、もしかしたら、こちらも自分の都合優先の思い上がりがあるのか知れないと、イライラしながらも少し反省も。
 もしも囲碁の先生が私たちヘボに教える時同じようにイライラするかも知れませんね。
 「何度同じことを言っても理解出来ない」
 「何度も同じことを注意されるのに・・・」
   更に悪いことに間違って理解したりして・・・
  
 

分かれ道

2009-07-06 18:14:34 | Weblog
 勤めの帰り道にフト考えました。
  私がもし電車通勤だとすると、まず家から最寄駅まで徒歩20分、JR電車で1駅乗って、そこから勤め先まで徒歩25分・・・これはゆっくり自転車を走らせる場合とほぼ同じ時間です。
 しかも自己エネルギー消費度と言うか歩くのが片道45分・・・もしかしたらこれが一番健康的な通勤方法かもしれませんが、通勤だけで疲労困憊する危険性が大きいのでやはり自転車通勤が無難なようです。
 しかも使っている自転車が、放置された自転車数台で再生したリサイクル車ですからエコ+リサイクルなわけで、これで通勤8年目ですから表彰されないのが不思議なくらいだと自画自賛しています・・・誰も褒めてくれないのですから。
 確かにマイカーを放棄したのですから当然の選択肢でしかないので、誰が褒めてくれようとあるいは褒めてくれなくても結果は同じなわけです。
 それでも、この通勤手当が電車の1駅分の通勤手当より安いのは・・・なんだか寂しい気持ちではある。

 さて、仕事を終って自転車で帰るとき、まず出だしは「今日の仕事は終わった!」と言う開放感もあり比較的元気にペダルを踏みだすのですが、間もなく「今日も疲れたなァ」という中だるみの状態と言うか、惰性でひたすら家の方向に自転車で走る状況に陥ります。
 本来なら、囲碁でも長距離走でも出だしはペースを作り、その時の体調や気象状況に合わせて中間疾走に入る、あるいはペースを維持しながら中間走に入る区間です。 
 私の通勤コースではこの中間区間が直線4キロ。
  まさに一直線で高低差はほぼ0の区間で、概ね5m幅の舗装か敷石の歩道を走るコースです。
 ですから、ここで多少でも良いペースで走れるか、あるいはうなだれ気味に走るかではタイムが全く違います。
 分かってはいるのですが、何の変哲もない道をひたすら走る・・・マアだからこそいろんな考えごとが出来るのでしょうね。

 本来なら中間疾走でカッコ良く走れれば良いのですが、若者には追い抜かれ,オバサンには置いて行かれ、子供を前後に乗せた若いママには問題にされていません・・・
 中間疾走では無く、単にマイペース。
  そしてこの直線が終わるところあたりで残り1キロ余り・・・今までの情けない疲れが不思議と薄らいで、『さて、これからどこに寄ろうかな?』という気持ちが湧いてくる。
 ここでの選択肢は本屋なら2軒、古本屋1軒、スーパー3軒、CDレンタル1軒、あるいはコミュニティの囲碁クラブ・・・
 丁度寄り道道草の曲がり角があるのです。
  気持ちの揺らぎに負けずにまっすぐ家に帰る確率・・・とても50%には及びません・・・マア3割打者と言ったところ。

辛抱する力

2009-07-05 17:14:04 | Weblog
 先日TVを見ていて知ったのですが、女子長距離界の草分けの佐々木七恵さんが亡くなっていたことを知りました。
 スポーツでも何かの分野でも突然優れた人が飛び出す・所謂トップランナー、そう言う人がいてそれに続く人たちが生まれ、層の厚い分野が形成される。
 彼女はまさに女子マラソンのトップランナーで、その後に増田、有森、高橋、野口などなどと続く流れが出来た。
 さて佐々木さんの走りを当時のマスコミは「おしん走法」と名付けた。
  辛抱する所は辛抱し、勝負ところで力を発揮すると言う意味で彼女の出身地と当時の連続ドラマ「おしん」を引っかけた命名です。
 そう言えば相撲でも「おしん横綱」と呼ばれた横綱がいました。
  共通点は「辛抱」と「出身地」でしょう。
 横綱の場合はやや低迷している時期にいろんな批判に耐えながらじっと辛抱して、チャンスを待って力を発揮したと言うことでしょう。
  
 スポーツ・勝負事・ゲームで、この辛抱すると言うことが大事なんですね。
  開始直後から自分が有利で相手との1対1の力に差があるのなら辛抱と言うことは必要ないかも知れませんが、実力が拮抗している相手、あるいは相手の方がやや力がありそうな時は「辛抱」と言うのも一つの武器になるかも知れません。
 問題は「辛抱する力」があるかどうか。
  相手の振り下ろす太刀を受けているばかりでは、やがて受けている方が疲れてしまうと言う恐怖感、あるいは実際にジリジリト不利な方向に追い詰められていくような感じ。
 これは現実にそうなるか、あるいは心理的にも押されている状況ですが、そこで状況打開策として一か八かの勝負に行くのが良いかどうかの判断が難しい。
 皮を切らせて肉を切るとか、肉を切らせて骨を断つとかの諺もあることですし
  こういう時に
 「今は受けるべき時」「受けていて不利なことはない」「きちんと受けることで、必ず来るチャンスを待つ」、単なる事なかれ主義とか自信不足では無くてそう言う気持ちになれるのには(単にそう言う感じ方になれるトレーニングでは無くて)状況を把握する力があって初めて出来ることですから、そう言う意味では「おしん」は単に忍耐力とか性格では無く自分に自信が無くては出来ないことだと思います。

 逆の場合・・・多少の攻めっ気を発揮して積極的に打つものの、相手はきちんと受ける・・・こんな場合攻め疲れ状態・攻めている方により多くの隙が出来ることが多い。
 辛抱しながらこのチャンスを待たれると非常に困る・・・私の負けるパターンの一つです。
 スポーツなどでの「攻め疲れ」「攻めが途切れた時の一瞬の空白」「攻めに専念する余り補給路の伸びきった瞬間」・・・攻める方にもリスクがあるはず。
 はじめに戻って、単に辛抱するだけなら「サンドバック」、「受けていて不利にならない」なら「おしん」と言うことでしょう。
 ポイントは「受けている状況で現在も将来も不利が無い」と考えられること、それに「必ずチャンスが来ると信じられる」こと・・・やはり内に秘めた自信が無いと難しそうです。

 
 
 
 

蟹釣り

2009-07-04 20:58:42 | Weblog
 先日職場の若い同僚たちとの話の中でザリガニ釣りの話が出ました。
  彼らの仕事は公園関係なので、池に棲むザリガニを子供達が捕まえに来るので、そう言うことが話題になったのでしょう。
 話は、ザリガニを釣るのにスルメで釣ると言う話題になっていました。
  私の感想としては、「流石に最近は遊び方も贅沢。昔の貧乏時代ではそんなぜいたくはできないから、カエルで釣ったものだ」と言う感じ・・・それを口にすると、その意味が解らない人が数人いた。
 まあ何人か分かる人がいたと言うことは、彼らは田舎出身なのかも知れない・・・
 要するにザリガニ釣りをするためには、まずカエルを捕まえて皮を剥ぐ。
  この残酷な行為が出来なければ、この釣りは出来ないので、まず女の子はやれない・・・実は私も出来ないのですが。
 それで足を凧糸のようなもので縛ってザリガニを釣るのです。
  ザリガニは一度ハサミで捕まえた餌を離そうとしないので、そのまま釣りあげられる。
 途中で離せば逃げられるのに、何とも奇妙なと言うか、欲張りが身の破滅を招くような教訓の釣りです。
  私はカエルの皮剥ぎが出来なかったし、さりとてスルメを餌にするような贅沢には抵抗があったのでザリガニ釣りはやらないで、専ら網で掬う専門でした。

 こういう釣りと似ているものに、蟹釣りがありました。
  一般的な遊びでもないから、もしかしたら我が家だけの超ローカルな遊びかもしれません。
 しかもすぐ上の姉と私の二人しかやらないのですから。
  釣る蟹は川に棲むせいぜい4,5センチの小さな蟹ですし、棲んでいる場所からも、蟹の大きさからも見てくれも食用には向きそうもないので、これは最後には逃がしてやります。
 要するに釣ることだけを楽しむ遊び。
  この釣りの餌はジャガイモで1センチ角くらいのものを使います。
  まず3センチから5センチくらいの釘の頭を糸で縛って1メートルくらいの長さでその先を竹の棒などに縛りまして、これで仕掛けは出来上がり。
 釣る場所は・・・我が家の兄の部屋の窓から、窓の下の川の護岸の石垣の隙間に棲む蟹が狙い。
 満潮になれば潮が上がって来る場所で、水の中でも水が無くても暮らせるらしい蟹がターゲットです。
 姉と二人で家の窓から釣ったもので、つりあげた蟹はブリキのバケツに入れますから、ごそごそと音を立てたものです。
 この釣りもザリガニと同じように、餌を挟んだハサミが最後まで餌を離さないから釣られてしまうと言う習性で可能な釣りです。
  もし、食べられるところだけ、僅かでも千切って逃げるような習性があれば蟹にしてみれば餌のタダ取りなんですが、目の前の餌は丸取りしなくては気が済まないのかそう言う習性で捕まってしまうのです。
 尤も、この蟹は美味しいのか不味いのか試そうとも思われないのが幸いして、最後には全員釈放となるのですが、それでも何度でも釣られるようなところがあるので学習能力が問題なのかも知れません・・・マアそれだから幼い子供の遊び相手になってくれたのでしょう。

 ところで、考えてみるとザリガニにしてもその蟹にしてもどことなくザル碁の習性に似ているところがあります。
 餌に関して敏感に反応してしまう・・・
  食いついたら我が身が危ないのに離さない・・・いや離せないところがあります。
 表現としては芝居の仙台のお家騒動みたいに、餌は「毒まんじゅう」、これに食いつくのは「ダボハゼ」。
 何にでも餌および餌モドキに食いつく、それも一口で丸飲みスタイル。
  これはザリガニにしても蟹にしても途中で「離す」という選択肢、あるいは自己防衛・救済措置があったのに対し、ダボハゼは一気に餌を飲み込んだところでゲームセットみたいなところがあります。
 と言うことはザリガニ・蟹よりレベルが低い!?
  目の前の食事が偽餌なのか安全で栄養価の高いものなのかを見極める力が問題です。
  それに何度も同じパターンで痛い目に遭っているのに、全く学習能力にも問題ありですから我ながら情けない。

 もしかしたらこれは子供の時に苛めていた蟹の祟りかもしれない。

ハンデにういて

2009-07-03 17:42:02 | Weblog
 昔、若いころに勤めていた会社では割合にゴルフが盛んだったように思います。
  経営者をはじめ重役連も、若い連中もやっていたような・・・まだバブルの真っ最中だったのでしょうね。
 それでも、月1回でも毎月コースに出るのは若い社員では楽では無いはずなんですが,これも浮世の付き合いと言うか趣味と上役との親睦と言うか・・・私の場合は囲碁をメインの趣味と定めていましたし、ゴルフが面白そうでもそれにつぎ込むお金も時間も無いので、いっそ半端に付き合うよりは距離を置くようにしていました。
 要するに仕事はソコソコやりますが、酒もゴルフもやらないで、正論と思えば誰とでも議論をする・・・マア煙たいタイプだし典型的なB。
 それでも、周りが好きな人ばかりなので自然にいろんな話が耳に入って来ます・・・その中でハンデの話。
 社内コンペなどでは社内用のハンデを設定していたようです。
  本来、カントリークラブなどの会員なら、原則としてハンデを差し引けばイーブンパーになるはずの数字がハンデになるはずなんですが・・・社内コンペのようなものでは相当に甘いハンデがついていたようです。
 これはある意味では囲碁のハンデにも似たような感じがします。
  例えばアマでも公式のシングルハンデの様な人は、調子の波が比較的少なくて、崩れてもその幅が小さいし、自分で持ち直すことが出来るでしょう。
 でも、初心・初級のアマなら崩れれば、止まるところを知らないわけで、こうなると数値化されたハンデは空しいものになってしまいます。
  ハンデにはその人なりの最善の結果に近いもので設定されているようなところがあるらしい。
 従って本来ハンデがあれば全員同じ結果のはずが、やはりハンデの小さい人の方が強いようなところがあります。

 マア囲碁でもそう言う面はあると思います。
  仮に5子置かせるような手合いで打つとして、ハンデがあるのだから本来結果は五分五分のはずですが、果たして20局くらい打って10勝10敗になるかどうか難しいと思います。
 50%の勝率が本来のあるべき姿ですが、私の感じ方が間違っているかもしれないけれど、どうも下手苦戦のように思っています。
  極端に考えれば五子で五分で打てるのなら4子でも打てるような・・・
 点数によるハンデ設定では割合50%に近く、三盤手直り満たな場合は比較的偏りそうな気もします。

 ところで昔読んだ「囲碁の外国事情」みたいな記事・・・ヨーロッパ方面だったと記憶していますが。
 レポートによると、「強い人も弱い人も置き石無しで打っている」と言うのがありました。
 勿論全部が全部ではないでしょうが・・・置き石と言う概念が無いのかも知れません。
 あるいは下手が「石を置く」ことを潔しとしないのかも
  さて、その意味は
 仮に日本でこのようにしたら、一局二局は良いとして、下手からは「負けてばかりでつまらない」「白ばかりが良い思いをしている」と言うようなブーイングが上がりそうです。
 確かに負けてばかりでは勝敗のあるゲームは面白くないかも知れません。
  でも石数の多い碁はトレーニングだし、勝敗にこだわり過ぎるのも変ですから、これは基本的には下手の黒さんの心得違いのような気がします。
  ともあれ(日本人的国民性?)、勝率50%に近づけるために置き石なるものが工夫されたのでしょう。
 ではヨーロッパで、ハンデ無しで打っていると言うことは・・・
  下手がハンデ無しで上手に負けるのは当然のこととして受け入れているのでしょうか?、その上で囲碁そのものをゲームとして楽しんでいる?
 あるいは、いつの日か勝てることを目指して平手でぶつかり稽古なのか。

 そう言えば相撲では横綱も平幕も、体重がどんなに違ってもハンデは無いのですから・・・そちらに近いのか?

 ところで昔置き石をコミに換算してどちらでも選択が出来るルールもあることを聞いたことがあります。
 仮に3子の手合いなら3子で打つかコミ30目貰いにするかは下手の選択権
  これは私が最も苦手、いや想像だけで手が出ませんが、30目の逆コミなんて、想像しただけで身の毛がよだちます

浴衣

2009-07-02 17:40:02 | Weblog
 1月1日は元旦、3月3日は雛人形、5月5日は端午の節句、7月7日は七夕、9月9日は重陽・・・11月11日?これは知りません。
 奇数のぞろ目の日は何かの日です。
  何の本だったか(陳瞬臣さんの本だったような気がしますが)、曖昧な記憶によると、陰陽で言うと奇数は陽で、このぞろ目の日は陽気が強い日・むしろ強すぎる日なので何かの祀りごとをして鎮める日なのだそうです。
 まあそう言う習慣とか、考え方があったのは古い暦の時代のはずで、現在の太陽暦とはずれているはずなんですが、ともかく何かを祝うと言う形が残ったのでしょう。

 今でも暦の隅に小さな文字で書いてあります・・・カレンダーとか暦は新暦ですがたいてい旧暦の表示がついておいる様な気がします。
 今でも大安とか仏滅とか書いてある暦はあるでしょう、昔ほどは利用することは少ないでしょうがそれでも気にする人は気にする・・・お祝い事仏事には生きてくるようですが。
 そう言えば昔は翌年の暦を売る時期に「○○館暦」みたいな本が本屋さんに山積みになっていたものです。
 普段の生活用にはどこかの商店で配ってくれるカレンダーを壁に貼り、それとは別に旧暦の暦を見ながら暮らしていた・・・私の子供時代のおばあちゃんたちはそうだったような気がします。

 間もなく7月7日で七夕の行事がありますが、子供時代は市の繁華街の通りで行われるものと家庭で飾り付けを作るものとありました。
 商業活動のものとは別に、家庭で必ず作っていたのですから不思議です。
  どこかの竹藪のから切って来たような竹に、願い事を書いた短冊をつるす。
 多少は飾り物をつけましたが殆ど短冊ばかりみたいな感じでした。
  こういうものを庭に飾っていたのですから、考えようによっては”ゆたか”だったような気がします。
 社宅ながら庭付きの家に住んで、こういう飾りを家族で作って飾り、浴衣に着替えて商店街の七夕を見物に行ったものです。
 生活水準はともかく、気持ちのゆとりみたいなものが今とは違うようです。

 浴衣と言えば、これは母の手縫いでほぼ毎年新調されたはずです・・・当時はパジャマと言うものが無かったので、夏に外出用に浴衣を作ってもらい、古くなれば寝巻になったと思います・・・更に古くなれば赤ちゃんのおしめだったような・・・
  そう言うことですから生活には下駄と浴衣は生きていたはず。
 私が最後に浴衣を着たのは(旅行で旅館に泊まった時を除いて)高校2年の夏だったと思う。
 細かな模様が入った浴衣で、体格も良かったのでこれを着ていると高校生には見えない・・・と言うことを良いことに夜も浴衣で繁華街を出歩いていたものです。
 それはともかく40年以上は家で浴衣を着ていないし、当然持ってもいない。
  少し寂しいような気もしますが、浴衣を着てもねそべっているだけでスネ、キット・・・
  そう言えばこの時期に母が子供たちの浴衣を縫っていた記憶があります。
 5人の子供のうち下の方の、次女、三女、に末っ子の私の三人の浴衣・・・母が「浴衣は1日に何枚も縫えるよ」と言っていた記憶がある。
  
 今、浴衣を着てどこかに出かける?・・・夏祭りでもあれば・・・
  それにしても下駄でアスファルトの道は案だかイメージに合わないような気がします。
 それに浴衣の寝巻にベッドも。
  でも私が介護をしてもらう場合にはTシャツより寝巻の方が介護とか治療を受け易いかも知れないのですね。