『謀略の昭和裏面史』から「見取図」をご覧ください。ここには、戦前から笹川良一・児玉誉士夫・岸信介が蠢いていたことが理解できる。
さて、『謀略の昭和裏面史』から>児玉誉士夫<を見てみると、ありとあらゆる記述に登場してくる。
その中から『55年体制を作った黒幕の系譜』を文字お越しをして、児玉の写真もアップする。
日本の戦後は大まかにいえば、敗戦→民主化(非武装、農地解放、財閥解体、保守系政治家・軍人・右翼の公職追放)→反共・逆コース(レッドパ-ジ、公職追放解除、再武装)→独立(日米同盟.軽武装政策)→55年体制→(保守合同、自社体制)→保革対立(60年安保)→高度経済成長――という流れだった。
この流れを作った意思の頂上にあったのは、少なくとも占領期間中はGHQだったが、これを日本人の側から見ると、保守系政治家や高級官僚や財界人らが、GHQ内のさまざまな派閥に食い込みながら、よく言えば〃自らの理想とする日本国のグランドデザインの実現〃悪く言えば〃自らの権力と権益の確保・拡大〃を狙って、互いに熾烈なバトルをくり広げていたということになる。
なかでもこの時期の際立った特徴といえるのが、いわゆる「フィクサー(黒幕)の存在だった。とくに占領初期に、最高権力者GHQと日本の政財界、あるいは日本の政界と財界、あるいは日本の政財界の異なる勢力同士などを繋ぐ, 役割を演じ、ときには政界のスポンサーとしても暗躍した彼らは、占領後期から 独立後まで隠然たる影響力を持ち続けた。
昭和20年の終戦から昭和30年の55年体制成立を経て、昭和30年代後半の高度経済成長に至る「日本再建プロセス」の裏で、彼らがどのような動きを見せていたのかここではそれを俯瞰してみよう。
GHQとの関係を利用したフィクサー
戦後の日本に君臨したGHQは、戦争指導にとくに責任があったと思われる人々をA級戦犯容疑者として拘束した。A級戦犯容疑者の日本人は全部で110人、うち82人が巣鴨プリズンに収監された。
彼らのうち、実際に東京裁判で訴追されたのは28人である。被告のひとりは精神異常と判断されて訴追免除となり、他に2人が裁判中に病死したため、実際に判決を受けたのは25人となった。判決は全員が有罪で、うち東条英機元首相ら7人が死刑となった。残り18人のうち、2人が有期刑、16人が終身刑となった。
こうして18人が巣鴨プリズンに収監されたが、そのうちの7人は出所前、あるいはその前後に病死し、社会に復帰できたのは11人である。そのなかからは、後に鳩山内閣の外相となる重光葵や、自民党政調会長、岸内閣経済顧問・池田内閣法相を歴任する賀屋興宣など、政界中枢に返り咲いた人物もいる。
とくに賀屋は強固なアメリカ共和党・ CIA人脈や台湾の蒋介石政府との人脈を持ち、自民党右派のなかでも親米派、親台派の中心人物となったうえ、日本遺族会会長として右翼人脈にも大きな影響力を持つようになった。「国際反共勢力」「自民党」「右翼」のトライアングルを結ぶ政界フィクサーとして活動した人物である。
もっとも、戦後日本のフィクサー人脈としては、東京裁判で訴追を免除された元A級戦犯容疑者の存在感のほうが圧倒的に大きい。彼らは、GHQとの特殊な関係を背景に、戦後の早い時期から 日本の政財界の裏で影響力を行使するようになったからだ。
この特殊な関係というのは、おそらくこういうことだ。訴追するかどうかは、結局はGHQの意向次第であり、不起訴を決めたGHQ側と釈放された元A級戦犯容疑者との間では、明らかにGHQ優位の関係ができた。要するに貸し借りの関係である。
GHQ側がこうした元A級戦犯容疑者を一種のエージェントとして使おうという腹づもりがあったことは容易に想像できるが、元A級戦犯容疑者の側もこのコネクションを利用して、日本社会のなかで地歩を固めようとしたものと思われる。
その代表例が岸信介、児玉誉士夫、笹川良。正力松太郎、緒方竹虎といったところで、なかでも岸と児玉は、GHQとのコネクションをバックに政界.右翼の世界でそれぞれトップクラスの黒幕にのし上がっていったことはよく知られているとおりである。【注】赤字ゴジックは管理人
そのほかにも、戦前・戦中の政治指導者あるいは軍人・右翼活動家のなかで、なぜか戦犯訴追を逃れた人たちがいる。こうした人々もまた、GHQと深い関係を持ち、それをバックにフィクサ-としての力を得るようになっていった。
その典型例が、いったん逮捕された後に病気を理由に釈放された右翼人・三浦義一だろう。三浦は公職追放の身でありながら、おそらく日本人としてはもっとも早い段階からGHQの顧問のような立場になり、政財界人の生殺与奪を握るも同然の権力を握った。
その背景には、終戦時の日銀理事で昭和21年6月に日銀総裁となる一万田尚登の親戚という立場を利用し、元大蔵省総務局長、銀行保険局長の迫水久常とともに戦時中の接収貴金属を管理していた「日本金銀運営会」の利権を手中にしていたことが決め手だったとの説もあるが、真相は不明だ。
だが、いずれにせよ政財界人あるいは元軍人、右翼活動家で、三浦義一のロ利きにより戦犯訴追や資産接収を免れたり、GHQとのコネを作ったりした人間が多 かったのは事実である。三浦がGHQと何らかの特殊な関係を作っていなければ不可能なことだ。
なお、この三浦のパートナ-的存在だった迫水久常は戦後、公職追放を経て国会議員となっている。自民党参院幹事長、池田内閣経企庁長官、郵政相などを歴任しているが、その一方では多くの戦前の政財官界人・軍人の復帰の橋渡しをした。彼もまた政界のフィクサ-的な人物と言える。
吉田内閣を作った三浦資金
こうした元戦犯容疑者をはじめ、戦前・戦中に指導的立場にあった人物の多くは、仮に戦犯指名を逃れたとしても、公職追放というペナルティを受けた。反面、戦犯訴追も公職追放も逃れた人物は、おのずと新生日本のなかで主導権を握っていく。ライバルが消えたからである。
その恩恵を受けた筆頭が吉田茂だろう。 終戦後まもない時期の日本の保守政治家の二大巨頭は吉田茂と鳩山一郞だったが、吉田は鳩山が公職追放を受けて日本自由党総裁を退いた後、「政界の長老」古島一雄の推薦を受けて後継総裁として首相に就任。鳩山が身動きできない間隙をついて、もともと鳩山党だった同党を乗っ取り、長期政権を敷いていった。
吉田が公職追放を受けなかったのは、戦時中に親英米派のリ-ダーとして知られ、憲兵隊に逮捕までされていたため、反戦政治家と認められたのだろうというのが定説だったが、最近それを覆す証言が明らかになった。三浦義一系右翼の矢板玄(「キャノン機関」傘下の「矢板機関」総帥)が『下山事件?最後の証言』(2005年刊)の著者・柴田哲孝氏に「吉田茂は日本金銀運営会のカネを使って公職追放を逃れた。また、吉田はそのカネで古田内閣を作った」といった趣旨の証言をしているのだ。
仮にその証言が正しく、さらにこの日本金銀運営会の資金が、本当に三浦義一の手中にあったとするならば、吉田茂は三浦義一に頭が上がらないということになる。となれば、三浦の"黒幕"としての権力は、時の首相よりも上位にあった可能性も出てくるのだ。
辻嘉六と児玉誉士夫の政界資金
戦後まもない時代、政界工作の資金源として大きな役割を果たした人物は、 三浦義一だけではない。右翼フィクサーの辻嘉六もそうである。明治10年生まれの辻は、もともとは大陸浪人だったが、児玉源太郎大将の私設秘書となったことから政界に影響力を持つようになり、その後、原敬首相の顧問を経て、政?会人脈の黒幕となった。
辻は、政友会の鳩山一郎や河野一郎の陰の指南役でもあったが、終戦直後の昭和20年11月、鳩山が河野や三木武吉、芦田均らと日本自由党を創設した際、その 工作資金の工面を頼まれ、上海から大量の貴金属を持ち込んでいた児玉誉士夫から資金をはき出している。
その後、児玉はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに入るが、その際に隠匿していた貴金属の多くを辻に預けた。辻はさらに、そこからかなりの資金を政界工作に使っ た。釈放された児玉は辻に預けていた貴金属類の返還を迫るが(辻本人は昭和23年12月に病没)、一説には半分しか取り戻 せなかったという。
なお、児玉はこのほかにも、隠匿していた貴金属類全体の半分程度をGHQに没収されたといわれる。当時はまだ若く、一般には無名だつた児玉誉士夫がA級戦犯容疑者に指名されたのも、GHQが児玉の隠し資産を狙つていたからだとする説があるほどだ。
ともあれ、児玉誉士夫は鳩山に多大な貸しを作つたことになり、その後も鳩山、河野、三木、さらには大野伴睦、 川島正次郎といつたいわゆる党人派に大きな影響力を持つようになつた。児玉は 北炭(北海道炭礦汽船)社長・萩原吉太郎を鳩山に紹介しているが、戦後日本の保守政党の党人派とフィクサー・政商との水面下での癒着は、このあたりを起源としているのだろう。
児玉はさらに巣鴨プリズン仲間だつた岸信介とも深い親交を結ぶが、こちらはスポンサーや利権絡みというよりは、GHQやCIAといつたアメリカ筋のコネクションに絡んだ関係がメインだつたとする見方もある。
保守合同と日韓交?の陰で動いたフイクサー
吉田茂の長期政権が翳りを見せはじめた頃、再び動き出した政局の陰で、またもやフィクサーたちが暗躍した。
たとえば、昭和28年1月には、児玉誉士夫の仲介で、吉田内閣の広川弘禅農相と鳩山一郎の極秘会談が行なわれた。場所は児玉邸である。そのとき広川の鳩山派入りの密約が結ばれた。直後に吉田茂の有名な「バカヤロー発言」問題が起こったが、そのとき、広川は現職閣僚でありながら、吉田首相懲罰動議採決にあたって本会議を欠席している。
広川はただちに農相を罷免されるが、これで吉田退陣への動きが本格化する流れが固まった。ちなみに、この極秘会談には、見届け人として三浦義一と三木武吉も立ち会っている。
その後、自由党から鳩山派が分派し、岸信介らと組んで「日本民主党」を結成。紆余曲折を経て、昭和30年1月に自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生する。この保守合同の裏でも、鳩山派の影で三浦義一や児玉誉士夫らが暗躍していたと言われる。
こうして「55年体制」がスタ-卜したわけだが、自民党総裁(首相)は、初代鳩山一郎、2代目石橋湛山と続き、昭和32年3月に岸信介が就任した。
ところで、岸の周辺には児玉誉士夫はもちろん、児玉よりも前から活動していた戦前からの大物右翼がたくさん集まっていた。そんな彼らもフィクサーとして発言力を強いていったが、その筆頭格が 矢次一夫である。
矢次は北一輝門下で、その後、「労働事情調査所」を設立して労働運動に関わり、さらには「国策研究会」を創設するなど、陸軍系の理論派右翼人として知られた人物である。彼も三浦義一同様になぜか終戦直後の早い段階からGHQに食い込んでいて、そもそもA級戦犯容疑者だった岸の訴追回避は、矢次がコーディネー卜したとも言われている。
また矢次は、アメリカの反共勢力に強固なコネクションを確立する一方で、韓国にも太い人脈を持っていた。当時は、アメリカの反共勢力を中心にして、韓国と台湾と日本を結ぶアジア版反共ネットワ-クが築かれていたが、児玉誉士夫や笹川良一などとともに、矢次もそこに関わっていた。
そのなかでも矢次は、日本の韓国ロビーの筆頭格のような立場にいたが、 矢次はそのコネを利用して、岸政権の次に誕生した池田勇人政権の時代に、首相を辞めたばかりの岸を日韓交渉の主役に引きこんでいる。そして、矢次自身も特使として韓国を訪問するなど、岸を強力 にバックアップした。
日韓条約は佐藤栄作政権時代の昭和40年に締結されるが、そこには矢次だけでなく、ほかにも何人かのフィクサーが関与した。
その中心にいたのはやはり児玉誉士夫で、韓国政府が2005年8月に公開した外交機密文書にも、児玉が日本側として裏交渉に暗躍していたことが明記されている。
また、このとき児玉と協力して裏交渉にあたった人物としては、暴力団「東声会」会長で在日韓国人の町井久之(本名・鄭建永)、元大本営参謀の瀬島龍三. 伊藤忠商事業務本部長、渡辺恒雄.読売新聞記者がいる。渡辺は大野伴睦の番記者から中曽根康弘の盟友となることで後に政界フイクサーとしても活躍することになるが、この頃から児玉誉士夫と協力して動いていたことが、前出した韓国外交文書で明らかになっている。
ちなみに、渡辺は昭和40年に関係者惨殺事件で話題になった九頭竜ダム不正入札疑惑事件でも、児玉誉士夫とともに地権者と事業主である電源開発株式会社の補償交渉の調停に動いたことがある。後の大物政治フイクサーとしての片鱗がこの頃から垣間見えるエピソードと言える。
日韓交渉には政治家では岸信介、佐藤 栄作、大野伴睦、大平正芳、福田赳夫、椎名悦三郎などが深く関与したが、こうした人脈はその後、前述した民間人フイクサーともども、いわゆる日韓利権コネクションを形成したとされる。
自民党が計画した暴力団右翼組織
岸政権時代には、再び児玉誉士夫の仕切りで政局が左右されることもあった。 昭和34年、岸政権の延命のため、河野派・大野派・佐藤派の懐柔が図られたのだが、それは帝国ホテルでの岸信介、河野一郎、大野伴睦、佐藤栄作の四者トップ密談で決定された。このとき四者の間では、次の総裁には大野、その次は河野、その次は佐藤という密約まで結ばれたという。このときの立会人が児玉誉士夫と永田雅一(大映社長)、それに萩原吉太郎だった。
また、なんといっても岸政権時代の大事件といえば、日米安保条約改定をめぐる保革の対立(60年安保闘争)である。国会前では連日数万人の安保反対デモがくり広げられ、岸政権は窮地に立たされた。
とくに同年6月19日に予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日の際の警備が問題視された。このとき、自民党は全国の暴力団や右翼団体などを動員する「アイク歓迎実行委員会」構想を立ち上げ、児玉誉士夫に暴力団のとりまとめを依頼した。児玉ほその準備に動くが、結局アイゼンハワー訪日が中止されたために、そのときは計画だけで終わった。
60年安保といえば、田中清玄の名前も取り沙汰された。右翼でありながら、ブント全学連に資金援助していたことが後に暴露されたのである。
田中は、もともと日本共産党幹部からの転向右翼で、戦後もGHQの情報部2」と繋がりを持つなど、仇敵・日本共産党とは常に敵対した人物だった。
経営する建設会社の財力を元に独自の右翼運動を展開していたが、この建設会社の工事現場が事件現場の近所だつたことから、昭和24年の「黒い霧」事件のひとつである「松川事件」の黒幕説も噂されたことがある(なお、その建設会社の経営権を譲られたのが、血盟団事件残党組の四元義隆である)。
もつとも、その後の田中はむしろアメリカと敵対し、米系石油メジャ-に支配されない日本独自の民族資本による石油自主開発に奔走。さらには世界各地の民族独立闘争支援に乗り出すなど、広く国 際的に活動した。
政界では自民党の佐藤派と近かつたが、それよりも山口組の田岡一雄組長と親密に交際するなど、コワモテ筋に人脈を持つていたことで知られた。なお、60年安保闘争で唐牛健太郎・ブント全学連委員長に資金援助していたのは、反日本共産党、反岸信介、反児玉誉士夫という田中の立場が、ブント運動とマッチしたと いうことだつたようだ。
財界フィクサ-の系譜
戦後の財界にも触れておこう。まずは GHQの民主化政策で解体命令を受け、大きなダメージを受けた財閥である。財閥解体による持株会社の解散などでコンツェルンとしての姿はなくなったが、 昭和24年頃からGHQ内でGSにとって代わってG-2の力が徐々に増したことで、"解体"のぺースは劇的に落ち、かろうじて企業グル-プとして生き残った。このときに財界とGHQとの間に入ってそのさじ加減を調整していたのが三浦義一だった。
また、戦後は基幹産業の経営人の大掛かりな入れ替えがGHQの指示のもとに行なわれたが、そこにも三浦義一を筆頭とするフィクサーが暗躍した形跡がある。こうした経緯で財界に大きな発言力を得た三浦は、その後も長くフィクサ-とし て君臨した。
以降、昭和30年代に入ると、経済界からも、とくに党人派政治家や三浦義一・児玉誉士夫といった大物の黒幕と癒着し、政官界と財界の橋渡しをしたり、暴力団絡みや株の仕手戦絡みなどさまざまな卜ラブル処理の仲介をしたりする財界フィクサ-が登場してくる。前出の萩原吉太郎や永田雅一もそうだが、ほかにも今里広記(日本精工社長)、藤井丙午(新日鉄副社長・参議院議員。一時は橋本派後継候補だった藤井孝男元運輸相の父)、水野成夫(共産党転向組でフジサンケイグル-プ創始者。池田政権の高度経済成長政策を支えた「財界四天王」のひとり)、鹿内信隆 (水野の後継のフジサンケイグループ総帥)といった面々がそうで、とくに今里と藤井は「財界の幹事長」「財界の政治部長」などとも呼ばれた。
昭和35年に池田内閣が登場し、高度経済成長の時代に突入すると、フィクサーの主舞台も政治関係からこうした経済関係にシフトしていった。児玉誉士夫や、 三浦義一の後継者といわれた西山広喜など、いわゆる"黒幕"と呼ばれた大物たちも、日本の経済成長と比例するように頻発した数々の経済事件の陰でしばしば 暗躍している。
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児玉誉士夫は熱心な日蓮宗の信者であったので、神楽坂の善国寺(通称毘沙門さま。)に寄贈した門柱がある。田中角栄が二号にした「待合・松ヶ枝」のお抱え芸者辻和子を紹介したのは、児玉誉士夫だったと神楽坂商店会の情報である。
児玉誉士夫は、東京女子医大付属病院で死去した。棺を乗せた霊柩車が出てきた出口。
参考ブログ記事「東京女子医大病院検診の帰途に、児玉誉士夫や長嶋茂雄に関連する場所をデジカメで」
(続く)