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>東京裁判開廷75周年< 吉田裕『日本人の歴史認識と東京裁判』を読む

2021年05月04日 | 歴史探訪<市ヶ谷台・防衛省・東京裁判>

昨日、「防衛省・市ケ谷記念館を考える会」共同代表春日恒男さんからメールが到達しましたので転載します。

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皆さま いかがお過ごしでしょうか。さて、本日は東京裁判開廷75周年です。それを記念して拙文をまとめてみました。ブログやメールで拡散いただければ幸甚です。春日恒男

吉田裕『日本人の歴史認識と東京裁判』を読む

防衛省・市ケ谷記念館を考える会共同代表
春日恒男

75 年前の 1946 年 5 月 3 日は、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷の日です。防衛省・市ケ谷記念館を考える会としては、記念イベントの一つでも立ち上げるべきかもしれませんが、ご承知のようにコロナ禍のため、それもままならない状況です。
そこで、窮余の一策として、5 年前(2018 年 11 月 11 日)に実施された東京裁判判決 70周年記念講演会の記録を、ここに取り上げたいと思います。これは当会が主催者となり、一橋大学名誉教授の吉田裕さんにご講演をお願いしたものです。幸い、その記録は吉田さんが加筆を加えたのち、岩波書店のご厚意により、『日本人の歴史意識と東京裁判』という題名で岩波ブックレットの一冊として上梓されました。
同書は、「東京裁判史観の克服」という歴史修正主義言説に対する批判を中心に、東京裁判を大きな歴史の枠組みの中にもう一度位置づけ直し、最新の研究成果に照らしながら、その「歴史的な相対化」を試みたものです。
「東京裁判史観の克服」とは、1980 年代から今日に至るまで保守系論壇を中心に広く流布されている言説です。その内容は、東京裁判で提示された歴史認識が戦後の日本社会を拘束しており、それを克服しない限り日本の真の独立は実現しないという主張です。
まず、吉田さんは、この「東京裁判史観の克服」という考え方に根本的な疑問を呈します。
すなわち、「たかだか数年の占領で日本人の歴史認識を全面的に改造して、その状態が 70 年も持続しているなどということがあり得るだろうか」と。そして、その根本的な疑問を解くために、1.東京裁判前史、2.東京裁判、3.忘却と想起という三つの歴史的な枠組みを設定し、各々の問題点を検証していきます。以下、その構成に従って内容を要約し、ご紹介したいと思います。
1.東京裁判前史
1)戦前の日本の日本社会におけるアメリカナイゼーションの歴史
戦前、米国は日本にとって近代化のモデルであり、反米運動は希少でした。三谷太一郎の研究によれば、一部の幕末の知識人から「米国は「攘夷」の成功的事例とさえ見られ」、「非ヨーロッパ国家としてヨーロッパ的近代化の先行的事例を提供していた」と言われています。大きな歴史の枠組み中で見れば、米国に対する日本社会の感情はけっして敵対的なものではなかったことがわかります。また、日米開戦後ですら反米キャンペーンの開始は 1943年であり、「鬼畜米英」スローガンに至っては、その登場は 1945 年でした。
2)敗戦による軍部批判の噴出
敗戦後、日本の国民からは、軍部に対する激しい批判が噴出しました。その原因は国民自身による戦争からの<学習>の結果でした。国民は戦争という過酷な体験を通じて、日本の軍部からは、その政治化、独善性、非合理性、非人間性を<学習>し、米軍からは、戦場での人命尊重の対応、占領下での民主的な振る舞いを<学習>したのです。
3)アメリカの対日占領政策。
米軍の対日心理作戦のねらいは、「軍部と天皇・国民の間にくさびを打ち込む」ことでした。この「日本の戦争責任は軍部にあり、天皇と国民には責任はない」という方針は占領政策に大きな影響を与えました。
2.東京裁判
1)東京裁判の意義と限界
国際法の発展に貢献し、国際刑事裁判所の先例となった東京裁判の意義は否定できません。しかし、その反面、アメリカ主導の裁判であり冷戦の影響に拘束されました。そして、天皇不起訴に象徴されるように、日米合作の政治裁判であったことは大きな限界でした。
2)東京裁判をめぐる日米両国の動き
米国の動きとして、「ウォー・ギルト・プログラム」がありました。これは GHQ 内の CIE(民間情報局)が作成した計画です。江藤淳の説によれば、これは日本人「洗脳計画」であり、これに基づくキャンペーンやプロパガンダによって日本人が洗脳されてしまったというものです(『閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』1989 年)。しかし、最近の研究(賀茂道子の『ウォー・ギルト・プログラム-GHQ 情報教育政策の実像』2018 年)によれば、この計画は占領下の政治状況や国民意識の分析し、それに対抗するために作成したものにすぎず、GHQ の基本方針とも合致していません。その「洗脳」効果は疑問とされています。
また、日本の動きでは、最近の関連資料の公開によって、旧日本軍関係者の弁護活動への協力の実態がわかってきました。敗戦後、旧陸海軍幹部が厚生省引揚援護局に集結し、ここが東京裁判対策の拠点となります。その後、この流れは BC 戦犯靖国合祀、やがては A 級戦犯靖国合祀、その一部は再軍備への積極的関与、防衛研修所戦史室までつながります。また、同じく、最近の研究(宇田川幸大『考証 東京裁判-戦争と戦後を読み解く』2018 年)によれば、日本人弁護団が裁判で果たした大きな役割もわかってきました。審理過程を改めて分析すると、日本人弁護団の反証を通じて、「陸軍強硬/海軍穏健」という歴史認識が裁判官や検察官にもしだいに共有されていったことがわかったのです。これにより裁判の判決は最初から結論が決まっていたわけではないことが判明しました。
3)サンフランシスコ講和条約の発効
サンフランシスコ講和条約発効状況下における日本国民の東京裁判判決の受け止め方は、「消極的受容」でした。すなわち、大多数の国民は、「裁判自体にわだかまり」を感じつつも、「指導者の戦争責任を否定する気持ちは絶対ない」。しかし、また同時に、その戦争責任を「積極的に追及する気持ちもない」というものでした。
また、サンフランシスコ講和条約は、寛大な講和でした。第 11 条で判決の受諾を求めるだけで、日本の戦争責任を明示する条項はありませんでした。しかし、日本国民は「その寛大さに対して非常に無自覚」でした。その結果、戦後日本に、対外的には講和条約で判決を受諾するという最低限の戦争責任を認めた上で、対内的にはその問題は全く不問に付すという使い分け(ダブルスタンダード)が発生し、「東京裁判の忘却」は、ここから始まったのです。
3.忘却と想起。
1)裁判の記憶の忘却
『朝日新聞』社説における東京裁判の言及は、49~55 年まで全くなく、60~85 年までも全くありません。いわばこの裁判は日本社会の中で忘れられた裁判なのでした。ちなみに、2015 年の『朝日新聞』の東京裁判とニュルンベルク裁判に関する日独世論調査によれば、実に日本人の 63%が東京裁判のことを「知らない」もしくは「名前は知っているが内容は知らない」と回答しています(ちなみにドイツ人の場合は 33%)。
2)裁判の記憶の想起
長らく忘却されていたこの裁判が想起されたのは、皮肉にも歴史修正主義の登場のおかげでした。1982 年、いわゆる「教科書検定の国際問題化」によって、小堀桂一郎が「東京裁判史観の克服」を主張し、この言説は保守系論壇で盛んに喧伝されます。しかし、この主張には「大きな限界」と「根本的な矛盾」があります。日本の歴史修正主義者の多くは日米同盟基軸論に立つため、アメリカ主導の東京裁判を完全に否定することができません。「東京裁判史観の克服」という主張を突き詰めればアメリカ批判に帰着してしまいます。靖国神社支持の文化人である大原康男も「心理的には一種のディレンマ状況にある」と述べています。かれらは「東京裁判史観の克服」をいくら唱えようとも、講和条約破棄や東京裁判の再審を主張しているわけではなく、けっしてそこまで主張できないのです。
また、同じ陣営の「靖国神社支持勢力」も「混迷」しています。日本会議と英霊にこたえる会が主催する「戦歿者追悼中央国民集会」声明(2018 年)では、1975 年から現在に至るまで天皇の靖国神社参拝がないこと、そして、明仁天皇の参拝がないままに平成の世が終わりを迎えることに深い危惧を表明しました。さらに、2018 年、靖国神社元宮司の小堀邦夫は、明仁天皇・美智子皇后の慰霊の旅によって靖国神社の意義と存立基盤が脅かされているという内容の発言をしました。しかし、その真意は「代替わりによって、新しい天皇も皇后も完全に戦後生まれの人になる。そして、戦後はこれで雨散霧消していく」ことに対する危惧であり、「明治維新や日本の国民国家の形成過程、日清・日露戦争、アジア太平洋戦争。直接の記憶はないまでも、そういう記憶を継承する人々がいた時代。それが終わろうとする」ことに対する危惧でした。そして、遺族や戦友会の消滅により財政的にも危機に立つ靖国神社の姿は、歴史修正主義の直面している困難の象徴であるのです。
 しかし、この歴史修正主義が直面している困難は、そのままそれを批判する側にも帰ってきます。それはいずれの側においても戦争体験や戦争の記憶の継承はうまくいっていないからです。そして、「その一つの原因が東京裁判ときちんと向き合わず、この裁判をどう考えたらいいのか、長い間棚上げにしてきたこと」にあり、「そのような問い直しなしに、裁判が正しかったか、不当だったかという議論に終始していること」にあります。戦争体験や戦争の記憶の継承とともに、東京裁判と正面から向き合うためには、東京裁判の「歴史の中の位置づけ」が不可欠であることが再び説かれて、同書は終わります。


さて、以上が同書の内容です。これによって「東京裁判史観の克服」に代表される歴史修正主義の困難も限界も明白になったと思います。しかし、とはいえ、同じ問題がそれを批判する側にも帰ってくるという吉田さんの言葉は重い意味を持ちます。靖国の元宮司だった小堀の発言は彼の辞任によって泡沫のように消えてしまい、世間もまるで何事もなかったかのようです。しかし、それは核心を突く重大な問題をはらんでおり、この発言を深く受け止めた吉田さんは、やはりすごい歴史家だと思います。
ただし、吉田さんはその<「戦後」の消失>の問題に注目しましたが、私は、<天皇不参拝>の問題にも、改めて注意を喚起しておきたいような気がします。天皇不参拝の原因が A級戦犯合祀にあることは間違いありません。しかし、その一方で、国民の多数派の支持を受ける政権政党の政治家たちは、近隣諸国の批判も顧みず、参拝を繰り返しています。ということは、戦後の日本の中で、東京裁判と向き合い、その意味を考え続け、それを公的な行動で示した日本人は、昭和天皇と明仁天皇(現上皇)の二人だけだったということなのでしょうか。そして、今後、令和の今上天皇は、どのような対応をするのでしょうか。東京裁判の問題は何も終わっていないような気がします。5年前の1946年5月3日は、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷の日です。防衛省・市ケ谷記念館を考える会としては、記念イベントの一つでも立ち上げるべきかもしれませんが、ご承知のようにコロナ禍のため、それもままならない状況です。

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(了)

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