葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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A級戦犯容疑者「阿片王里見甫」の謎 VOL..3

2024年10月07日 | 歴史探訪<市ヶ谷台・防衛省・東京裁判>

新潮文庫 佐野眞一著「阿片王 ―満州の夜と霧―」「第八章 孤高のA級戦犯」から、「東京裁判に関係する阿片と里見甫」についての部分を抜粋します。

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 上海から帰国してまだ半年も経たない昭和21(1946)年2月末、かねてから 里見の行方を内偵中のCIC((米陸軍情報部)は、里見の京都の隠れ家を突きとめ、戦中に於ける「地下運動とテロエ作」の容疑で本格捜査に踏み切った。だが、このときは 逮捕にまではいたらず、すぐ釈放の身となった。里見はその足で身の危険が迫った京都の隠れ家を離れ、東京に向かった。
  CICからの連絡で里見が東京に戻ったことを確認したGHQは、3月1日午前10時、 世田谷区成城の屋敷を16台のジ―プで急襲した。屋敷の周囲を、力―ビン銃やピストルを持った約50人のMPが取り囲むといぅ物々しさだった。
  里見はその場で逮捕され、そのまま巣鴨プリズンに連行された。そして、中国名・李鳴を名乗って満州と上海の社会に君臨した里見は、民間人第一号のA級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判の法廷に立つことになった。
  
  GHQが里見甫の京都の潜伏先をつきとめるきっかけとなったのは、元陸軍少将の田中隆吉に対する国際検察局(以下、IPSと略)の取り調べだった。昭和21年2月25日に行われたIPSの第三回尋問で、田中は阿片工作の首謀者とし元陸軍大将の畑俊六(中支那派遣軍司令官、極東国際軍事载判で終身刑)、元陸軍中将の原田熊吉(中支那派遣軍特務部長、シンガポールで刑死)の名前を挙げ、阿片工作の具体的内容を最も詳しく知る人物として、里見の名を指摘した。
  IPSと田中の具体的なやりとりは、『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(粟憲太郎ほか編・大月書店・平成6年11月)に詳しく紹介されている。同書から里見に関する部分だけ抜き出しておこう。問とあるのは、Ips尋問官のウィリアム・T ・ホーナディ中佐、答とあるのは田中隆吉のことである。
  
(前略)現在、里見がどこにいるか知っていますか。
 里見は、現在、京都に住んでいるものと思われます。ただし、偽名を使っていますが。
 何といぅ偽名であるか知りませんか。
 彼の偽名は知りませんが、しかし、里見は、多額のお金をためたと評判されており、何人かの議員立候補者の選挙運動資金を融通しています。
 京都地区でのことですか。 いいえ、京都地域だけにかぎらず、支援するにふさわしいと思えばだれにでもです。

(中略)

  田中のこの〝懇切丁寧なアドバィス〟を受けたIPSは、すぐさま、警視庁に照会して福家の京都の家を究きとめ、福家から聞き出した里見の京都の隠れ家を洗い出して内偵を開始した。
  ちなみに前章でも述べたが、里見遺児の〝芳名帳〟にも名を連ねている福家は、里見から多額の選挙資金をもらって代議士に当選した男である。その福家に関しては、こんな後日談が、私家版の『田中隆吉著作集』(全三卷・昭和54年12月)に田中隆吉側近の手記という形で紹介されている。
  
   (ある日のこと、茂木久平が事務所がわりに使って居た家で偶然福家俊一と顔を合せた。彼は私の顔を見るなり、――田中と云う男は怪しからん男だ、軍人の風上にも置けぬ。おれの事を検事団に密告しやがった――と云って憤慨した。麻薬機関の事件で逮捕されたが、容疑が晴れて先日釈放されたばかりだと云う(中略)。しかし福家の憤慨は間違って居たし全くの誤解であった(中略)
  
  この証言中にある茂木久平は、甘粕正彦が理事長をつとめた満映の東京支局長である。
  
 参考までにいえば、里見とは何かと縁の深い岸信介は、里見を紹介されたのは茂木からで、里見の死後、墓碑銘の揮毫を頼まれたのも茂木からだったと証言している。(『岸信介の回想』<岸信介・矢次一夫/文芸春秋・昭和56年6月>)
話をIPS尋問調書に戻す。

 東京の政府による統制や、東京の政府と中国における麻薬販売との関係について、里見に話してもらえると思いますか。
 彼は、それに関連することはすべて知っている人物です。また、支那の傀儡統治者であった汪精衛の軍事顧問をかって務め、ラバウル戦に参加した影佐(禎昭)中将に接触するのがよいでしょう。私は二、三日のうちに彼が、戦犯として拘引され、巣鴨プリズンに収監されることになっているとの情報を得ております。
 支那あるいはその他の地域における阿片販売はすべて、里見とカタオカによってによって計画されたものであります。これら両人に接触すれば、支那における阿片販売の全貌がきわめてはっきりするでしょう。この福家なる人物と影佐将軍とは、それこそきわめて緊密な間柄ですから、以上の三人を調べれば、阿片販売の霜は非常にはっきりす るものと確信します>
    ここで登場するカタオカなる人物については、IPS側から、日本軍広東特務機関に雇われ、諜報と麻薬密輸の両方に関わった人物、と説明されている。
    
 福家自らが、この阿片密売に何らかのかかわりをもったのでしょうか。
 そうだと申しあげるための証拠はもっていませんが、しかし、私は、彼が里見の 子分であったことを知っています。それゆえに、彼は、何らかのかかわりをもってい たにちがいありません。上海の福家の新聞社ですら、それは、阿片がらみの金で維持 されていたにちがいありません>
    田中はアヘン売買について調べるなら、里見だけでなく、児玉誉士夫も調べなければ ならない、そうでなければアヘン売買の全容を明らかにしたことにはならない、とも言っている。
  この件に関しては、児玉に長時間取材した大森実の『戦後秘史Ⅰ 崩壊の歯車』(講談社・昭和50年8月)が一つの傍証となっている。
  児玉は大森実のィンタビユーに答えて、次のように述べている。
  田中がキ―ナン検事とともに、児玉に東京裁判の法廷でアへン問題証になるよう要請し、証人になれば「きみはその日のうちに巣鴨から帰れる」と甘言を弄した。だが、児玉が「オレはアヘンについては何も知らん」と言ってその申し出を断わったた。田中は「せっかくきみを助けてやろうと思ったのに」と言って怒り、里見に関して表汰になっていない事件をばらすと脅しにかかってきた。
    結局、アヘン問題に関しては里見ひとりが東京裁判の法廷に立つことになった。それが決まると、田中は今度は「里見に頼んで、彼が証言することになった。きみなんかもういらないよ」ととして児玉に言い放ったという。児玉は、「田中は脳梅(毒)だった。あいつのおかげで十人くらい絞首刑にされた」とも語っている。
 自分が起訴されなければ(田中は実際に極東国際軍事裁判で起訴されなかった)、硬軟とりまぜた策を弄して〝犯人〟を仕立てあげる田中のこの態度は、多くの日本人から、 帝国軍人にあるまじき無節操さと批判された。とりわけ旧軍人たちからは、「裏切り者」「売国奴」とまで形容されて糾弾の矢面に立たされた。田中は極東国際軍事裁判に検察側証人として出廷し、「あなたは軍人時代、モンスターと呼ばれていたそうですね」と尋ねられたとき、これを否定せず、むしろ満足そうに「ふふふ」と笑ったが、帝国軍人の常識を根底から覆したという意味でいうなら、田中はたしかに「怪物」だった。
 しかし、命乞いのためなら、IPSに対してここまでのサービスと、鉢の底が抜けんばかりのゴマスリを辞さない田中の態度は、「怪物」というより「日本のユダ」といわれた田中の小心さと卑しさを如実に物語っている。
 田中はIPSのアへン売買に関する尋問に対し、甘粕正彦と東条英機の名前もあげている(第七回尋問・1946年3月16日)。
 東条は、関東軍憲兵隊司令官在任中に、麻薬取引にかかわりましたか。
 彼は、何らのかかわりももっていませんでした。
 彼は、取引にかかわった人たちに保護を与えましたか。
 与えました。
 どのようにしてですか。
 最近、満州で自殺した甘粕正彦を支援することによってです。
 東条は、どのように彼を支援したのですか。
 甘粕は、苦力を満州に送り込む組織を動かしていました。また同時に、甘粕は、 阿片を扱う満州専売局に密接な関孫をもっていました。この満州専売局は、甘鉑の団体ともきわめて密接でした。そのような理由で、甘粕は、終戦時まで東条の政治参謀長の役を務めました。また、彼(東条)を支援するために多額の金を提供することもしました。
 東条は、甘粕がこれらの活動にかかわっていることを知っていたのですか。
 彼がそれを知るのを妨げるような事実は何も思いつきません。直接にであれ間接 にであれ、彼が阿片売買にかかわるようになったのは、東条が陸軍大臣になったあとであります。
  東条夫人は、もって生まれた資質によりまるで政治家みたいでした。東条夫人は、 甘粕に対して非常に好意的でした。甘粕が彼にどのような援助を与えているかについ ては、おそらく、東条夫人のほうがよく知っていました>
  
 自分のやった戦時中の悪行の数々は一切棚にあげた田中の言いたい放題のおしゃベりは、IPS側にとってはさぞかしありがたかっただろう。だが、信に於いてはまさに噴飯ものの証言というほかない。

 田中は、蒙疆阿片の支配を企んだ昭和11(1936)年の餒遠事件を東条英機らと 仕掛け、日本人僧侶を謀殺して第一次上海事変を引き起こした陸軍きっての謀略家である。また、女間諜の川島芳子と男女の仲を噂されたように、よろしからぬ評判がいつも つきまとう男だった。この『田中隆吉著作集』に、田中のが書いた上海時代のこんな生々しいエピソードが紹介されている。
<ある日所用で田中氏の居室へノックしてはいったら、川島芳子が田中氏のべッドに一人で眠っていた。当時まだ純情だった私は一瞬ドキリとしたが、田中氏と芳子の間に如何なる私情の交わりがあったか、私は全くのところ何も知らない>
 GHQによる里見の逮捕と巣鴨プリズンへの収監は、札付き軍人の田中や、かつて恩義をかけた福家ら人品卑しき連中の密告をもとに行われたものだった。

 いま私の手元に、IPSが里見に対して行った尋問調書とこれに付帯する関係資料の全文を翻訳したファィルがある。A4判のぺ―パー90枚あまりにびっしり書き連ねられたそのファィルは、四百字詰め原稿用紙に換算して約360枚におよぶかなり膨大なものである。ここでその全文を紹介するのは、あまりにも煩雑だし、たいして意昧のあることとも思えないので、里見の人となりがよくわかるやりとりや、これだけは絶対に欠かせないと思われる重要箇所に限定して紹介していこう。
最初に紹介したいのは、付帯資料の方にある里見の個人基本台帳である。
身長 5フィート5インチ(引用者注・168センチ)
体重 112ポンド(引用者注・50キログラム)
目 茶色
髪 黒
年齢 51|
階級、部局 文民
誕生日1896年1月22日
住所 東京都世田谷区成城683
学歴 大卒
最も近い近親者 里見由美(妻)東京都淀橋区西落合2 9 3
扶養家族 一人(妻)
習得言語 中国語、日本語、若干の英語
宗教 仏教
逮捕年月日1946年3月1日

 ファイルは、尋問にあたったIPS検察官のウィリアム・T・ホーナディ中佐の认下の趣意書からはじまっている。ウィリアム・ T ・ホナディ中佐は先に紹介した田中隆吉の担当檢察官でもある。冒頭には、里見の偽名として、利根八郎、李鳴のほか、ヘイジロウ、リウサクも使っていたことが明らかにされている。
<田中隆吉少将からもたらされた情報に基づき、本官は1946年2月2日、通訳のジヨゼフ・K.サノ氏、IPS調査部に派遣されたCICエ―ジェントのバ―ナ―ド・フェルドマン氏と共に、福家俊一の所在をつかむため京都に向かった。
田中少将の情報によれば、中国における日本政府最大の阿片・麻薬売買組織である 上海の「宏済善堂」の総元締を1938年から1944年頃まで務めていた里見甫は、福家の親友であり、福家の選挙運動に資金を提供していた。また福家は里見の正確な 居所を知っており、里見が偽名で隠れて生活していることも判明した。
 里見が、中国の占領地域で日本軍によってわれた㈣ヰ・麻*売買に関して日本政府の発した命令や方針について、すべての情報を握る重要な人物であることは間違い ない。情報によると、里見は、「特務機関」によって上記の総元締に任命され、この 特務機関のメンバ―でもあった。
京都で2日間にわたり捜査を行った結果、東京での里見の居所について決定的な情報が得られた。
前述の一行は3月1日(金)朝に束京に戻り、IPS調査部の部員で急襲部隊2隊を編成し、2軒の家の手入れを行い、里見を発見した。
私は、事務所で里見に約46分の短い尋問を行った。この尋問で、里見から以下の情報が得られた。
里見は長年中国に居住していた。1931年の満州事変までは新聞記者として働き、最終的には満州の大連で新聞社(引用者注・正確には新京で通信社)を設立した。満州事変後、関東軍司令部の中央報道局編集長に任命され、自ら記事を書くと同時に、同組織に所属する記者を統括していた。彼は当時、関東軍がに阿片.麻薬売買網 を組し、管理していたことは知っていたが、その詳細は知らないと述べた。
彼はまた、1937年の蘆溝橋事件までは、天津の日本租界がへロィンやコカィン、 阿片の大きな供給源となっていた事実を知っていたことを認めた。また、答えをためらいはしたものの、特に早期には、特務機関が満州での阿片・麻薬に関与していた事実を知っていたことを認めた。
里見は、新聞で常に、軍による阿片・麻薬売買の管理に反対していたと主張する。彼の言葉を引用すれば、「兵士は貪欲だから」である。
1937年の蘆溝橋事件後まもなく、当時新聞記者として活動すると同時に北京の新聞社の株式を所有していた里見は、特務部(明らかに上海の特務機関の一部門である)部長の原田熊吉大佐の代理である楠本実隆から、当時日本軍が上海の虹口地区の倉庫に保管していた約40トンのぺルシア産阿片を売却し、日本の阿片独占売買組織の元締になるよう命令された。この阿片は、軍と三井物産の取り決めによってペルシアから上海に運ばれたと彼は述べた>
 「兵士は貪欲だから」アヘンの管理はまかせられない。里見の言葉は、この戦争は私利私欲に走り、無責任体制に陥った日人にはまかせられない、と言っているようにも 聞こえる。

 趣意書はこんな文言で最後を締めくくっている。

<尋問終了後、私は、里見を重要参考人として巣鴨刑務所に拘禁するための手続きを取った。私が米国に帰国するまでに、できる限り里見の尋問を進めたいと思う。この短い尋問でも、中国における阿片・麻薬売買という日本軍が犯した人間社会に対する犯罪について、里見の情報が、これまで欠落していた部分を埋めたことがお分かりいただけるだろう>
巣鴨プリズンに於いて里見の尋問がはじまったのは、逮捕から四日目の3月5日の午前10時30分からだった。以下、QはIPS検察官のホーナディ中佐、里見として 尋問の様子を追っていく。

Q まず、あなたの経歴について話してください。いつどこで生まれたかや、簡単な学歴、いつ頃どのよぅな仕事をしていたかなどです。
A 私は1896年(明治39年> 1月22日に、秋田県山本郡能代町で生まれました。 
Q 両親はまだ生きていますか。
A  亡くなりました。
Q  身近に住んでいる親戚はいますか。
A  弟に2人の子供がいますが、ずっと会っていません。
Q 彼らはどこに住んでいますか。
A 以前聞いたときは、鳥取の田舎に住んでいました。
Q  名前は何といいますか。
A  知りません。1人は1年前に、もう1人は昭和4年前に生まれました。
Q あなたは生まれたときから日本国籍でしたね。A はい。
Q  今までに日本国籍を放棄したこと、または中国国籍を取得したことはありますか。 
A  いいえ。
Q 結婚はしていますか。
A  はい。
Q  奥さんはどこに住んでいますか。
A  東京都淀橋区西落合293番地です。
Q 今も奥さんと結婚し、一緒に暮らしていますか。
A  はい。今も結婚していますが、住んでいるところは別です。
Q  あなた自身の子供はいますか。

A  いいえ。
Q 現在、2号はいますか。
A 大勢いますが、特定の女性はいません。

 愛人問題を尋ねられ、ここまで堂々と答えたA級戦犯容疑者は、けだし里見くらいのものだろう。初日の尋問の様子からもわかるように、里見の答えは一貫して正直で、およそ包み隠すというところがない。その受け答えは、飄々として力みというものがまつたく感じられない。
 翌3月6日は、午前9時45分から11時45分までの2時間と、午後1時30分から4時45分までの3時間15分の計5時間15分にわたる長い取り調べが行われた。

Q あなたは、自分の名前以外にいくつか偽者を使いましたね。
A  はい。特に日本にいる時は、里見という名前はめったに使いませんでした。理由の一つは、日本に帰ってきた時に大勢の人に会うのが面倒なことで、もう一つは、私が朝起きるのが遅いことです。実際、あなたが家に来た(引用者注・逮捕された)時も、 私はまだ寝ていましたよ。中国名も使いましたが、これは、私の日本名の最初の字を中国式に読むと「リ」だからで、それで「李」という中国名を使いました。
Q  「李鳴」という中国名を使いましたね。
A  はい。Li s u w U (李始吾)という名前も使いました。
Q 日本では「利根八郎」という名前を使いましたね。
A  はい。ホテルなどに泊まる時は他の名前も使いました。ほとんどどんな名前でも使いました。
Q  いくつ思い出せますか。

Q もう少し思い出して下さい。あなたは新聞記者で何が起きたか知っていた。あなたはそれが、張作霖司令官が奉天に向けて出発する際に北京で起きたことを知っている のでありませんか。
A  私は、張作霖の乗った奉天行きの列車が北京を出るのをこの目で見ました。ですから、北京で起きたのではなかったことを知っています。
Q  私の事務所に完全な記録があるので、後でチヱックしてみましょう。私の覚え違いかもしれません。新聞記者として調査する間に、河本(大作)大佐が爆弾を仕掛けた 犯人だったと分かったのではありませんか。当時、河本大佐は関東軍副参謀長でした。
A 彼が実際にそれをやったかどうかは知りませんが、彼は事件のに予備隊に編入されました。
Q それは、天皇が、彼のしたことについて激怒したからではありませんでしたか。
A  天皇がどう考えたかまでは言うことができませんが、彼の処分については陸軍省が決定権を持っていたと思います。
Q  河本大佐が爆殺に関与していたことを、当時、あなたは知っていたか、話を聞いたか、または情報を得ていたのではありませんか。
A  事件について個人的な知識はありませんが、実行したのは大佐の部下ではないか、と思います。河本大佐自身が積極的に関わったとは思えません。
Q 当時、記者として、実際に何が起きたのか真相を聞いたのではありませんか。
A 真相を知っていたのは軍の一部の関係者だけで、我々新聞記者には知らされませんでした。私達はいろいろな情報を聞きましたが、真相は知りません。当時の私と軍の関孫はそれほど良好でなく、私は反軍派の記者とみなされ、ブラックリストに載せられ ていたと思います。事件の真相は知りませんが、それが張作霖を抹殺するための日本軍の計画だったことは言えると思います。
ここで午前中の尋問は終わった。午後の尋問は、里見の帰国ルートからはじまった。
Q あなたの経歴についてもう一つ聞きたいことがあります。あなたはいつ中国を離れ、日本に帰りましたか。
A 1945年9月6日だったと思います。
Q  どうやって中国から日本まで来ましたか。
A  終戦時に、中華航空が中国から日本まで飛行機を飛ばすことを知り、乗せてもらえるかどうか聞きました。会社は私の帰国に同意してくれました。私は当時、中華航空の顧問でした。
Q 南京政府の許可は得ましたか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(続く)

 

 

 

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