映画「にがい涙の大地から」の監督をしている海南友子さんとに連絡しました。
陳 述 書
2005年8月31日
東京高等裁判所第5 民事部 御 中
第1 はじめに
私は,昭和20 年8 月当時,中国ハルピン市郊外の興隆鎮にあった弾薬基地に軍属として従事しており,その頃,基地に保管してあった毒ガス弾を,上官の命令のもと組織的に遺棄する作業を行ったことがありますので,その内容を詳しく陳述いたします。
第2 私が満州に赴いた経緯
1 満蒙開拓義勇軍に入るまで
私は,昭和2 年11月4 日,宮崎県西臼杵郡上野村に生まれ,昭和9年4月,上野村立上野尋常高等小学校に入学し,昭和17年3月,高等科2 年を卒業すると同時に,満蒙開拓青少年義勇軍に入隊しました。
満蒙開拓義勇軍の制度は,旧満州国内に1人当たり数十町歩の畑を無償で与え,将来そこに家を建て結婚し,永住させることを目的としていました。そのため,全国の各小学校毎に, 自宅が農家でなく長男でないとの条件を満たす者を対象として募集人員を割り当てて実施されており,当時,食糧不足で食糧増産が盛んに叫ばれていた時代背景のもとで,国策として実施されていたものです。
2 満蒙開拓義勇軍での訓練について
私のいた宮崎県ではこの年,約320名が集まり,満蒙開拓青少年義勇軍宮崎中隊として,昭和17年3月から,茨城県にあった内原訓練所に赴きました。
そこでは,私と同様に15, 6歳の若者が集められ, 3か月間,気候風土の全く異なる満州での生活に適応するための訓練が行われました。例えば,氷点下40度以下にもなる北満州で凍傷にならないための予防法,凍傷にかかった場合の処置方法や,満州の井戸水は鉄分を多く含んでいるので生水は絶対に飲んではいけないといった満州での生活上の教育とともに,軍事訓練,学科,荒
れ地の開墾作業訓練,食事の作り方から被服の補修の仕方に至るまで, 自分たちだけで生活できるような訓練を受けてきました。
なお,私たちが訓練を受けた訓練所の兵舎は,別紙1のような特徴的な外観をしており,当時はかなり有名な建物でした。別紙1の図は,私が当時の記憶にもとづいて描いたものです。この建物は,現在も,記念館となって一棟保存されていると聞いております。
3 旧満州への渡航について
私たちは,昭和17年6月ころ,内原訓練所での訓練を終え, まず,下関港から興安丸という船で韓国の釜山港に上陸し,列車に乗り換え,京城,平城,奉天を通ってハルピンに到着しました。私たちは,ハルピンの訓練所に入所し,そこで更に3か月間,現地に慣れるための教育,訓練を受けました。
その後,ハルピンでの3か月の訓練を終えた後昭和17年9月頃,私たちは最終の目的地である北安県鉄嶺訓練所に入り,本格的な訓練を受けました。この訓練所での訓練期間は3年間であり,その間,原野の開墾,軍事訓練,学習や自給自足のための野菜作り,また,訓練所内外を交代で24時間警備すること(これ自体軍事訓練を兼ねています。)などが毎日の内容でした。私たちは,このまま何事もなければ, 3年間の訓練終了後,土地をもらい,開拓村を建設してそこに永住することになるはずでした。
第3 興隆鎮での勤務
1 興隆鎮の弾薬庫基地で勤務することになった経緯
私たちが鉄嶺訓練所で訓練中の昭和18年か19年10月頃,関東軍から私たちの訓練所に対し, 60名から80名の訓練生をハルピンの327部隊に軍属として出向させよとの命令がありました。当時は,関東軍が軍政を行っており,関東軍の命令は絶対でした。
私を含む約80名は,その軍属に組み込まれ,ハルピンの通称327部隊(野戦兵器廠暗爾演支廠)に出頭しました。私は,そこで,ハルピンの北方約60キロメートルの位置にある興隆鎮という街から5キロメートルほど離れたところに建設されていた弾薬庫基地(興隆鎮出張所)の警備隊の補助隊員として勤務することを命じられたのです。
2 興隆鎮での任務内容
興隆鎮での主な任務は,正規の軍人の補助として,弾薬庫の警備に当たるのが主な仕事でした。
当時の弾薬庫基地の様子を思い出して私が描いたのか,別紙2 の見取り図です。基地全体の広さは約4キロ四方ほどで,その敷地の中に,図に描いたように本部建物,兵舎,衛兵所,見張所,巡回コース等が存在し,また, 1棟約20坪ほどの大きさの弾薬庫が80棟ほど散在していました。
この基地内は起伏に富んでおり,多くの丘や谷がある地域で,丘と丘との間に弾薬庫を散在させることで弾薬が爆発したときに,他の弾薬庫に被害が及ばないようにしていたのだと思います。また,弾薬庫が多数あることをカモフラージュするために,弾薬庫の周りには多くの柳の木が植えられていました。
私たちの主な任務は,見張所に詰めて,交代で,この基地内を巡回コースに沿って巡回し,基地内に散在している弾薬庫を警備することでした。巡回は毎日24時間行われており,当番の軍属が3名ずつ3ケ所の見張所(第1見張所, 第2見張所,第3見張所)に詰め,それぞれ1時間交代で,巡回,立衝,仮眠を繰り返すという方法で行われました。軍人は, 3ケ所の見張り所に1人ずつ配置され,軍属の巡回を監督していました。また, このほかにも特別区見張所があり,そこだけは軍属1人が1時間交代で見張りに立つことになっていました。
この巡回の当番は, 1週間に1回程度の頻度で順番が回ってきました。私は,当番の時は,第2見張所の警備を担当していました。第2 見張所は,別紙2の図面を,正門のあるほうを上にして見たときに右上の角にある見張所です。
警備の当番でない軍属は,軍事訓練係の軍人のもとで軍事訓練をしていました。
また,軍属には,警備以外にも馬の管理や馬に水を飲ませるなどの作業もありました。当時基地には馬が20頭ほどおり,朝は馬の飲用井戸から水を汲んで馬に飲ませるのですが,冬は零下20 度にもなるので大変な作業でした。
私たちは,休みの日でもこの基地の敷地から外に出ることは許されておらず, また,カレンダーなど暦の分かるものが一切ない中で警備の任務を続けました。
私が,基地の敷地外に出たのは,基地に勤務していた期間中一度だけで,そのときもやけどの治療のために基地の外に出ただけです。
この弾薬庫基地は,軍人が約30~50名ほど,軍属が約80名ほどで構成されており,守備隊長は,松下少尉という人でした。また私たちの担当教官は木藤兵長,中島上等兵の2名でした。
第4 毒ガスを遺棄するに至った経緯
1 毒ガス遺棄の直前の状況
以上のように,私は興隆鎮の弾薬庫基地で警備の任務にあたっていたのですが,昭和20年8月上旬頃,私に旅順の部隊に入隊せよとの召集令状が発令されたのでした。私と同様に,興隆鎮の弾薬庫基地から20名ないし30名の軍属が招集されました。
そこで,私たちは,旅順の部隊に入隊するため,直ちに興隆鎮を出発しました。先程述べたとおり,基地の中ではカレンダーや暦の一切ない生活でしたので,興隆鎮を出発した正確な日付は分かりません。
ところが,私たちが列車で旅順に向かう途中,ハルピンで,突然,召集解除となったので,できるだけ早く現隊に復帰するようにと指示を受けたのです。
私たちには詳しい理由の説明はありませんでしたので,何が起きていたのかはよく分かりませんでした。
しかし,そのときのハルピンの状況は,北から南へと避難してくる人達でごった返しており,列車も全く動かない状況であったのです。そこで,私たちと同様に,各部隊から旅順に入隊するため,ハルピンに集結していた人たちの中から,機関士の経験のある者を集めてハルピン駅の構内に放置されていた機関車,貨車,客車を連結させるなどの作業をして,ようやく列車が動き興隆鎮に帰ることができたのでした。
2 毒ガス砲弾の遺棄命令
私たちが興隆鎮に帰り着いた翌日か翌々日,全員に集合がかかり,隊長から命令が下されました。その命令は,「これから直ちに全員で,弾薬庫の中にある赤色と黄色の付いた弾薬を地面に穴を掘ってできるだけ深く埋めろ。全力をもって4, 5日で終わらせるように。」という内容でした。
このとき,隊長からは理由の説明は全くありませんでしたが,その後,作業中に,兵隊達が,棄てている砲弾が毒ガス弾であること,また,国際条約に違反したものであることを,ひそひそと話しておりました。
3 毒ガス砲弾の遺棄作業
毒ガス砲弾の処分作業は,まず,隊にいた全員が4, 5班に分けられ,各班毎に4キロメートル四方はある基地内を地区毎に分担して行うことになりました。
私たちの班が担当した地区は,別紙2の図面を,正門のあるほうを上にして見たときに,ちよど右下の部分にあたります。
私たちは,まず,任された地区に行き,弾薬庫から砲弾の入った木箱を運び出しました。
その後,穴を掘る作業を始めたのですが,私たちの班が任された地区は地盤が固く,なかなか作業がはかどりませんでした。そのとき,班長が「穴を掘るより井戸の中に投げ込んだ方が早い。」と言い,近くにあった古井戸に砲弾を投げ込むことになりました。私たちは,班長の指示に従い,次々と木箱を井戸の中に投げ込みました。作業の途中からは,木箱がかさばるため,木箱を壊して中に入っていた砲弾を取り出し,その砲弾だけを投げ込んだのです。
当時私が見た木箱と砲弾を,記憶を呼び起こして描いたものが,別紙3の「砲弾の入っていた木箱の形状と其の内部及び砲弾の形状」と題する図です。この図のように,私が見た木箱は長さが55~60cmくらい,高さと奥行きがそれぞれ30~35cmくらいの大きさで,木箱の中には砲弾が動かないように固定する支えのようなものが入っていました。また, この木箱の中には砲弾がーつ入っており,その砲弾は直径が20cmほどで長さが45~5 0cmlほどの大きさでした。特に,砲弾には赤や黄色のラインが入っていたことをよく覚えています。
私たちは,このような作業を数日間,朝から日暮れまで続けました。
4 隊長から終戦の発表
作業を始めて数日後,私たちが作業を続けていると,隊長から作業を止めて広場に集まるようにとの指示がなされ,私たちが広場に集まると隊長から重大な発表がなされました。
その内容は,「日本は残念ながらこの度の戦争に負け,米・英その他の連合軍に対し,無条件降伏のやむなきに至った。数時間後にはこの興隆鎮にもソ連軍がやってくる。」などというものでした。
その直後にソ連軍が基地にやってきたため,私たちは無抵抗のまま武装解除を受け,その日のうちに北安に集結させられました。
その正確な日付は分かりませんが, 8月中旬頃ではないかと思います。
その後は,ソ連軍により編成替えが行われ,再編された部隊毎に,ソ連各地の収容所に送られました。私たちの部隊は,シベリヤ鉄道に30日ほど乗せられた後, クラスノヤルスクという街にある収容所に入れられました。この収容所はかなり大きな収容所で, ここだけで約4000人ほどが収容されており, また,ソ連の収容所の中では最も待遇のよい収容所のーつでした。
第5 帰国の経緯
私は,昭和22年,抑留を解かれ,帰国を許されました。クラスノヤルスクからシベリヤ鉄道に乗り,ウラジオストクの南にあるナオトカ港に行きました。
私たちがナオトカ港に着くと,既に迎えの船である信濃丸が横付けされており, デッキの上にから,船長,船員,看護婦らが並んで私たちに向かって手を振ってくれていました。涙で目がかすむほどの感激でした。私たちは,信濃丸に乗船して翌日,舞鶴港に入港し,念願の日本への帰国を果たしたのです。
しかし,帰国時に, 日本政府から,毒ガス兵器の遺棄について聞かれることはありませんでした。また,その後も現在に至るまで, 日本政府から,毒ガス兵器の遺棄状況について聞かれたことはー切ありません。
第6 私が証言することを決意した理由
帰国後,私は,会社員として定年まで勤め上げ,その後タクシーの運転手などもしながら,家族と平穏に生活を送っておりました。
しかし,今から2年ほど前,私がたまたまテレビを見ていると,中国のチチハルで旧日本軍が終戦時に隠匿した毒ガスが,今になって発見され,死傷者が多数出ているとのニュースが目に飛び込んできました。
このニユースを見た私は樗然とした気持ちになりました。
私たちが同じように毒ガスを隠匿した興隆鎮は現在どうなっているのだろうか。チチハルの事件と同じような事故が興隆鎮でも起こっているのではないか。
特に,私たちが毒ガスを棄てたのは古井戸なので,地下には地下水が流れているはずであり,その地下水が汚染されたのではないか。果たして政府やマスコミ関係者は,興隆鎮にも毒ガスが隠匿されていることを知っているのだろうか。もし知らないのであれば, 自分が何らかの方法で知らせるべきではないのか。
しかし,私は77歳と高齢であるし,中国語も話せません。また,一人で調査をすると行っても中国側の許可がいるのではないか。そもそも, この毒ガス弾隠匿事件は日本と中国との間の国際問題となっているのだから私1人の力ではどうにもならないのではないか。
私は, このニュースを見て以来, 日夜このことが頭から離れず,自責の念とともに,どうするのが一番良いのかと悩み,夜も眠れず,連日悶々とした日々を過ごしました。
そんなある日,新聞をみていると,毒ガスを遺棄情報を持っている方は是非情報を提供して欲しいという小さな記事が載っていたのです。私はその記事をまさに奇跡のように見つけました。私が急いで連絡をとってみると,その人が,映画「にがい涙の大地から」の監督をしている海南友子さんでした。
その後,私は,海南さんに,毒ガスを遺棄したときの状況を詳しく話したところ,現地調査に誘われ, 10日間ほど悩んだ末に現地に行くことを決意しました。
私は,昨年,興隆鎮の現地に行きました。
そのときの私の気持ちは,私が棄てた古井戸から毒ガス弾が掘り出されたり, 地下水が汚染されるなどして被害が発生しているかどうかをとにかく確認したし、また,毒ガスを遺棄した古井戸を見つけて適切に処理してもらいたい,さらに, もし事故に遭っている人がいたら,私は, 日本人として,また,実際に弾薬を埋めた本人として心からその人達に謝りたい, というものでした。
ほぼ60年ぶりに訪れた現地の様子は大分変わっており,基地だと思われる場所は一面に畑が広がっていました。しかし,畑の土の中から当時巡回コースに敷き詰めてあった割石と同じものが多数見つかったことや,周囲の部落の人たちに聞き取りなどを行った結果,やはり私の記憶通りの場所に,当時弾薬庫基地があったことが確認できました。現地の人の話では,弾薬庫基地の跡地を畑にした後, 5年間は全く作物が育たなかったということでした。
また, このときは, 日本軍の残した砲弾で片手と片目を失った老人に会うことができ,涙ながらに謝ることができましたし,興隆鎮の鎮長さんとお会いでき,鎮長さんから「貴方のような勇気ある方にお会いでき中国を代表してお礼申し上げます。」 と私の証言に対して感謝の言葉をいただきました。
更に,その後,この訴訟の弁護団と知り合い,本年7月,弁護団とともに再び興隆鎮の現地に調査に行きました。
このときは,現地で,当時本部か兵舎などの建物があった場所のあたりに, 建物の土台の跡を見つけることができ,やはり私の記憶が裏付けられました。
残念ながら,このときも,私たちが毒ガスを遺棄した古井戸を見つけることはできませんでしたが,現地の新聞記者から大変うれしい話を聞くことができました。それは,私が昨年興隆鎮に来たことが現地で報道され,毒ガス弾についての情報提供が呼びかけられたところ,本件現場付近及び周辺地域の住民から10数発の砲弾が届けられ,そのうち9発が毒ガス弾であることが判明したというのです。
私が勇気を出して,毒ガスを遺棄したことを証言したことにより,いくつかの毒ガス事故を未然に防ぐことができたと思うと,本当に喜ばしく,また,安堵の気持ちがわき上がります。
第7 最後に
以上が私が体験した事実です。
既に述べましたが, これまで日本政府から毒ガスの遺棄状況について聞き取り調査等を受けたことは全くありません。
私は,毒ガス事故の報道を見て以来,私がかつて毒ガスを遺棄した事実をどこに伝えたらよいのかも分からず,一人で悩み,大変に苦しみました。
もし, 日本政府から,毒ガスの遺棄についての情報提供を求められていたならば,当然今お話しした事実を伝えていたと思いますし, また,それによりーつでも多くの毒ガス事故を防ぐことができたのではないかと思っております。
今後は,毒ガスによる不幸な事故が決して起こることのないよう,強く望んでおります。
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「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・東京高裁陳述書」甲第121号証鈴木智博氏
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証甲斐文雄氏
(続く)