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エー!本当? 「戦前も平和を念願しての外交」昭和天皇、元侍従日記に

2018年08月24日 | 天皇制・皇室問題
「戦前も平和を念願しての外交」昭和天皇、元侍従日記に
共同通信が小林氏の遺族から日記を入手し、23日、その一部を報道各社に公開した。
昭和天皇が85歳だった1987年4月、戦争責任をめぐり、「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と発言したとされる側近の日記が残されていることが分かった。昭和天皇に長く仕えた小林忍(こばやししのぶ)侍従(故人)が記したもので、家族が保管していた。

巷間言われているのは、御前会議の「帝国国策遂行要領」は反対だった。近衛内閣が総辞職した後の東条内閣に「白紙還元の御諚」を指示したことから「平和を希求していた昭和天皇陛下」となっている。

近衛上奏文を、あれこれの理屈をつけて検討せず、戦争終結に向けた指示をしなかったことの「戦争責任」がいちばん重いと考えている。直ちに連合国と交渉に入ったならば「3月10日の東京大空襲」「6月の沖縄戦」「広島・長崎への原爆投下」「ソ連参戦による満州の悲劇」は避けられたと考えている。

『近衞文麿は1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。』

1935年(昭和10)発刊の「輝く陸軍寫真帖」から







遊就館展示室「大東亜戦争1」「日米交渉」パネルの最後に「開戦の詔書」が展示されている。
管理人は、第一次安倍内閣が成立した頃から、コンコンと指差し棒で叩きながら「安倍晋三総理のお爺さん! 商工大臣岸信介です!」と力説していたら、遊就館部長坂明夫さん(当時)が飛んできて「長谷川さん!叩かないで下さい!」と怒られた。その後はレーザーポインターで説明をしている。


「遅すぎた御聖断」






昭和46年8月10日 東芝音楽工業発売のレコード盤付録 「萬世の爲に太平を開くー天皇陛下の御聖断ー」から

「終戦御前会議」 白川一郎画







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